「変な匂いの茶だな」と婚約破棄されたので、ずっと私の紅茶を待っていた幼馴染と幸せになります
その日は、婚約者であるグレゴール様の成人を祝う誕生日会だった。
ウェスト伯爵家では、昼下がりから盛大なパーティーが開かれ、さまざまな家格の貴族が話に花を咲かせていた。
私——アリアナは、彼の婚約者として、そして子爵家の娘としてグレゴール様の元へ歩み寄った。
「お誕生日おめでとうございます、グレゴール様。私がこの日のために作成したフレーバードティーです。お口に合えば良いのですが……」
「……フレーバードティー?」
「はい、ハーブや花を使って、紅茶に香り付けしたものになります。香りを楽しむだけでも、心安らぐようにブレンドいたしました」
この日のために特注した缶の蓋を開けると、ピーチベースのダージリンティーの香りが辺りを包んだ。
華やかさを足すために、ローズの花弁も少量配合してある。
この日のために一ヶ月、寝る間も惜しんでブレンドし、ようやく昨夜完成した自信作。
私は緊張しながら、彼に缶の茶葉を香りごと差し出した。
「……変な匂いの茶だな」
彼は顔をしかめ、受け取った缶を机の上へ無造作に置いた。
周囲の温度が下がったかのように冷えて、誰かがくすりと笑い声を上げる。
「グレゴール、子爵令嬢はどうやら奇妙な趣味を持っているようだな」
「何とも独特な女性だな。こんな子を選ぶとは、グレゴールも良い趣味をしている」
グレゴール様の友人達の心無い言葉が、私の胸に突き刺さる。
それでも必死に堪えていたところに、グレゴール様の溜め息が重なった。
「こんな奇天烈な趣味で、大勢の前で私に恥をかかせるとは……」
グレゴール様は金髪を揺らし、緑色の瞳で冷たく私を見下ろした。
「アリアナ、君との婚約は解消させてもらおう。追って、子爵家にも通達する」
「え……」
何を言われているのか分からず、私はその場に凍りついてしまった。
「伯爵夫人となるものが、茶葉に混ぜものをして遊んでいるとは恥ずかしい。個人的に楽しんでいるだけならまだしも、このような場でひけらかすとは……」
「そ、そんなお待ちください、グレゴール様……!」
「皆の前で告げるのは、君がそれだけ私の顔に泥を塗ったということだ。今日はもう帰るがいい」
「……っ!」
彼からは、何度かフレーバードティーを作るのをやめるように言われていた。
しかし、フレーバードティー作りは私の唯一の趣味。
いつか彼に認めてもらおうと、ブレンドを頑張ってきた。
けれど、それは徒労に終わった。
むしろ事態を悪化させただけだったのだ。
「承知……いたしました……」
私は何も言い返すことができず、一礼をして周囲の視線から逃れるように会場を立ち去る。
奥の席で、成り行きを戸惑うように見守っていた伯爵夫人が横目に映った。
伯爵夫人は、私のフレーバードティーを楽しみにしてくれていた人だ。
心からの申し訳無さを感じながら、私は全てを振り切るように足を速めた。
伯爵家の門扉を出ようとした時。
背後から追いかけるように、靴音が響き渡った。
「……アリアナ」
澄み渡りながら、よく通る声が鼓膜を打つ。
振り返るとそこには、格式高い礼装を身にまとった、背の高い青年が駆けてきていた。
彼の名前は、レイン・エクセター。
侯爵家の嫡男で、幼い頃から親しくさせてもらっている。
常に無表情で何を考えているか分かりにくいが、気遣いのできる優しい人だ。
夜を溶かしたかのような黒髪を揺らし、群緑色の瞳を揺らしながら私を見つめていた。
「レイン……。今日のパーティーに、あなたも来ていたのね」
「ああ。顔だけ出すつもりだった」
彼が片手を上げると、その手の中には見覚えのある缶があった。
つい先程、グレゴールに差し出したものの、受け取りを拒否されてしまった茶葉だ。
「それ……」
「捨てられそうになっていたから、俺が引き受けた」
レインは蓋を開けて、香りを確かめるように顔を茶葉に近づけた。
「ピーチ、ローズ……ベリー系も入っているな」
「っ!? すごい、よく分かったわね……」
「君は俺にもよくブレンドされた茶葉を贈ってくれただろう? いつも、何が入っているか考えながら淹れていたんだ」
レインの言う通り、私はフレーバードティーを彼の誕生日にプレゼントしていた。
他にも、季節の変わり目や、記念ごとがあると、缶にフレーバードティーを詰めて贈ったものだ。
その度に彼は『ありがとう』と一言だけ添えた手紙を返してくれていたのだが、楽しんで飲んでもらえたのならとても嬉しい。
