エピローグ
目が覚めて、最初に見たのは、知らない天井だった。
「あれ? ここは……?」
真っ白な部屋の、真っ白なベッドの上で、俺は横たわっていた。
ベッドの脇に立てられたポールに、液体の入ったパックが吊り下げられ、そこから伸びた管が、俺の左肘の辺りに注射針で繋がれていた。
少しずつ状況が飲み込めて来た。どうやら、俺は病院にいるらしい。なぜそんなところに居るのかは、まだ思い出せないが。
とりあえず、誰もいないのだが、どうすればいいのだろうか。入院なんてしたことないが、たしか、枕元のボタンで、ナースコールが出来るんだったか。
「――――ッ!」
ボタンを探して身をよじると、腹部に激痛が走る。その痛みで思い出した。
犯人ともみあいになって、持っていたナイフで刺されたのだ。
「だせえ……」
思わず声を漏らす。
愛乃には、危なくなったら逃げるようなことを言っておきながら、心のどこかでは、俺は大丈夫だと思っていた。
根拠は無くは無い。
先週の土曜日、広中が立てた仮説だ。愛乃が最初に見た未来では、俺が事故に遭う未来を見て、それを回避するところまで、含まれていたのではないか、という仮説。
その仮説が間違っていたのか、それとも、俺の行動が行き過ぎていたのかはわからないが、要するに俺は、調子に乗って怪我をしたわけだ。
俺はひとしきり落ち込んだところで、痛みをこらえつつナースコールのボタンを押した。
どうやら、俺は三日間意識不明だったらしい。診察に来た先生がそう教えてくれた。
つまり、ゴールデンウィークを三日も無駄にしてしまった、ということだ。しかも、しばらく入院しなければならないらしい。腹部は細かい血管が多く、出血こそ多かったものの、傷自体は深くないらしいのだが、俺の連休は完全に潰れてしまったらしい。
しばらくして母さんが病院に来て、びっくりしただの、心配しただの、散々言われた。
今回のことは、自分から危険に飛び込んでいったようなところもあって、少しいたたまれない気持ちになった。
それから、一つ下の妹が、学校終わりに病院に来て、びっくりしただの、心配しただの、散々言われて、またいたたまれない気持ちになる。
まあ、馬鹿なことしたな、とは思っているが、いや、今は反省している。
一通り思ったことを口にしたところで、母さんが売店でお菓子やらジュースやらを買って来てくれる。妹も気持ちを落ち着かせたかったのだろう、その中のチョコレートを一つ口に入れた。
「そういえば、あの人って、お兄ちゃんの彼女?」
嘆息ついて妹、桃花がそう言う。
「彼女? 誰が?」
俺の記憶が正しければ、そんな相手はいなかったと思うのだが。
「ああ、お兄ちゃんに彼女なんているわけないか」
「うるせえ」
小馬鹿にしたような言い方をする桃花にムカついて、俺はフンッと鼻を鳴らした。別に彼女がいようがいまいが、お前には関係ないだろう。
しかし、あの人では分からない。何か特徴でも言ってくれれば、分かるのだろうが。
「ああ、あのなんかかわいい子ね。付き添いで救急車に乗ったって言う。何て名前だっけ?」
母さんも心当たりがあるようで、桃花の言葉に食い付きを見せる。しかし、なんかかわいい子、とは、少し前にもどこかで聞いたような。
ともかく、名前が分かっているなら、簡単な話だ。
「えっと、たしか、愛乃、さん? なんか、会った途端に凄い謝られちゃった。休みの間も、お兄ちゃんの様子はどうかって何回も聞かれて、心配してたんだから、後で連絡してあげた方がいいと思うよ」
「そう、か。わかった」
愛乃、か。一応、無事ではいるらしい。それが分かっただけでよかったと思う。
けど、たぶん、自分のせいだ、とか思っているのだろう。
自分を庇ったせいで俺が怪我したとか、そもそも、自分が巻き込んだせいだ、とか思っているかも知れない。
