第二話
二階にあるファートの部屋から一階にある大広間へと向かう。屋敷の最も中心に作られた、華美で豪奢な大広間は会食の折に必ず使われる部屋だった。
扉が完全に開かれ、カーテンが留められて朝の日差しが大広間の中を照らしている。
「お嬢様、いらしていたのですね。お席のご用意を致します」
丁寧にお辞儀をして告げたメイドへ、ファートは「いいえ」と応える。
「お父様もお母様もいらしていない中、わたくしだけ席に着くだなんてこと、できません。代わりにシャトー・シャロンを一杯いただけるかしら」
「かしこまりました、すぐにお持ちします」
メイドは再度丁寧に頭を下げると大広間を出てキッチンの方向へと歩いていく。
大広間の長テーブルには汚れのひとつすら無い美しい白のテーブルクロスがかけられ、五セットの銀製カトラリーとシャンパングラス、ワイングラスが並べられている。
「お嬢様、お待たせいたしました」
ファートはメイドが運んできた、若草色のドレスによく似合う僅かに緑がかった琥珀色の白ワインへと口を付ける。
ワイングラスの丸い曲線を琥珀色が流れ、ファートの唇へと触れる。
ワイングラスへピンク色のルージュが色づくのを見て、ファートはメイドを呼び止める。
「よろしいかしら」
「はい、お嬢様。どうされましたか?」
メイドは作業を止めてエプロンで手を拭き、美しい所作で頭を下げる。
「ハンカチーフをいただける? わたくしの部屋にありますわ。マエリスか、アニエスに聞いて頂ければ分かります」
「かしこまりました、すぐお持ちします」
ファートの言葉にメイドは微笑んで、決して走らずにファートの部屋がある方向へと向かう。
メイドが去ってからすぐに用事を言付けられたメイドが薄いピンク色のクラッチバッグを持ち、大広間へと戻る。
「お嬢様、お待たせいたしました。アニエスから、こちらをお嬢様にと預かりました」
「丁度良かった、わたくしもバッグが必要だと思っていましたの」
ファートは微笑み、バッグの中から精緻な刺繍が施された白い絹のハンカチを取り出し、ワイングラスのルージュを拭う。
ハンカチを片付けたところで、ヒールが床を柔らかく叩く音がファートの耳へと届く。
「おはようございます、奥様」
その挨拶に、ファートの母であるサロメは微笑み手を振ることで応える。
サロメは美しい赤と白のドレスを身に纏っている。僅かにデコルテが露わになっているドレスは、しかし品の良さを感じさせる。裾は長くカーペットへと垂れており、ドレスと同色の美しいヒールが床を叩いている。
「あら、ファート。もう来てたのね」
「はい、お母様。おはようございます」
ファートはサロメへと深くお辞儀をする。
「ええ、あの人はまだなの?」
サロメの言う“あの人”が父・アドルフであることを理解しているファートは微笑み「はい、まだいらしてませんわ」と告げる。
それにサロメは僅かに唇を引き結び、そして一度目を閉じてから「仕方ないわね」と呟く。
そして、ファートの手にあるグラスを見ると、サロメはメイドを呼び止める。
「いいかしら」
「はい、奥様。いかがされましたか」
「デュポネを頂ける?」
サロメの言葉にメイドは「かしこまりました」と応え、大広間を出て行く。
キッチンへと向かったメイドが、数分の後に美しい赤色の液体を注いだワイングラスを銀製のトレーへ乗せて運んで来る。
「奥様、お待たせいたしました」
「ええ、もういいわ」
サロメの言葉にメイドは深く頭を下げてキッチンへトレーを戻しに向かう。
大広間の中は完全に飾られ、テーブルの上にはナフキンとフィンガーボウルまでもが用意されている。
その様子を、サロメはワイングラスへと唇を付けて眺める。その表情には僅かな苛立ちと不満が見て取れる。
しかし、ファートはその僅かな機微を理解できるのは娘である自分だけだろうということは分かっていた。
「ご主人様がお帰りになりました」