「……変な匂いじゃない。俺はこの匂いを楽しみに、毎日朝起きていたぐらいだ。この十年間ずっと」
「ふふ……レイン、それはおおげさよ」
「本当だ。君から贈られた茶葉の缶を、すべて残しているくらいに」
「缶を……? 特に、価値のある缶ではなかったような気がするのだけど……?」
「捨てられなかった。……それくらいに、俺は君の香りに惹かれている」
レインがあまりにも真剣に言うものだから、私は思わず赤面してしまう。
けれど、私の香りを褒めてくれる彼の言葉は、冷え切っていた私の心を温めてくれた。
思わず、涙が頬を伝ってしまうくらいに。
「……馬車で送る」
「ありがとう、レイン。みっともないところを見せてしまって……ごめんなさい」
「謝るな。今日はもう何も言わなくていい。……少し待っていてくれ。必ず君の笑顔を取り戻す」
レインは私の肩に手を添えながら、侯爵家の馬車へと導いてくれる。
彼の言葉の真意を理解したのは、それから一週間後のことだった。
◇
あの誕生日会から一週間後、私とグレゴール様の婚約は正式に解消された。
伯爵家からは丁寧な謝罪の手紙が届いたが、子爵家当主である父は怒り狂っていた。
「爵位の差などで調子に乗りおって……! 可愛いアリアナを捨てるとは、どういうことだ!」
「あなた、落ち着いて。さあ、アリアナが淹れてくれたお茶を飲みましょう」
私の紅茶を一口飲み、母は向かいに座る私に微笑んだ。
「あなたは、もう好きなことをしていいのよ。人生を楽しんで、好きなお茶を飲みなさい」
憤慨していた父も、私の紅茶を飲むとほっと一息ついたようだった。
「あの無礼な伯爵家と縁が切れてよかったと思おう。アリアナ、いつも良い香りの紅茶をありがとう」
婚約破棄をされたと言うのに、私の家に流れる時間は不思議と穏やかだった。
お茶の時間を楽しんでいると、不意に来客を知らせるベルが鳴った。
「あ、私が行きますね」
我が家には最低限の使用人しかいないため、来客対応は私の仕事にもなっている。
私は客人を待たせないように、小走りで玄関扉へと向かった。
「お待たせしました……あれ、レイン?」
扉を開けて真っ先に目に入ったのは、彼のラフなジャケットに包まれた胸元だった。
見上げると陽光を吸い込むように、彼の黒い髪がふわりと揺れる。
「アリアナ、見せたいものがある。付き合ってくれ」
「私に……?」
レインからの突然の誘いに戸惑いつつも、私は父と母に断りを入れて彼に付き合うことにした。
婚約破棄をされた今、悲しいことに時間はたくさんある。
彼が連れてきてくれたのは、大通りから少しそれた、商店街の一角だった。
「ここだ」
レインが指さしたのは、白いこじんまりとした店舗のような建物だった。
看板がないようだが、ガラス張りの向こうに居心地の良さそうな、木造りの内装が広がっていた。
「ここは……? お店にしては、中に何もないようだけれど……」
「この店は君のものだ」
「へ!?」
突如として降って湧いた話に、私は思わず硬直してしまう。
「待って、話が見えないわ。……順序立てて話してくれる?」
「もちろんだ。中にはいって話そう」
彼は懐から取り出した鍵で、店舗の扉を開けた。
どうやら、この店舗の持ち主が彼であることは間違いないらしい。
彼の後を追いながら、私は日が差し込む店舗の中に入っていった。
「わあ……」
建物の中は、空っぽになっている棚と、少し古ぼけた木のカウンターが置かれていた。
人気はないものの、ほこりやゴミなどはなく、綺麗に手入れされているのが見て取れる。
「ここは、俺が二年前に購入したものだ。前の店主から『店を大切にしてくれる人を探してほしい』と頼まれた」
「年季を感じさせるけれど、丁寧に管理されてきた跡があるわ。きっと良い店主さんだったのでしょうね」
「……だから、この店を君に譲りたい」
「ちょ、ちょっと待って! 話が飛んでいるわ」
「飛んでいない。君は『いつかフレーバードティーを広めるために、お店を開きたい』と言っていただろう。ここを好きに使っていい」
確かに、レインと知り合ってから間もなく、そのような夢を語った記憶がある。
その夢は、貴族の重責の中で消えていったけれど、まさか彼が覚えていたとは思わなかった。
「……ありがとう。でも、どうしてここまでしてくれるの?」
彼の善意はありがたいが、こんなに良い物件を用意してもらう義理はないだろう。