だが、危険なのは分かっていたことだし、それを分かった上で、俺は愛乃の手助けをするって決めたのだ。それに、俺が軽率だったこともある。最初の切っ掛けは愛乃が言い出したからだが、そこから先は俺が決めたことで、愛乃が責任を感じることなんてないと思うのだが。
まあ、そんな風に割り切れる人間には見えないな。愛乃は。
その後、すぐに父さんが駆けつけて、またいたたまれない気持ちになった。
家族が帰ってから、母さんが持って来てくれたスマホで、事件のことを調べてみる。
どうやら、俺が刺された後、すぐに警察官が駆け付けて、男は取り押さえられたらしい。被害者は一名が腹部をナイフで刺され、意識不明の重体。ということは、俺だけか。
まあ、これなら、今回愛乃が見た未来は、回避できたと言っていいのではないだろうか。
彼女がどう思うかは別として。
そうだ、愛乃に連絡しとけとか言っていたな。
俺はメッセージアプリを開き、愛乃へのメッセージを打つ。
さて、何と送ったものだろう。
《おはよう》
いや、朝の挨拶じゃないんだから。
《無事か?》
自分の心配しろ。
《久しぶり》
いや、だから、違うだろ。
上手い言い回しが思いつかず、文字を打っては消すのを繰り返す。
そう言いつつ、実のところ、愛乃に連絡を取るのが、少し気まずかったりする。
こんな大怪我をして、彼女に心配かけてしまった。責任を感じて落ち込んでいるのではないかと思うと、何と言うか、合わせる顔が無い。何と声を掛けたらいいのか、分からないのだ。
結局、何もメッセージは送らず、枕元にスマホを放り出す。
別に、そんなに急ぐようなことではないだろう。明日にでも送ればいい。
そう思って天井を仰いだところで、スマホの着信音が鳴り響く。
着信の主は愛乃だった。愛乃が電話をかけてきたのだ。
こちらが何も言わないうちからの着信に、俺は肝を抜かれる思いがしたが、俺は電話に出る。
「もしもし」
《棗くん⁉》
俺が電話に出るや否や、愛乃の大声が俺の右耳を貫いた。
思わずスマホを耳から遠ざけた。
「……よう」
何と言うか、慌てている愛乃の声を聞いて、逆に俺の方は落ち着いていた。
《よう、じゃないよ! 心配したんだから!》
再びの大声に、俺はまたスマホを耳から離す。
もしかして、一言ごとにこの大声が飛んで来るのではないだろうか。
「悪いな。心配かけた」
《ほんとだよ……》
またもや大声で返されるかと思って身構えていたが、今度は消え入るような声で、愛乃はそう言う。
自分を落ち着かせようとしているのか、深い息遣いの音が聞こえる。
《もう、大丈夫、なの?》
「ああ。まあ、何日か入院しないといけないみたいだけど」
《そっか》
そこから、沈黙が訪れる。
お互い、言いたいことはある気がするのだが、何を話せばいいのか分からなくなってしまったのだ。
「そういえば、どうして電話してくれたんだ?」
別にどうでもいいようなことだったが、沈黙に耐えきれなくなって、俺はそう聞く。
《あ、えっと、妹さんが、連絡してくれて》
「そうか」
桃花のやつ、愛乃の連絡先を知っているのなら、俺に連絡しろなんて言わずに、最初からそうすればいいのに。いや、俺がどうせ連絡しないことを見越して、自分で連絡したのだろうが。
《あの、棗くん?》
不意に、愛乃の方から声を掛けてくる。
「ん? 何だ?」
《えっと、明日、お見舞いに行っても、いいかな?》
「ああ、別に構わないぞ。って言うか、退屈だから是非来てくれ」
病院の先生が診察に来たり、家族が面会に来てくれたりしている間はよかったが、それ以外の時間は、本当に退屈だった。
桃花が買って来てくれた漫画雑誌を読んだり、テレビを見たりするくらいしかやることが無い。あとは院内を散歩するくらいか。
《あはは、わかった。じゃあ、美空んや鳥居くんも呼んでくね》
俺が冗談めかして言うのに応えて、愛乃が笑う。
