ある少女の決意
トランクの蓋を閉め、音を鳴らして鍵をかけた。
もともと持ってきた荷物が少なかったので、荷造りは朝に始めても昼前には終えてしまった。
ふう、と息をつき、短い間お世話になった部屋を見回す。
広くて日当たりの良い部屋である。ここへ来てすぐはベッドが大きすぎて落ち着かなかったが、今ではすっかり慣れた。
そのまま放っておいてくれればいいと言われていたが、せめてと掛け布団とシーツを折りたたんである。
忘れ物はないかと確認していた時、ふと、壁際の鏡に目が留まった。
マルチナに頼んで持ってきてもらった姿見。
壁の大鏡では全身が映らないので、えも言われぬ不安に襲われてつい無理を言ってしまったのだ。
よくよく考えれば、それも無意識のサインの一つだったのかも知れない。
一瞬ためらい、思い切って姿見の前に立つ。
息子の服が残っていたからとマルチナが仕立て直してくれた黒のパンツ、アイロンをかけてぱりりと折り目のついたワイシャツの上に、白地に紺のラインが入った毛糸のベスト。
こんな上等な服はもらえないと断ったのに、マルチナがどうしてもとごり押しして無理やり着せてくれたのだ。
笑みがこぼれる。父譲りの浅黒い肌に、母譲りの柔らかい眼差しの目。
その目の下に点と添えてある、泣きぼくろ。
黒い髪に指を差し入れ、ゆっくりと腰まで梳き通した。ウェーブがかかったそれは指を離れて落ち、背中で重みを帯びてゆったりと揺れる。
鏡を覗きこみ、しげしげと自分の姿を眺めた。
鏡の中の自分の唇がかすかに動く。
「わたしの名前は、イェニ・グロウディアです」
確認するように呟く。
夢の中で見たのと同じ自分の姿。
何かの拍子に意図せず鏡を見てしまうと、今でもどきりとする。
もう大丈夫だと頭では分かっていても、しばらくは落ち着かないだろう。
その後も長くなった黒髪を指でいじっていたが、やがて決心したように顔を引き締め頷いた。
そして、部屋を出てすぐに廊下で出会った使用人に、開口一番こう頼んだ。
「はさみをお借りしたいのですが」
◇
屋敷の主、ウェルフ・スタントリー・エンテルは庭にいた。
いつもなら執務室にいるはずの時間だったが、今日はちょっとしたサプライズがあったので朝からずっと外で「研究対象」を観察しているのだ。
彼は外へ出てきた少女の姿を見るなり、驚いて目を見開いた。
「髪を切ったのか」
彼女、イェニは、はいと返事し、肩より上でばっさりと切ってしまった自分の黒髪をなでつける。
「ずっと短かったからでしょうか……。なんだか落ち着かなくて。あの長さだとやっぱり、ちょっと邪魔なんですよね」
「そう」
おや、とイェニは思った。
落胆したように聞こえたのは、気のせいだろうか。
ウェルフは、視線を足元のヨナキグサの花壇へ戻す。
つられてイェニもそちらを見やり、何とも言えない表情を作る。
「ふ、増えましたね……」
花壇からあふれんばかりに伸びていた細長いヨナキグサの間でかさこそとうごめいている。
一匹がぴょこりと顔を出し、可愛らしい唇から鳴き声を上げる。
ぴーっ。
その声に呼応して、ぽこぽことあちこちで似た生き物が顔を覗かせた。
その数、なんと六匹。
人面花の子どもたちであった。
彼らはヨナキグサの間をわさわさと動き回っている。
ヨナキグサの葉は弾力があり、触れるとビィィィィィィィンッと震えて音が鳴るので、ベビーたちにはちょうど良い遊び場なのだ。
きゃあきゃあと賑やかにはしゃぐそれを、これまた熱心に観察しているウェルフ。
傍から見るとシュールだった。
「先日、ベティちゃんが来たからでしょうか」
「望みが強まったために、『魔法』にも影響が出たのだろう。大方、『もっとたくさんの友達がほしい』とでも願ったのではないかな」
「すいません……ぼくのせいですよね」
「いいや、遅かれ早かれそうなっていたはずだ。人間に関心を持つようになっただけましだろう。まあ、庭が少々うるさくなるがね」
さて、とウェルフは立ち上がり、イェニに向き直る。
「もうじき時間か」
「……はい」
タムバートのステーションへはエンテル家の馬車を使わせてもらうことになっていた。
そこからまた一日かけて東へ抜け、シルフォンの港でゴータを経由する船に乗る。
もう、このお化け屋敷ともお別れだ。
「あの、ウェルフさん。少し、見てもらいたいものがあるんです」