すると彼は、ほんのり頬を赤く染めた。
「君のことが好きだからだ」
「……ええ!?」
「君の婚約が決まった時、諦めるつもりだった。だが、君の茶葉を受け取る度に……君の想いを感じる香りが、俺の心を温め続けてくれた。ずっと、君のことを忘れられなかった」
レインは、こんな時に冗談を言う人ではない。
だからこの言葉に、嘘偽りがないことは、私が一番分かっていた。
「今は返事をもらおうと思っていない。……あんなことが、あったばかりだろう。傷が癒えてから、ゆっくり考えてほしい」
「レイン……」
婚約してから、窮屈な思いをしながら茶葉をブレンドしていた。
けれどレインへ贈るフレーバードティーを考える時は、いつだって楽しかった。
彼の前なら、素直な自分をさらけ出せるような気がしたから。
「ありがとう、レイン。私、がんばってみるわ……」
こみあげる熱い想いを抱きしめながら、私は彼に向けて一番の笑みを向けた。
◇
それからは、目が回るほどの忙しさだった。
茶葉の厳選、フレーバードティーの開発、店作りなど、やることが多すぎて一人駆け回る毎日。
レインも侯爵家の仕事の合間に、私の開店準備を手伝ってくれた。
「でも……。お客さん、来てくださるかしら」
フレーバードティーは、趣味として認められているものの、上流階層では『邪道』とされている節があった。
一般層からも馴染み深いものではなく、専門店なども市場に存在しない。
「最初は客足が鈍いかもしれない。だが、君の茶葉の魅力に気付けば、王都中が魅了されるだろう」
「そうかしら……」
そして迎えた開店日。
意外にも、初日から訪れてくれるお客が三人いた。
「お店の前を通る度に、良い香りがしてね。ずっと開店を待っていたんだよ」
初老の紳士は、一通り試飲すると、ベリーベースの茶葉を購入していった。
その後何度も足を運んで、さまざまな種類のものを買ってくれる常連客になってくれた。
もう一人のお客は、ある貴族の侍女。
彼女はフードをかぶり、まるでお忍びのように訪れた。
「私の主人が、実はフレーバードティーが好きで。でも貴族社会では表立って言うことができず、開店と同時におすすめを買ってきてほしいと頼まれたんです」
「おすすめですか……」
どれもお気に入りだが、私は林檎を使った茶葉の試飲を差し出した。
「定番ですが、林檎の紅茶となっています。シナモンの独特なスパイス感もあるので、珍しいものがお好きな方にもおすすめです」
「素敵な香り……ぜひ、購入させてください!」
このフレーバードティーは、ご主人がいたく気に入ったようで、後日『まとめ買いさせてほしい』と大口注文が入ったほどだ。
そして、最後のお客。
その人が訪れたのは閉店間際の夕暮れ時だった。
「……まだ、やっていらっしゃるかしら」
「はい! ……あ……」
訪れた女性に、私はひどく見覚えがあった。
彼女は、伯爵夫人。
婚約後、ずっと私に寄り添ってくれた、柔らかな微笑みを常に絶やさない優しい人だ。
「あなたがお店を開くと聞いて、いてもたってもいられなくて。……私の愚息が、大変なご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「い、いいえ! どうかお気になさらないでください」
アイボリーの帽子を取って、深々と頭を下げる伯爵夫人に私は駆け寄る。
「あなたは、私のフレーバードティーを褒めてくださいました。私、それだけでどれだけ救われたか……伯爵夫人には、感謝しかありません。だから頭を下げないでください」
「アリアナ……」
「そうだ、せっかくお店にいらっしゃったんです。何か選んでいきませんか?」
「そうね、ぜひそうさせてもらうわ。……あなたの自信作はあるかしら?」
伯爵夫人が棚に並べられた茶葉缶を、好奇心がかき立てられたかのように、楽しげに見渡した。
「どれも渾身の出来ですが……こちらはどうでしょうか?」
私は少し迷いながらも、ローズとマリーゴールドの花をブレンドした茶葉を手に取った。
「花がお好きな伯爵夫人におすすめです。それに……少し酸味のある、特別なローズを入れてあるんです。これはお肌にとても良いんですよ」
「まあ……。それは楽しみね。ぜひ購入させていただくわ」
カラン、と扉のベルを鳴らしながら、伯爵夫人は嬉しそうに退店していった。
夕陽が今にも落ちそうなので、今日はこれで閉店となるだろう。
「……アリアナ。無事、初日が終わったようだな」