今日初めて聞いた、彼女の笑い声に、なんだか心が安らぐような気がする。
「いや、鳥居は別にいいよ。うるせえから」
《あはは、そうかもね》
愛乃はまた笑って誤魔化す。どうやら、鳥居を誘うのをやめるつもりはなさそうだ。まあ、別に構わないが。
《じゃあ、明日ね》
「ああ、電話、ありがとな」
《ううん、よかった、目が覚めて》
「心配かけた」
《うん、じゃあ、お大事に》
「ああ、また明日」
「うん、明日」
互いに電話を切るのを惜しむように言葉を交わしながらも、最終的には、別れの挨拶を交わして、どちらからとなく電話を切る。
「へーい! 暇してるって聞いて、来てやってぜ、林田」
「病院なんだから、少しは慎みなさい」
翌日、病室に入るなりはしゃぎ始める鳥居の頭を、広中が小突く。
「あいてっ」と、鳥居は少し大げさなリアクションを取って笑う。それを見て、広中はやれやれ、というふうにため息を吐いた。今日も仲がよろしいことで。
「よう」
「おはよ、棗くん」
二人の後ろから、愛乃が顔をのぞかせる。
明るく、いつも通りに振舞う二人とは違って、浮かない表情をしている。
三人とも、三日くらいでは大して変わっておらず、その間眠っていたと言われても、いまいち実感がわかない。
三人が持ってきた花を花瓶に飾り、お菓子を広げる。
「思ったより元気そうだね。血色もいいし、でも、ちょっと痩せたかな」
「そうか?」
鳥居にそう言われて、自分の顔を触ってみるが、よくわからない。
「うん、少しね」
「まあ、命があったのなら、それだけで十分でしょ」
なんとなく、いつもより鳥居の元気がないような気がする。広中の口調も、いつもより弱く感じる。
まあ、その原因が自分にあることくらいは分かっているつもりだが。
「いや、悪い、心配かけたな」
例によって、申し訳なくなってしまって、俺がそう言う。
「ははっ、ほんとだよ」と、鳥居は笑い、「ふん」と、鼻を鳴らして、広中はそっぽを向いた。
そして、愛乃は、
「あの、棗くん」
表情を引き締めて、俺の名前を呼ぶ。
「ん? なんだ?」
「その、ごめんなさい」
いきなり頭を下げて、愛乃が謝る。
「ど、どうした?」
突然のことに、俺は思わずそう聞き返してしまうが、もちろん、見当はついている。
「棗くんの怪我のこと、私のせいだから。だから、ごめん」
「いや、悪いのは犯人だろ。愛乃が悪いことなんて、何にも――」
「でも、私が言い出さなかったら、棗くんが傷つくことなんてなかった! 私が巻き込んだの!」
俺が反論するのを遮って、愛乃が大声で捲し立てる。
昨日、俺が考えていたのと、同じことを愛乃は考えていた。
しかし、それも愛乃の立場なら、仕方のないことなのかも知れない。そのことを簡単に思い付いた俺は、同じ立場なら、同じように考えたからだろう。
「……そうしたら、刺されたのは愛乃だっただろ」
「そ、それは……でも、そんなの……」
愛乃は、俺の言葉に反論しようとして、その途中で口ごもる。おそらく、その続きは、やってみないと分からない、といったところだろうか。
しかし、それが分かっているから、愛乃は口にするのを止めたのだろう。
男の俺でもこの様なのだ。愛乃があの男をどうにか出来るとは、万に一つも考えられない。
「まあ、一番の目的は達成出来たんだ。それでよしとしようぜ」
今回の目的は、あの日襲われていた女性、玉木さんを助けることだ。事件そのものを阻止出来れば上々だったのだが、あの男の雰囲気からして、俺たちのような他人が何を言ったところで、止まりはしなかったように思う。このことは、時間も情報も足りなかったのだ。
それでも、当初の目的は達成したと言っても、過言ではないだろう。
しかし、俺の言葉に、愛乃は不服そうに口を開いた。
「でも、私は、棗くんたちにも、傷ついて欲しくなかった」
