『いじめられっ子の願い、最悪の事態に』…第7章・鏡
偽渚は、夜の校舎を1人で歩いていた。黒いパーカー、鋭い目つき、彼女の姿は完璧に高山渚そのものだった。
彼女の背後、屋上の「呪いの鏡」は、今もなお不気味な存在感を放っていた。その鏡は、かつてはどこにでもあるごく普通の鏡だった。古びた木枠に嵌められた、ありふれたガラス。学校の創立時に飾られ、長い年月、埃と傷を重ねただけのただの物体だった。だが、その鏡は不幸な運命を辿った。悪意ある人間の手にばかり渡り、憎悪、嫉妬、絶望の吐息を浴び続けた。いじめの嘲笑、裏切りの囁き、報われぬ願いと怒りの呪詛――鏡は、それらを吸い込み、まるで生き物のように変質していった。正確な時期は定かでは無いが、その表面は現実と異界を繋ぐ扉となり、悍ましい悪霊たちの世界への出入り口と化してしまった。「願い事を叶えるという噂」は、どこかの誰かが勝手に作り上げた、歪んだでっち上げに過ぎなかった。鏡は願いなど絶対に叶えない。ただ、人の恐怖と絶望を喰らい、目を覆わんばかりの悲劇を紡ぐだけだ。
偽渚は、楽しそうに夜の校内を歩き続ける。彼女の目は、獲物を探す肉食獣のように鋭かった。だが、ふと足を止め、眉をひそめた。
「妙ね……?何で誰もいないの?」
彼女は首を傾げ、廊下の闇を見回した。現在の学校は、連続する悲劇で騒然としていたはずだ。教師や警備員、マスコミ――誰の気配があって然るべきだ。それなのに、校舎はまるで死に絶えたように静かだ。空気が重く、どこか不自然な気配が漂っている。
「ふん、つまらないわね。せっかくこうして出てきたって言うのに…」
すると、廊下の奥から足音が響いた。ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。偽渚の目が輝き、口元に醜悪な笑みが浮かぶ。
「あら、ようやく獲物かしら?」
彼女は振り返り、闇の先に立つ人影を見つけた。用務員の篠崎だ。彼は、いつもの作業着に身を包み、黒いタブレットを手にしている。しかし、その顔は、まるで仮面のように無表情だった。偽渚は、獲物を見つけて、ニヤニヤと笑いながら近づいた。
「あら、用務員さん、こんな所で何してるの?うふふ、私と遊ばない?楽しいこと、教えてあげるわよ……?」
彼女の声は、誘惑と嘲笑が絡み合い、まるで蜘蛛の糸か何かのように粘ついている。
だが、篠崎の反応は彼女の予想を裏切った。彼の目が鋭く光った。
「ようやく出てきたな……これで任務を遂行できる」
その声は、低く、冷たく、まるで機械のような無機質さを帯びていた。偽渚の笑みが一瞬で凍り、彼女の瞳に警戒の色が浮かぶ。一歩後ずさると、篠崎に問いかける。
「任務…ですって?何の話かしら?」
篠崎はすぐに返答した。
「…お前の正体を知っている…と、言えば解るだろ?」
――――――
数十分後、屋上の「呪いの鏡」の前に、偽渚が戻ってきた。だが、今、彼女の表情は異様だった。虚ろで、無表情。まるで魂を抜かれた傀儡のように、瞳には光が無い。彼女の手には、何やら黒くて丸い物体が握られていた。鈍く光る金属の表面、ずしりと重そうな質感――それは、不気味な気配を放っていた。偽渚は無言のまま、鏡の表面に触れ、まるで水面に沈むようにその奥へと滑り込んだ。
鏡の中の世界――灰色の荒野に、彼女は再び立った。鉛色の空は今も重く垂れ込み、ひび割れた地面からは腐臭が立ち上る。だが、荒野は静かだった。偽渚は、まるでロボットか何かのようなぎこちない動きで一歩踏み出し、虚ろな目で周囲を見回した。彼女の手の中の物体は、微かに震え、かすかな機械音を漏らし始めていた。チッ……チッ……――低く、規則的な音が、荒野の静寂を切り裂く。
その音に引き寄せられるように、闇の奥から黒い人影たちが現れた。他の悪霊たちだ。無数の影が、徐々に偽渚の周囲に集まってくる。
「何だ……?」
「お前、もう戻ったのか?」
「持っているそれは何だ……?」
囁き声が、まるで風の唸りのように重なり合う。だが、偽渚は答えず、ただ無表情に立ち尽くすだけだ。
不可解に思った悪霊の1人が、偽渚に近づき、怪訝そうに物体を覗き込んだ。
「おい、これは……何の音だ?」
すると、その瞬間、チッ……チッ……という音が、急に速さを増した。チッチッチッチッ!――それはまるで…。物体の正体を察した悪霊たちの囁きが止まり、裂けた口が一斉に凍りつく。
