第107話 ヴァルの断片
宗教国家との戦いが、日をまたいで続いていた。
大きな攻勢が来るわけではなかった。前線を維持しながら、小さく削ってくる。砲が撃ち込まれる。歩兵が仕掛けてくる。押し返す。退く。また来る。その繰り返しだった。消耗を狙っているのか、別の何かを待っているのか、まだ読めなかった。
補給が細くなったはずだった。それでも動いていた。外海ルートから届いているのかもしれなかった。あるいは備蓄があるのかもしれなかった。
こちらも消耗していた。魔法隊の疲労が出始めていた。エリスの顔色が毎朝少しずつ悪くなっていた。ロスは「怖いですけど」と言いながらも毎回持ち場に立っていたが、動きが鈍くなっていた。クルトだけが変わらなかった。「まだやれる」と言った。それだけ言って動いた。
その日の午後、宗教国家が歩兵を大きく前に出してきた。
グリムが機動部隊で先頭を叩いた。ドーガが集団で側面に入った。リシュアが後方で動いた。それでも数が多かった。城門に近いところまで来た。
ナナが前に出た。
魔法を使い続けた。黒閃斬で横一列を薙いだ。雷鎚陣で密集した部隊を散らした。障壁で押し返した。正面から圧力をかけながら、魔力が減っていくのを感じていた。
通常魔法では足りなくなる、という感覚が来た。
グリムが近くを走り抜けた。その背中に向けて、ナナは声を出した。
「グリム。少し離れないでください」
グリムが速度を落とさずに振り返った。一瞬で状況を読んだ顔だった。
「魔王化するか」
「はい。解けた後の護衛をお願いします」
「任せろ」
グリムが頷いて、ナナの周囲に目を配り始めた。
ナナは前線の形を確認した。
(退路はある。城門まで10歩。30分で前線を押し返せるか)
押せる。今の隊列の崩れ方なら、魔王化の一撃で前線が止まる。止まった隙間にグリム隊とドーガが入れば、30分かからない。
(グリムに伝えた。退路がある。30分で決着をつける)
ナナは額に触れた。黒い幾何学模様が広がった。瞳が黒くなった。
魔力が一気に満ちた。
体の輪郭が広がるような感覚があった。視界が変わった。戦場全体が見えた。どこに穴があるか、どこを叩けば崩れるか、全部が見えた。
その瞬間、声がした。
『……お前か』
足が止まった。
戦場の音が遠のいた。怒号も、砲音も、全部が薄くなった。その代わりに、聞いたことのある声だけが近かった。
『……久しぶりだな』
ヴァルの声だった。
「我」の意識の奥から、別の何かが触れてきた。断片的だった。霞の向こうから届くような薄さだった。それでも確かにそこにあった。
『断片的にしか出てこられない。聞こえている』
声が薄くなった。遠のいた。
足が動いた。
目の前に崩れかけた隊列があった。魔王砲・零式を構えた。高密度の魔力を一点に絞った。撃ち込んだ。前線が割れた。
「黒閃斬!」
割れた隊列の横を薙いだ。歩兵が散った。グリムの部隊がその穴に入った。ドーガが押した。前線が止まった。
戦い続けた。ヴァルの声はもう来なかった。「我」の中で、戦場だけが見えていた。
前線が退き始めたのは、それから20分ほど経った頃だった。
宗教国家の歩兵が引いた。砲が後退した。
魔王化を解いた。
口角が上がった。額の模様が消えた。瞳が戻った。そこから先は速かった。体の感覚が全部一気に戻ってきて、次の瞬間に膝から落ちた。地面に手をついた。石と土の冷たさが掌に来た。
グリムがすぐ横にいた。腕を掴んだ。引き起こした。
「来い。壁まで連れていく」
ナナは自分の足で立てなかった。グリムの腕を借りて、城壁の内側まで引かれた。壁に背をつけた。座り込んだ。
視界が暗くなりかけた。
(意識を保て)
そう思った次の瞬間、意識が途切れた。
目が覚めた時、天井が見えた。
自分の部屋だった。ランプが点いていた。窓の外は暗かった。夜になっていた。
グリムが椅子に座っていた。腕を組んで、目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、分からなかった。
ナナが体を起こした。音がした。グリムが目を開けた。
「起きたか」
「……はい。どれくらいですか」
「3時間ほどだ」
ナナは頷いた。全員の配置確認がまだだった。頭を切り替えようとして、グリムが先に口を開いた。
「今夜の配置はリーゼが見ている。お前は今日はもう寝ろ」
言い方に反論の余地がなかった。ナナは少し間を置いた。
「ヴァルの声が聞こえました」
グリムが少し動いた。腕の組み方が変わった。
「魔王化の中で?」
「はい。断片的に。久しぶりだな、と言いました」
グリムが黙った。しばらく、何も言わなかった。それからゆっくり息を吐いた。
「そうか」
グリムが立ち上がった。
「今夜は休め。明日話す」
グリムが出た。ドアが閉まった。
ナナは部屋に一人になった。
(ヴァルが戻ってきた。断片的に)
カオスとの戦いが終わった後、声は来なくなっていた。話しかけても何も来なかった。今日、魔王化の中で声が届いた。「久しぶりだな」という言い方が、確かにヴァルだった。
(また話せる。返事がある)
笑う気力はなかった。体がまだ重かった。ただ、口の端が少し動いた。
ランプの火が揺れていた。ナナはそのまま横になった。
翌朝、エリスが来た。
ノックが2回あって、顔を出した。
「入っていい?」
「はい」
エリスが入ってきた。ナナの顔を見て、少し眉を寄せた。
「まだ顔色悪い」
「昨日より良いです」
「そう」
エリスが椅子を引いて座った。少し間を置いた。
「昨日、魔王化してたの見た。あの時、一瞬止まってたけど」
「はい」
「戦場の中で止まるのは、普通じゃない」
ナナは頷いた。
「ヴァルの声が聞こえました。魔王化の中で」
エリスが目を少し開いた。
「戻ってきたの?」
「断片的に。魔王化の中でだけ、かもしれません。今はまだ分かりません」
「何て言ってた?」
「久しぶりだな、と」
エリスが少し黙った。それから、口の端が動いた。
「……それはヴァルっぽい」
「そうですね」
2人ともしばらく何も言わなかった。ランプの火が揺れていた。
「また話せると思う?」
「分かりません。聞こえている、とは言っていました」
エリスが頷いた。立ち上がった。
「よかった」
それだけ言って、エリスが出た。
ナナは部屋に一人になった。