重々しい口調で、愛乃は言う。
「誰も傷つかないで済むなら、私はそれでよかった! 私はどうなってもよかったの!」
病院内ということも忘れて、叫ぶように愛乃は言う。
その迫力に圧倒されて、誰も声を出すことが出来なかった。
そして、その言葉に、今までの愛乃の言動が結び付く。
事故に巻き込まれそうになった子供を助けようと、飛び出していったとき。
公園での事件を阻止することを言い出したとき。
そして、その当日、ついに犯人と接触することになった、その瞬間。
その時々で、俺が愛乃に感じていた、不安や危うさの正体は、それだったのだ。
自分がどうなったとしても、誰かを助けたい。誰かのためなら、自分のことはどうでもいい。本気でそう思っている。
だから、今回のことのように、誰かが傷つくことが、そうさせてしまった自分のことが、許せないのだ。
そして、たぶん、愛乃がそうなった理由の、一番根底にあるのは、未来視のことだろう。それを持っているのだから、そうしなければならないと思っているのだ。
「…………」
しかし、それが分かっても、俺には何も言うことが出来なかった。何を言えば愛乃の救いになるのか、分からなかった。
病室内に静寂が訪れる。
そんな中、沈黙を破ったのは広中だった。
「愛乃」
愛乃の後ろから、広中が名前を呼ぶ。
その声に導かれて、愛乃が後ろを振り向いた、次の瞬間だった。
――パシン!
と、その音は、病室の静寂の中では、やけに大きく聞こえた。
広中が、愛乃の頬を叩いたのだ。
いきなりのことに、それを見ていた俺と鳥居は目を見開いた。
「ちょっ⁉ み、美空⁉」と、彼女の正気を確かめるように、鳥居が広中の側に近づこうとするが、それを手で制して、「大丈夫だから」と広中は応える。
「ごめんなさいね。でも、今の発言は、少し気に障ったかしら」
「…………」
広中の言葉に愛乃は何も答えなかったが、それを気にした様子は無く、広中はさらに続けた。
「まず一つ。私たちがあなたに協力したのは、自分で決めたことよ。あなたに言われたからじゃない。二つ目。この男の怪我に関しては、あなたが責任を感じる必要は無いわ。悪いのは犯人と、あとは、この男の過失でしょうね」
最後の一言が、俺の方に重く圧し掛かる。
実のところ、何があっても俺は大丈夫だろうという気持ちが、どこかにあったのは否めない。それを見透かされていたことに、ぎくりとした。
「最後に言いたいのは、あなたが、私たちに無事でいて欲しい、って思ってるのと同じように、私たちも、あなたに無事でいて欲しい、って思っていたってこと。あなたがいなくなるなんて、私はごめんだわ。だから、どうなってもいいなんて、二度と口にしないで」
そう言うと、広中はちらりとこちらに目をやった。
「こんなところでいいかしら?」と言ったところか。あるいは、「あなたも肝に銘じておきなさい」と言っているようにも見えた。
いや、俺は、どうなってもいい、とまでは考えていないのだが。まあ、心配かけたよ。
「ご、ごめん」
広中の言葉を聞いて、愛乃が謝る。
その言葉に、広中が一息つく。
とりあえず、この件はこれで一件落着と言ったところか。
と、事態が落ち着いたところを見計らったかのように、コンコンと病室のドアをノックする音が鳴り響く。
「はい」
俺が返事をすると、ガラリとドアが開き、二人の男が入ってくる。
「失礼する」
そう言って先頭を切って入って来た男には見覚えがあった。愛乃と広中も、目を見開いた。
一週間前、最初に公園を見回ったとき、ベンチに腰掛けて、タバコを吹かしていた男だ。
愛乃が言うには、似ているような気がしたらしいが、いざ犯人を目にした後では、あまりそういう感じは全くない。
男はあの時と同じく、ぼさぼさの髪に、くたびれた背広姿だったが、もう一人の男はきっちりとスーツを着こなし髪も綺麗に整えていた。なんとも対照的な二人だった。