イェニはトランクを脇に降ろし、両手を広げた。
華奢な体が一瞬揺らめき、ゆっくりと色を失う。
完全に姿か消えてなくなる前にイェニは『魔法』を解いた。
ウェルフは驚かなかった。
「やはり、完全には解けなかったか」
ウェルフの催眠術は、確かに彼女の『魔法』の暴走を止めた。しかし、全てを解くことはできなかったのだ。
「この『魔法』は、ぼくにとって罪の証です。……たぶん、一生解けることはないと思います」
自分の犯した過ち、そしてそれを責める罪悪感が消えることはない。
たぶん、それでいいのだろう。
過去は自分で背負っていかなければならないものだから。
「まだ、怖いんです。イェニとして生きるのが」
肌寒い風に、腕を抱く。
「ダメですね。やっぱりぼくは、泣き虫イェニのままです。
ローの影に隠れてはもう生きていけないと分かっていても、どこかにローの姿を探してしまうんです。
そうでなければ、怖くて……情けないです」
「だから、髪を?」
「ここから少しずつ、伸ばしていこうと思うんです。いきなりは無理でも、いつかきっと、ローへの依存から離れられるんじゃないかって。そう思って」
「……すまなかったね」
突然謝られて、イェニは驚いた。
そんなイェニの様子に、ウェルフは付け加える。
「手紙のことだよ。ずっと黙っていた」
「ああ、そんなことですか」
イェニは肩の力を抜いて笑った。
「いいんです。恐らくここへ来てすぐに見せられても、ぼくは信じなかったと思います。むしろあなたに気を遣わせてしまって……本当に、すいま」
せん、と言いかけて、イェニはぱちんと口を手で押さえる。
首をかしげるウェルフに、言い直す。
「いえ、ありがとうございます」
ウェルフが待っていてくれたから、イェニは自分の心と向き合うことができた。
ウェルフは確かに、自分のことを救ってくれたのだ。
「あの、実はそのことをお話しするつもりではなくて。その……」
だから。
今度は自分が、ウェルフの助けになりたい。そう思うのは、傲慢だろうか。
「あれから、ぼくなりに色々考えてみたんです。イェニとして生きるには、どうしていったらいいのかなって。
それで、ちょっと思ったんですけれど……」
胸の前で手を組み、思い切ってそれを口にする。
「ぼくをここで、働かせていただけませんか?」
「……なんだと?」
「いえ、無理は承知なんです! ぼくなど教養もないですし、スラムの出身の小汚い娘です。領主であるエンテル家に雇われるなど、身の程知らずも甚だしい。
でも……ぼくはこの『魔法』を誰かのために役立てたいのです。
一度ゴータへ行って両親に報告したら、必ずもう一度ロトトアへ戻ってきます。ニコルくんみたいには、いかないでしょうけど……でも! こんなぼくの『魔法』でも、きっとウェルフさんの研究をお手伝いすることはできると思うんです。ぼくには……ぼくには、それしか、ないから」
だんだん声がか細くなり、最後はほとんど聞こえなかった。
おずおずとウェルフを見上げる。
「ダメ……ですか?」
人の心を探し続けているウェルフに、いつか教えてあげたい。
自身が思っている以上に、ウェルフは人間らしいのだと。
決して冷血な人間ではなく、ちゃんと他人を思いやることのできる心を持っているのだと。
だからカイも、ニコルも、ウェルフをかまおうとする。もちろん、イェニも。
ウェルフは目を瞬かせた。
そして、何かを思い出したかのように話し始める。
「うちの屋敷の門だが」
「はい?」
「不用心にもかんぬきがなく、見張りもいない。どうしてか分かるかね? 気味悪がってわざわざここまで入ってくる者などいないからだ。
私の知人か、『魔法』絡みの問題を抱えた者しか、こんな辺鄙な所まで訪ねてこない」
白煉瓦に隠れて見えない門へ目をやる。イェニから視線をそらすように。
「好きな時に入ってきたまえ。ここの門は、いつだって開いている」
それが肯定の返事だと認識するのに、時間がかかった。
みるみるイェニの顔に喜びが広がっていく。
「……はいっ!」
満面の笑み。
イェニ・グロウディアが十年ぶりに、心から笑った瞬間だった。
透明人間編、終了です。
次は書き溜まったら随時更新していきます。
2017.9.27更新情報
次回は魔法遣い編です。