執事長の言葉に、サロメとファートはワイングラスをメイドへと渡し、玄関へと向かう。
「おかえりなさい、あなた」
「お父様、おかえりなさい」
自然に出迎えたサロメと、深く頭を下げたファートに、アドルフは「ああ、ただいま」と告げる。
深く、低い声はファートの鼓膜を柔らかく揺らす。アドルフはチャコールグレーのスーツに赤いネクタイを締めている。その鼻の下で整えられた髭は髪の色と同じ金色で、朝日に照らされ僅かに輝いている。
モノクルの向こうでは、オリーブのような美しい緑色の瞳が優しくファートを見つめていた。
アドルフは執事長へステッキとジャケット、ハットを渡して自身の後ろへと隠れるように立っていた二人の娘を見せる。
「ファート、この二人がお前の姉になるオリーブとジャンヌだよ」
栗色の髪に若葉のようなグリーンの瞳をしたオリーブと、金色の短い髪に空のように青い瞳をしたジャンヌの姿に、ファートは微笑む。
「ごきげんよう、オリーブお姉様、ジャンヌお姉様。わたくしはアーミッティウス公爵家の第一子、ファート・ドゥ・リシャール・アーミッティウスですわ。
本日から家族としてよろしくお願いします」
「あ、ああ、よろしく。アタシはオリーブ・カピュソンだよ。ただのオリーブだ」
「アタシは、ジャンヌ。アンタみたいなお嬢様にオネエサマなんざ言われるような立場じゃあないよ」
薄く汚れた髪に、顔には煤が付き小汚い布切れを纏っているような、質素なワンピースを着た二人に、しかしファートは微笑みを絶やさない。
「お母様、お父様、お食事の前にお姉様たちに湯浴みをさせてあげてもよろしいかしら」
「ええ、早くそうしてあげなさい」
サロメの言葉にファートは深く礼をし、アニエスとマエリスを呼ぶ。
「お嬢様、お呼びでしょうか」
アニエスは二人の姉を見た途端、その汚さに一瞬ギョッとしたような表情を浮かべるも、すぐに表情を取り繕う。
「ええ、先程お姉様方が訪れましたの。せっかくですから、お二人をお風呂に入れてあげたいのですわ」
「かしこまりました、客室へご案内します」
アニエスとマエリスがしずしずと歩く後ろを、ジャンヌとオリーブは僅かに足先が外を向いた粗雑な歩き方で着いて行く。
その足元は裸足で、足裏までもが黒く汚れきっていた。
「マエリス」
ファートが呼ぶ声に、マエリスは「はい」と応えてファートの元へと戻る。
「お姉様方に、わたくしがもう着ていないドレスを着せて差し上げて。ヒールも、何を使っても結構よ」
「……かしこまりました」
僅かに葛藤が見えたマエリスが、しかし主からの命令であると言葉を飲み込み、頭を下げる。
メイドと二人の女性の姿が見えなくなったところで、サロメが自身の頭を押さえる。
「まさか、本当に連れてくるとは思わなかったわ」
「私がいままでに冗談を言ったことがあるか」
サロメは目を閉じ、数度深く呼吸を整える。
「わたくしが騎士だったなら、あなたへ手袋を投げ付けていましたわ」
「それはそれは、君が美しい女人で良かったよ」
アドルフは執事を呼び止める。
「君、ブランデーを一杯持ってきてくれ」
「かしこまりました」
執事は腕に掛けたナフキンをそのままに頭を下げて大広間を出て行く。
「お前たちは、いらないのか?」
「わたくしは先程、シャトー・シャロンをいただきましたわ」
「わたくしも」
アドルフの言葉に応えたファートとサロメに、彼は微笑みテーブルへと座る。誰からも最も遠い席にはひと揃いの銀製カトラリーとシャンパングラス、ワイングラス、フィンガーボウルだけが置かれている。
まさに家長のための椅子であった。
それを確認したサロメがアドルフの右隣へと座る。
「あなたも座りなさい」
「はい、失礼します」
サロメから促され、ファートはアドルフの左隣へと座る。
すぐにアドルフのブランデーが運ばれ、食前酒であるシャンパンが運ばれてくる。
ようやく、朝の食事が始まろうとしていた。




