『いじめられっ子の願い、最悪の事態に』…第6章・渚と幸代
夜の帳が下り、街は静寂に沈んでいた。渚は、両親の不在をいいことに、自宅を抜け出した。彼女の心は、恐怖と幸代へのどす黒い逆恨みの憎悪で煮えたぎっていた。頭の中を占めるのはただ一つ――屋上の「呪いの鏡」を叩き壊して、この状況を終わらせること。幸代の死から始まったこれまでのすべてを、鏡の破壊で清算できると信じていた。
彼女は黒いパーカーを被り、夜の闇に紛れて学校へ向かった。学校に到着すると、鉄柵をよじ登り、錆びた隙間をくぐり抜ける。普段なら警備員の巡回やセンサーライトが侵入者を阻んだはずだが、今夜の学校は不気味なほど静かだった。しかし、渚の目は憎悪に曇り、校舎の異変に気づかない。
連続する悲劇で、職員や警察、マスコミがまだいるはずの校内に、人影が全く無いことを。
だが、闇の奥では、別の目が動いていた。用務員の篠崎だ。彼は校庭の片隅、薄暗い街灯の下で、黒いタブレットを握りしめていた。画面には、校内の監視カメラが捉えた渚の姿――鉄柵を越え、校舎の裏口に滑り込む彼女が映し出されている。
「来たか……」
呟く篠崎の背後には、異様な光景が広がっていた。学校に残っている者たち――教師、警備員、遅くまで残っていた生徒たち――が立っていた。だが、彼らの目は虚ろで、まるで魂を抜かれたようだ。誰も言葉を発さず、ただ茫然と前を見つめている。
篠崎は彼らに対し、静かに命じた。
「この学校から、できるだけ遠くへ離れろ、急げ」
その声に従い、彼らの足は、まるで操られるように動き出し、どこか不穏な足取りで校門の外へ消えていった。篠崎は再びタブレットに視線を落とし、指で画面を操作しながら「さて……今夜だな」と呟いた。
――――
一方、渚は校舎の裏口から侵入し、暗い廊下を進んでいた。懐中電灯の光が、汚れた床や剥がれた掲示板を照らし出す。彼女の手には、どこからかくすねた古いスコップが握られていた。彼女の心臓は暴れ、額には冷や汗が滲む。だが、目は燃えていた――幸代への憎悪が、恐怖を押し潰していた。
「緑川、あんたのせいで全部壊れた……あんたの呪いが何もかも滅茶苦茶にした!!」
彼女は歯を食いしばり、階段を駆け上がった。
屋上に辿り着いた渚は、息を切らせながら「呪いの鏡」の前に立った。古びた鏡は、埃と傷にまみれ、月光を拒むように鈍く佇んでいる。鏡面は渚の姿を歪に映し出した。彼女の顔は、憎悪と恐怖で引き攣り、まるで別人のようだった。
「緑川……全部、あんたが悪いのよ!!」
渚は叫び、鏡に向かって唾を吐いた。スコップを両手で握り、大きく振りかぶる。
「緑川!この呪いの鏡と一緒に消えなさい!!」
だが、その瞬間――鏡の表面が波打った。まるで水面に石を投じた時の波紋のように、黒い鏡面が揺れ、不気味な光が滲み出す。渚は驚愕して動きを止めた。
「ど……どういうこと!?」
スコップが手から滑り落ち、金属音を立てて床に転がった。鏡の奥から、何かが現れた。黒い霧が渦を巻き、どんどん形を成していく。それは――幸代だった。
だが、生前の幸代ではない。黒く落ちくぼんだ目、耳まで裂けた口、猛獣のような尖った歯――化け物も同然の姿で、鏡の表面に浮かび上がった。彼女の唇が、悍ましい笑みを刻む。
「来たのね……これでゲームは終わりよ……」
渚は後ずさり、足がもつれて尻餅をついた。
「う、嘘!?やめて……来ないで緑川……!」
渚の叫びが、屋上の闇に虚しく響く。
化け物の様な幸代が、鏡から這い出してきた。その目は渚を確実に捉え、逃がさない。彼女の手――いや、爪のように鋭い黒い影が、ゆっくりと渚に伸びてきた。
「い、いやあああ!?やめて!お願い!!」
渚は逃げようとしたが、腰が抜けて足も動かない。幸代の影が迫り、遂に渚の腕を掴んだ。その冷たい感触が、彼女の全身を凍りつかせた。
「さあ、一緒に……来なさい……」
幸代の声が、耳元で囁く。次の瞬間、鏡の表面が再び波打ち、渚の体が吸い込まれるように引きずり込まれた。
「た、助けて!誰か来て―――!!」
絶叫が、屋上に響き、そして唐突に途切れた。鏡の表面は再び静寂を取り戻し、まるで何事もなかったかのようだ。スコップだけが、屋上の床に転がっていた。
――――
渚は、まるで奈落の底に引きずり込まれるように鏡の奥へ落ちていった。一瞬にして永遠とも思える落下の果て、彼女の体は硬い地面に叩きつけられた。「うあっ……!」――鋭い痛みが全身を貫き、息を吐きながら目を開ける。そこは、果てなき荒野だった。空は鉛色で、ひび割れた土と黒い灰が地面を覆っている。遠く、歪んだ木々の影が揺らめき、まるで生き物の蠢く姿のように不気味だった。空気は異様に冷たく、腐臭と鉄の匂いが漂っている。渚は這うように立ち上がる。