倉庫、作業スペースとなっている部屋の入口から、レインがひょっこりと顔を覗かせた。
彼は『変な奴が来るかもしれない』と、警戒してずっと裏で待機してくれていたのだ。
「レイン、ごめんなさい。退屈だったでしょう?」
「いいや、君の作った香りに包まれていると時間を忘れる。もっといたかったくらいだ」
「も、もう……」
告白されてからというもの、彼はこうやって私に猛攻を仕掛けてくる。
その勢いにたじろきながらも、彼と一緒にいられる時間をどこか楽しみにしている自分もいた。
「そうだ、閉店作業が終わったらお茶にしましょう。何か飲みたいものはある?」
「……柑橘系のフレーバードティーがいいな」
「わかったわ。少し待っていてね」
フレーバードティーが広まるのは、まだまだ時間がかかるだろう。
けれども私が地道にお店を続けていけば、必ずその魅力が広まっていくはず。
私はこの後起きることを全く想像せず、呑気にレインと楽しむためのお茶を淹れていた。
◇
「ど、どういうこと——!?」
定休日明けの日、開店当初から目まぐるしいほどの来客があった。
今まで数組のお客しか来なかったのに、開店前から大行列ができるほどだ。
「良い香り~。店員さんこれもください」
「私には美容に良いフレーバードティーをください!」
「は、はい、ただいま……!」
あちらこちらから声がかかり、体がもうひとつ欲しいくらいだ。
たまたま手伝いに来ていたレインがいたので、どうにかお客の注文をさばくことができた。
ようやく落ち着いたのは、閉店時間を過ぎた黄昏時。
その時になって、ようやく騒動の原因を知ることになる。
「ごめんなさい……。あなたの茶葉を、お茶会で話題にさせてもらったの。お肌にも良いと言ったら……あっという間に広まってしまって」
「そ、そういうことだったのですね……」
深々と頭を下げる伯爵夫人の話で、私は色々納得がいった。
確かに、今日は伯爵夫人におすすめした茶葉の売れ行きが最も良かったのだ。
「アリアナの茶葉は、一度魅力に気づけば誰も放っておかない。俺の言った通りだっただろう」
棚の整理をしていたレインが、誇らしげに私へ眼差しを向ける。
彼の姿を見つけた伯爵夫人は、驚いたように目を見開いた。
「あなたは、侯爵家の……。アリアナ、良い人を見つけられたようで安心したわ」
「え!?」
意味深な笑みを残しながら去っていく伯爵夫人を見送りながら、私はレインへと視線を移す。
いつの間にか、そばにいることが当たり前となっていたレイン。
彼のその美しい顔立ちを見ているだけで、今では鼓動が大きく跳ね上がってしまう。
「アリアナ、どうしたんだ?」
「ううん! 何でもないわ。さ、さあ閉店作業をしましょう!」
彼の告白への返事など、とうに決まっていた。
けれども、どうにもタイミングが掴めずに、ずるずると引き伸ばしにしてしまっている。
そんな最中に、あの事件は起きた。
◇
私のお店は王都中で話題となり、連日大勢の人で賑わった。
そしてついには王室からも注文が入り『王室御用達』という箔までつくことになる。
あの日、グレゴール様に突き返されたブレンドも、気づけばお店の人気定番商品となっていた。
忙しいけれども、フレーバードティーが広まりを見せるのは素直に嬉しい。
私がその日の閉店作業をしていると、扉が開くことを告げるベルが店内に鳴り響いた。
「ごめんなさい、今日はもう閉店で——」
棚の茶葉缶を整頓していた私は、来客に向かって振り向き、そして体が凍りついた。
「グレゴール……様……」
かつての婚約者、グレゴール。
いつもは完璧に整えられている金髪は乱れ、その瞳は意気消沈したように伏せられていた。
「アリアナ……すまなかった!」
彼は勢いよく頭を下げ、私に平身低頭の謝罪を向けてきた。
「今や社交界は、君の茶葉の話題で持ちきりだ……」
「それは……ありがたいことですね」
一体彼は、何のためにここへ来たのだろう。
私は一歩後ろに退きながら、彼の下げられた頭を訝しみながら見る。
「誕生日パーティーでのことだが……。私の言い過ぎだった。君の心を深く傷つけてしまった」
「え? あ、はい……」
正直、ここのところの忙しさで、婚約破棄の心痛など忘れてしまっていた。
彼は顔を上げて、私に無遠慮なほど距離を詰め寄ってくる。
「アリアナ、やり直せないか?」
「は、はあ……?」
「私と再び婚約しよう。今度は、君を大事にすると誓う!」
私の手を取ろうと、彼が無作法に腕を伸ばしてくる。