「おい、待て……これは……まさか!?」
「危険だ!離れろ!」
「くそっ…!」
パニックの叫びが上がるが、もう遅かった。音がピタリと止まった瞬間、偽渚の手に握られた物体から、目も眩むような凄まじい閃光が迸った。
それは、想像を絶する大爆発だった。
「ギャアアアア!!」、「ウワアアアアアア!!」と、悪霊たちの悲鳴が荒野を切り裂く。その閃光は、一瞬で灰色の空を焼き、ひび割れた地面を溶かした。黒い人影たちは、光に飲み込まれ、裂けた口から絶望の叫びを上げながら消滅していく。偽渚自身もまた、閃光の中でその姿を失った。彼女の虚ろな顔が、最後に歪み、恐怖を宿したかのように見えた。やがて光に飲み込まれ、跡形もなく消え去った。
鏡の中の世界は、爆発の衝撃で崩れ始めた。荒野が砕け、鉛色の空が裂け、すべてが白い光に呑み込まれる。やがて、光が収まった時、そこには何も残っていなかった。鏡の世界は、完全に消滅した。そして、その衝撃は現実世界をも揺さぶった。屋上の「呪いの鏡」が、まるで断末魔の叫びを上げるようにビリビリと震え、ガラスが蜘蛛の巣のような亀裂で覆われた。次の瞬間、校舎全体が低く唸るような振動に飲み込まれる。コンクリートの壁にひびが入り、鉄骨が軋む音が夜の静寂を切り裂いた。「ゴゴゴ……!」――大きな轟音が響き、校舎は一気に崩れ落ちた。教室の窓が粉々に砕け、屋根が陥没し、埃と破片が舞い上がる。まるで巨大な怪獣に踏み潰されたかのように、学校は瞬く間に瓦礫の山と化した。
――――――
衝撃波は周辺にも広がり、近隣の住宅の窓ガラスが割れ、街路樹が根元から折れた。街は大パニックに陥った。
「何だ!?地震か!?」
「学校が……学校が崩れたぞ!!」
「そんな馬鹿な!?何が起きたんだ!!」
「おい、早く逃げろ!」
道路では、車を運転していた中年男性が慌てて急ブレーキを踏んだ。
「何だよ、これ!!」
彼の目の前で、飛んできた瓦礫がフロントガラスを叩き割り、車が横転した。街灯が次々と倒れ、電線が切れて火花を散らす。住民たちは我先にと逃げ出し、泣き叫ぶ声が交錯した。
――――――
パトカーや消防、救急車のサイレンが響く中、そこから遠く、街を見下ろす丘の上に、篠崎が立っていた。彼の作業着は夜風に揺れ、黒いタブレットはすでに懐に仕舞われている。崩れゆく学校の光景を、彼は無表情に見つめていた。
「任務……完遂」
そう呟くと、彼は踵を返し、夜の闇に紛れるように姿を消した。まるで、最初からそこにいなかったかのように…。
――――――
翌朝、朝焼けの光が、かつて学校だった場所を照らし出した。そこには、ただの瓦礫の荒野が広がっていた。コンクリートの破片、ねじ曲がった鉄骨、粉々に砕けた机や椅子――昨日まで生徒たちが学んでいた場所は、今や廃墟と化していた。関係者たちは、瓦礫の前に集まり、茫然自失の表情で立ち尽くした。校長の顔は青ざめ、PTAの代表は膝をついて震え、教師たちは互いに顔を見合わせ、言葉を失っていた。
「し、信じられん…こんな……こんなことが……」
校長が、掠れた声で呟いた。
「学校が、一体……どうして……?」
彼の声は、風に掻き消された。
やがて、渚が行方不明になっている事実も判明し、世間は瞬く間に騒然となった。ニュースは「学校、謎の崩壊」と報じ、Xでは「#学校崩壊」がトレンドを席巻した。ネット上では、憶測と恐怖が渦巻く。「これも呪いだろ!!」、「いくらなんでも、学校が一夜で消えるなんてありえない!!」――匿名のアカウントが、瓦礫の写真や崩壊の瞬間の動画を拡散し、コメント欄は混乱と好奇心で埋め尽くされた。
そして、一つの奇妙な事実が、人々の間に不気味な波紋を広げた。崩壊による死者が一人もいなかったのだ。負傷者は多数いたが、犠牲者は0だ。学校周辺にいたはずの住民、警備員、遅くまで残っていた教師――その誰もが、まるで予め知らされていたかのように、安全圏にいた。学校のすぐ近くで暮らす住民たちも、全員が生還していた。ある者は崩壊の数分前に「急に外に出なきゃと思った」と証言し、別の者は「誰かに背中を押された気がした」と呟いた。だが、その理由を知る者は誰もおらず、不気味な静寂が街を覆った。
次でこの話もラストとなります。