「警察のものだ。玉木と言う」
玉木と名乗った男が、懐から手帳を取り出し、こちらに見せる。
警察手帳など初めて見たが、どうやら本物らしい。
玉木という名に引っ掛かりはしたが、まあ、そう珍しい苗字でもないか。
「石田です」
もう一人の男、石田も、同じように手帳を見せる。
「棗くん」
二人が名乗ったところで、愛乃が俺の名前を呼ぶ。
「この人だよ。あの後、犯人の人を取り押さえたの」
と、愛乃が玉木の方を見て言う。
そうだったのか。俺自身、あまり助かった感じはしないが、もし玉木がいなければ、もっと大ごとになっていただろう。俺も追い打ちを掛けられて殺されていたかも知れない。
「それは、ありがとう、ございました」
「……いや」
俺が礼を言うと、玉木はそれを否定する。
「あの日は非番だったとはいえ、俺もあの公園に居たんだ。にもかかわらず、君たちを危険な目に合わせてしまった。礼を言われるようなことじゃない」
「いや、まあ、刑事さんのおかげで、被害者は俺だけで済んだ訳ですし」
「……そう言ってくれると、俺としてはありがたいのだが……」
なんか、責任感の強い人だな。結果的に、俺は無事なわけで、犯人も捕まって、他に被害者もいないのだから、一件落着、という訳にはいかないのだろうか。警察官としては。
「それで、簡単な事情聴取をしたいのだが、いいだろうか?」
玉木が顔を引き締め、話を切り出す。
こちらとしては、断る理由はないので、それを了承する。
まあ、事件の状況とか、加害者の話と擦り合わせたいとか、そういうことだろう。
「あの……」
愛乃が片手を挙げて、刑事二人に声を掛けた。
「私たちも一緒にいていいですか?」
「ああ、構わないが」
愛乃の提案に、玉木が許可を出す。「ありがとうございます」と礼を言って一歩後ろに下がる愛乃のことを、玉木は訝しげに見ていたが、じきに視線を俺の方へと向けた。
そして、ポケットからメモ帳を取り出すと、俺に質問を始めた。
「今更だが、林田棗くんだな」
「はい」
「まず、事件の状況を聞かせてくれないか?」
「えっと、こっちの、愛乃と一緒にいたところに、あの男の人が歩いてきて、ナイフを隠すように持っていることが分かったので、声を掛けたんです。そしたら言い合いになって、怒らせてしまったのだと思います。それで、あの人がナイフを抜いて襲いかかってきたので、揉み合いになって、押し負けて刺された、って感じですかね」
「加害者の男との面識は?」
「無いですね。あの日初めて会いました」
「あの公園には、何をしに?」
「たまたま、散歩です。この子の家が近所にあるので」
「そうか」
いたって事務的に、質疑応答を繰り返す。
玉木、というより警察の方も、俺たちと加害者の間に、何かあるとは思ってはいなかったようで、あくまで被害者だから話を聞きに来たということらしい。
わからないのは愛乃だった。
事情聴取に同伴したいと言い出したからには、何か言いだすのではないかと、俺は身構えていたのだが、特に何か言う訳では無く、時々玉木が確認を取るときも相槌を打って、話を合わせてくれていた。
もっとも、その方が助かるのは事実だが。
「ところで、君は刺されたとき、服の下に雑誌を仕込んでいたようだな。調べたところ、一ヶ月前の号らしいが、それもたまたまか?」
最後に、玉木にそう聞かれて、俺はドキリとした。たしかに、万が一のときのために、家にあった適当な雑誌を服の下に入れておいたのだが、まさか俺の方をそこまで調べているとは思わなかった。
「そんなことしてたの⁉」
愛乃が驚いて大声を上げた。
このことは、愛乃や、他の誰にも言っていなかった。別に、言う必要は無いと思ったのだが、愛乃の気には召さなかったようだ。
愛乃は何か言いたそうではあったが、ぐっと言葉を飲み込む。