あまりの嫌悪感に、私は避けながら飛び退いた。
「さ、触らないでください! グレゴール様、私とあなたはもう他人です!」
「何……!」
「『今度は大事にする』? そんなこと信じられると思いますか?」
「ほ、本当だ! 嘘じゃない!」
「……それに、あなたが変な匂いと言った茶葉は、今ではうちの看板商品のひとつです。伯爵夫人も愛飲されていますよ。ご存知ではないでしょうが」
彼は意表を突かれたように、目を瞬かせた。
きっと、私のフレーバードティーを飲んだこともなく、ただ評判だけを聞いてやってきたのだろう。
「あなたに認められようとしていた、昔の私もういません。……今の私には、いつも私の全てを大事にしてくれる人がいます。あなたではありません。どうかお引き取りください!」
すでに、私の心の中には、いつも私を大事にしてくれた人がいる。
私のフレーバードティーを心待ちにしてくれるお客様がいる。
彼の手を取る理由など、どこにもなかった。
「下手に出ていれば、調子乗って……!」
彼は壁際まで追い詰めると、私の両手首を壁に叩きつけて拘束した。
「い、痛……!」
「断るというのなら……今ここで、無理やり君を奪ってやる!」
彼の言葉に、怖気が立つ。
必死に抵抗しようとするが、成人男性の力にはとても敵わなかった。
「やめて……レイン……!」
とっさに叫んだのは、いつもそばでささえ続けてくれた、大好きな彼の名前。
それと同時だった。
ドン——!
私の目の前にいたグレゴール様が、後ろへ引っ張られるように吹き飛んだ。
「アリアナに触るな……。グレゴール」
「お、お前は……!」
無様に地面へ転がるグレゴール様を見下ろすのは、レインだった。
無表情ではあるが、その群緑色の瞳が、怒りで燃え盛っている。
「今すぐ立ち去れば、見逃してやる。まだ彼女に手を出す気なら、侯爵家……いや俺がお前を叩き潰す」
「う、ぐ……!」
レインの言葉と怒気に、グレゴール様が言葉を詰まらせる。
震えながらグレゴール様が口を開こうとした時、扉のベルが鳴り渡った。
「グレゴール! あなた、なぜここに来たの!」
「は、母上……!?」
やって来たのは、レインに負けないほどに怒りを立ち上らせた伯爵夫人だった。
床に転がっている息子を見つけると、彼女は大きなため息を吐いた。
「あなたが、このお店に向かったと聞いて急いで来てみれば……。ごめんなさい、アリアナ。愚息が、またしても……大変な迷惑をかけたわ」
「母上! しかし……!」
「黙りなさい! あなたが、良縁を逃したと社交界で嘲笑われているのは知っています。だからといって、彼女に手を出すことは……この私が許しません。さあ帰りますよ!」
グレゴール様の首根っこを掴み、どこにそんな力があったのか分からない猛然さで、伯爵夫人は何度も頭を下げながら去っていった。
その背中を、私はポカンとしながら見送る。
「アリアナ! 大丈夫か……!」
レインが私に駆け寄り、そっと体を抱きしめてくれた。
彼の熱い胸に顔を埋めるだけで、先程までの嫌悪感と恐怖が一気に和らいでいく。
「レイン……。助けてくれて、ありがとう……」
「手伝いに来るのが遅れて、すまなかった。俺がいれば、君に指一つ触れさせなかったのに……!」
レインの腕に込められる力が、心配を物語るかのようにぎゅっと強まった。
体温が肌を通して、私の心の中に落ちてくる。
「……あのね、レイン。聞いてほしいことがあるの」
私も彼の背中に手を回し、その熱を全身で受け止める。
「いつも、私を支えてくれてありがとう。レインのおかげで、私はまた立ち上がることができたの」
レインの優しさがそばにあるだけで、どこまでだって強くなれる。
ありのままの自分でいられた。
「私も、レインのことが好き……大好き……!」
「アリアナ……っ」
彼がわずかに体を離し、私に温かな眼差しを送ってくれる。
「必ず、君を幸せにする。もう誰にも、君を渡さない……!」
「うん……。ずっとそばにいてね」
夜の静寂と、月明かりの中で、私はお互いを重ね合わせた。
その後、私のフレーバードティーの中で、定番となる大人気製品が生まれる。
それは、レインが好きな柑橘系のフレーバードティー。
彼のためだけに作ったブレンドは、彼だけではなく、王国中を魅了するのは、もう少し先の話。
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