「……どこなの……ここ?」
すると、彼女の目の前で、黒い霧が渦を巻きながら形を成した。幸代だ。
「……ようこそ、私達の世界へ……」
――その声は幸代のものだったが、異質な響きを帯びていた。まるで無数の声が重なり、金属を擦るような不快さだ。渚は後ずさり、膝がガクガクと震えた。
「み、緑川!?やめて……近づかないで……!」
だが、その幸代の姿が突然揺らぎ、形が崩れていく。
「えっ!?」
驚愕した次の瞬間、彼女は別人の姿へと変わった――それは渚の姿だった。完璧に同じ顔であり、黒いパーカーまで同じだ。偽の渚が、ゆっくりと唇を歪め、悍ましい笑みを浮かべた。
「どう?驚いたかしら…うふふふ」
「な…な…!」
渚は理解が追いつかない。目の前の偽物は姿は自分と全く同じだが、その声は低く、まるで野太い男のようだった。
「ど、どういうこと……!?あんた、緑川じゃない……誰なのよ!?」
偽渚がクスクスと笑い、両手を広げた。すると、周囲の闇が蠢き、黒い人影が無数に現れた。数十、いや、数百もの影が、荒野を埋め尽くすように集まってくる。どの影も顔は見えないが、口だけが三日月のように裂け、歯を剥き出した笑みが浮かんでいる。まるで悪夢のような光景が渚を取り囲んだ。
「やめて!こいつら……何なの!?」
その問いに、偽渚が語り始めた。
「私たち?あなた達の言葉で言うなら『悪霊』とでも表現すればいいかしら。この世界の住人よ。人間の絶望、苦痛、憎悪、恐怖…それが私たちのご馳走なのよ」
その声は楽しげだったが、底知れぬ残酷さを帯びていた。
「幸代は『呪い』なんて最初から願ってはいなかったわ。ただ、あなた達のいじめから逃げたかっただけ。『この地獄から逃がしてください』って、鏡に向かって祈ったのよ。で、それを聞いた私たちはちょっとした遊びを思いついたの。この子に化けて、あなた達4人を追い詰める――ついでに、関係ない人間も巻き込んで、世間を騒がす大惨事を演出しようってね。そうすれば、とても美味しいご飯が食べられるから」
その言葉に、渚の頭が真っ白になった。
「じゃあ……あんたたちが!?緑川じゃなくて……!」
「そうよ。あの子を殺したのもね」
「な!?」
『殺した』?幸代は心不全で死んだ…つまりは病死の筈だ。
「幸代の心不全は私たちがあの子の命を吸い取ったからよ。その後の事も、私たちが全部仕組んだの…虎も、籠城も、車の暴走もね。それなりに手間はかかったけど愉しかったわぁ~、どいつもこいつも簡単に駒になってくれてさぁ?」
偽渚の酷薄な笑い声が荒野に響き、周囲の黒い人影たちも一斉に嗤う。まるで地獄の合唱のように、甲高い。
「そんな……緑川じゃなくて……全部あんたたちが……!」
渚は愕然とする。幸代は無実だった。彼女を逆恨みし、憎悪を燃やしていたのに、その幸代は最初の犠牲者に過ぎず、真犯人は正真正銘の化け物だったのだ。絶望と恐怖が全身を支配し、彼女は這うように地面を掻き、声を絞り出した。
「お、お願い……許して!私をここから出して…!!」
その姿に、悪霊は渚の顔で醜く笑った。
「うふふ、遅いわよ、渚?私たち、もっと濃厚な絶望が欲しいのよ、命乞いもいいけど、まだ足りないわ」
「ううっ…」
悪霊は一歩近づき、渚の顎を掴んで顔を上げさせた。冷たい指が、まるで死の感触のように肌に食い込む。
「そうそう、もしあなたがここに来なかったら、面白い計画があったのよ。今夜、あなたの家に、ジャンボ旅客機を墜落させる予定だったの。ドカーン!ってね、あなたも両親も、旅客機に乗ってる乗員乗客、近隣住民も、全部木っ端微塵!あ~残念だわ、ほんと、見たかったなあ、大惨事……」
「ひ…ひぃぃ…」
渚の目から涙が溢れ、声にならない叫びが喉を裂いた。悪霊たちの残酷さは、彼女の想像を遥かに超えていた。人間の命も、苦痛も、絶望も、ただの遊び道具に過ぎない。彼らの笑い声が、まるで嵐のように荒野を駆け巡る。偽渚が手を振り上げると、黒い人影たちが一斉に迫ってきた。
「さあ、ゲームのフィナーレよ」
「やめて…助けてぇ…!」
「だ~め、じゃ、いただきまーす!」
その声とともに、渚の体が黒い影に飲み込まれた。彼女の恐怖と絶望に満ちた叫びが荒野に響き、やがて途切れた。渚の体は、泥人形のようにボロボロと崩れ、灰色の地面に溶けるように消えていった。荒野には、ただ悪霊たちの哄笑だけがこだまし、偽渚が満足げに唇を舐める。
「美味しかった……次は、もっと大きな舞台で遊ぼうかしら?」
――――
屋上の鏡の表面が再び波打ち、やがて偽渚がゆっくりと這い出てきた。
「さてと……」
悪霊達は現実の世界で本格的な暗躍を開始しようとしていた。