俺は視線を玉木に戻した。
「ああ、まあ、護身用、ですよ。本当に必要になるとは、思いませんでしたけど」
「…………」
俺の言葉に、玉木は何も言わないまま、俺の目を真っ直ぐに見ていたが、やがて、「そうか」と言葉を漏らした。納得はしていないようだが、ひとまずは承知してくれたらしい。
「石田」
玉木が、後ろに控えていた石田に声を掛ける。
「はい」と石田が短く返事をすると、玉木はさらに言葉を続ける。
「悪いが、席を外してもらえるか? 少し個人的に、話したいことがある」
「いや、しかし、それは……」
「頼むよ。本当に、個人的な話があるだけなんだ」
なぜか石田に席を外せと言う玉木に、業務的な理由からか、難色を示す石田だったが、最終的には、玉木の行動を了承し、病室の外へ出ていく。
「じゃあ、ロビーで待ってますからね」
「ああ、悪いな」
そう言って、石田はその場を後にした。
病室に残った玉木は、再び俺たちの方を向き直る。
「何ですか? 個人的な話って」
まさか、拷問でもしようという訳では無いだろうな。
強面の刑事がこれからしようということを想像して、俺は思わず身構える。
「そう身構えなくていい、本当に、個人的に、話があるだけなんだ」
玉木は少し表情を柔らかくして、そう言う。
何と言うか、さっきまでの刑事としての顔ではなく、玉木個人の顔になった気がして、俺も緊張を解く。
「林田棗くんと、野々山愛乃さんだな」
「はい」
「そうですけど」
玉木が、俺と愛乃に、そう確認をとる。
事件の被害者の俺のことはともかく、愛乃のことも知っていることには、驚かされたが、その次の彼の行動にはもっと驚かされた。
「この前は、うちの奴が世話になったらしいな。ありがとう」
そう言って、玉木が頭を下げた。
「…………」
いきなりの玉木の言葉に、俺は、いや、この場にいる誰もが言葉を失ってしまう。
しばらくして、言葉を発したのは愛乃だった。
「あの、うちのって、もしかして……」
「ああ、悪い、玉木美月は、俺の嫁だ。この間、荷物を持って貰った高校生というのは、君たちのことだろう?」
顔を上げてそう言う玉木に、俺はまたも言葉を失う。
あの優しそうな玉木さんと、刑事とは言え、強面の玉木が夫婦とは、歳も離れているようだし、世の中分からないものだ。
「あの、旦那さん、ってことは、私のことも……」
再び愛乃がそう切り出す。
彼女が気になっているのは、恐らく未来視のことだろう。
未来視のことは玉木さん、美月さんに伝えている。だとすれば、その夫の玉木にも伝わっているかも知れない。いや、こうして話を持ち掛けているからには、恐らく、もう。
玉木はこくりと頷く。
「実は、未来が見えるという君のことは、妻から聞いていた。もちろん、事件のことも。正直、まさかとは思ったが、あいつがどうしてもと言うから、無理に休みを取って、あの公園を張っていたんだ。もっとも、結果的に、君たちを危険な目に合わせてしまったが」
そう言って、玉木はまた頭を下げる。
そうだったのか、しかし、そのおかげで、玉木は現場に駆け付け、犯人を逮捕するに至った訳だ。頭を下げるべきなのはこちらの方だろう。
そして、美月さんに未来視のことを話した愛乃の判断は、間違ってなかった訳だ。まあ、結果論ではあるが。
「それで、それを知って、あなたは愛乃をどうするつもりですか?」
不意に、それまで傍観を決めていた広中が、玉木の前に立ってそう言う。あからさまに敵意を向けて。
相手は警察官だというのに、広中は臆することなく玉木に迫る。いや、警察官だからこそ、警戒しているのかも知れない。
愛乃の未来視を利用できれば、今後の捜査の役に立つだろう。今は、愛乃も自由に能力を使える訳では無いようだが、今後出来るようになるのかも知れない。実際、FBIには、超能力捜査官というものも存在している。しかし、そうして注目を浴びることは、愛乃の望むところではない。
愛乃の意思を捻じ曲げるようなことを、広中は懸念しているのだろう。
一抹の不安を覚えつつ、玉木に目をやると、彼は深く息を吐いて口を開く。
「別に、どうするつもりもない。超能力は証拠にはならないしな。ただ、礼を言いたかっただけだ」
「お礼?」
玉木の言葉の意味を汲み取れず、広中が聞き返す。
「ああ、本当なら、刺されていたのは、妻だったんだろう? 危うく俺は、二人も家族を失うところだった。君たちを危険な目に合わせておいて、勝手なことを言うようだが、ありがとう」
そう言って、玉木はもう一度頭を下げる。
「そ、そんな、頭を上げて下さい。た、大したことじゃないですから」
愛乃が慌てて、玉木の頭を上げさせる。
大したことじゃない訳がない。愛乃は人の命を救ったのだ。もっと誇っていいことなのに、愛乃にとっては当たり前のことなのだろう。
「しかし」
と、玉木が言葉を切る。
「君たちはまだ子どもなんだ。あまり無茶をするもんじゃない」
急に説教を始める。
「もっと大人を頼れ。もっとも、特殊なことだから、簡単に話せることではないのだろうが」
そう言って、玉木はメモ帳を取り出し、何やら書き込んでページを切り離す。それを愛乃に手渡した。
覗き込むと、『玉木優兎』という名前と携帯番号が書かれている。
「もし、また、今回のようなことがあったら、俺に連絡しろ。そのときは力になろう」
願っても無い申し出だった。
玉木の言う通り、今回のような事件を予知したとき、警察官である彼に相談できるというのは、かなりありがたい。そうなれば、愛乃も、わざわざ危険なところに、足を踏み入れる必要もなくなるかも知れない。
そう思って愛乃の方を見てみるが、彼女は不思議そうな顔をして、玉木の方を見ている。
「どうして……」
「ん?」
愛乃が言葉を発するのに、玉木が応える。
「どうして、こんなに良くしてくれるんですか?」
「起きなかった未来とはいえ、君らには妻を助けてもらったことになる。それじゃあ理由にならないか?」
当たり前のように即答する玉木だったが、愛乃の聞きたかったことは、そういうことではないらしい。
「でも、怖い、とか、気持ち悪い、とか、思わないんですか?」
そういえば、前にも同じようなことを言っていたか。彼女に何があったかは知らないが、とても根深い問題らしい。
「彼らは、そう言ったのか?」
玉木の注意が俺たちに向く。
もっとも、本気で疑っているわけではないようだが。
「いえ、棗くんたちは、そんなこと一言も。けど、小さいとき、このことを友達に話したら、そう、言われました」
「そうか」
愛乃が事情を話すのを、俺たちは黙って聞いていた。それをただ一人、質問を受けた玉木だけが口を開いた。
「思うに、幼少のときというのは、無知なものだ。そして、知らないことを怖いと思うのは、仕方ないことだろう。だが、時が経つにつれて、知っていることも増えてくる。超能力も、たとえ信じられなくても、知識として、そういうものがあることも知るだろう。そして、何度も言うようだが、君は妻を助けてくれた。なら、その力は、少なくともそれを持つ君は、善意の人間だと思うのだが、違っただろうか?」
「それは……」
玉木の言葉に、愛乃は頷く。
さすが、人生経験の差だろうか、前に俺が愛乃に言った言葉とは、説得力が違う。
愛乃も、これを機に思い直してくれるといいのだが。
「じゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るよ」
時計を確認し、玉木はそう言う。
背を翻し、その場を後にする玉木を、愛乃が呼び止める。
「あの、ありがとう、ございました」
愛乃が礼を言うと、玉木は薄く笑って、右腕を挙げる。気にするな、と。