007 「今からテストをします」
「ここがお兄ちゃんの部屋です。必要なものがあれば、自由に探してくださいね」
夜、神矢家にて。
私こと神矢璃奈は、今日からしばらくうちで暮らすことになった美護冬音さんに、家の中を案内していました。
まあもちろん、冬音さんの外見も声も、完全に私の兄なのですが。
「へぇー、神矢くん、お部屋綺麗なんだね」
「そうですね。入れ替わりに備えて、ものを探しやすくしてるんだそうです」
「え……そ、そうなんだ。すごいね……」
冬音さんは少し驚いている、というより、引いている様子でした。
正直、気持ちはわかります。
あの人の入れ替わり対策は、ちょっと……異常ですから。
「お兄ちゃんは毎朝、目覚めると必ず、この引き出しの指輪を右手の中指に着けます。私たち家族は、朝に顔を合わせたとき、お兄ちゃんが指輪をしていなければ、入れ替わりが発生した可能性にいち早く気づくことができます。そして今回も、このルールを知らない冬音さんは、当然指輪をしていませんでした」
「な、なるほど……! なんか、秘密のサインみたいでかっこいいかも……」
冬音さんは感心したような声を上げ、小さく拍手していました。
お兄ちゃんらしい、凝った仕掛けです。
まあ冬音さんも、前回の亜梨紗さんも、お兄ちゃんとは雰囲気が違いすぎて、指輪ルールがなくてもすぐにわかりましたが。
「冬音さんの部屋はこちらです。普段はここを使ってください」
二階の一角にある、いつもは誰も使っていない部屋の扉を開けて、私は言いました。
ベッド、机、日用品が整備され、中身はカラですが、収納の棚も置かれています。
「わぁ……こっちも綺麗。ホテルみたい。でも……いいの? こんな素敵な部屋……」
「はい。この部屋は、そのために空けてあるので」
入れ替わりが起こってしまったとき、相手の人にそのままお兄ちゃんの部屋を使っていただくのは、やっぱり避けたいです。
今回や、前回の亜梨紗さんのときのように、女性の方だと特に。
「これも、神矢くんが?」
「……いいえ。部屋のアイデアは、神矢家全員で。家族単位で慣れてますから、うちは。ちょうど、部屋も余っていましたしね」
「そっか……大変だなぁ」
大変。ええ、そうなのだとは思います。
ただそれを言うなら、巻き込まれてしまった人の方が、ずっと大変でしょう。
私たちが手助けするとはいえ、迷惑で、受け入れ難いでしょうから。
「本当にすみません、冬音さん。ご不便のないよう、できる限りお手伝いしますので……」
あまり謝り過ぎても、とは思いつつ、私はまた、冬音さんに頭を下げてしまいました。
こんなことをしたって、仕方ないのに。
身体が戻るわけじゃないのに。
「ううん、気にしないで。璃奈ちゃんのせいでも、神矢くんのせいでもないんだし。どっちかっていうと、神矢くんを夢に見ちゃった、私のせい? かもだしね」
冬音さんはそう言って、柔らかく笑ってくれました。お兄ちゃんの顔で。
本当に、優しい人です。
亜梨紗さんも優しいですが、入れ替わった日の荒れっぷりは、まあすごかったですし。
今でこそ仲よしな私でさえ、初日は噛みつかれそうでした。もちろんお兄ちゃんの口で。
それから、私は冬音さんをお風呂場やキッチン、トイレへ案内し、ものの場所や使い方を伝えました。
特にお風呂とトイレは、最初のうちは不便が多い場所です。
ただでさえ、身体が男性になって、不慣れなことだらけなはずですからね。
「わからないことはなんでも私に聞くか、共有メモを確認してください。お兄ちゃん、マメなので、たぶんなんでも書いてあると思いますので」
「うん、ありがと。すごいねあれ。洗濯物の干し方まで書いてあるし。あとご近所さんの苗字とか、お隣のペットの名前とか」
「はい。こちらは、いくらでも準備する時間があるので。まあ、ちょっとやり過ぎな気はしますが」
とはいえ、配慮が抜けたせいで入れ替わり相手を困らせてしまうのを、お兄ちゃんはなによりいやがります。
できる限りのことはやる。それが巻き込む側の責任。
あの人は以前、そのようなことを言っていました。
「男性との身体的な違いで困ることがあったら、それも私に言ってください。私も……まあ、勉強しているので。これに備えて」
「わっ……そ、そうなんだ。……うん、わかりました」
なんだかおかしなやり取りをしてから、私たちは一度、リビングに戻りました。
今日はもう少し時間があるので、やるべきことを済ませてしまいたいところです。
「では冬音さん、突然ですが、今からテストをします」
「えっ……て、テスト? な、なんですか、それは……」
困惑している冬音さんの前に、私は用意しておいた紙をスッと置きました。
シャーペンと消しゴムも揃えて、スマホでタイマーを設定します。
「学力テストです。基本的な問題ですが、入れ替わり生活の始まりにあたって、チェックしておかないといけませんので」
「ふぇっ……そ、そうなの?」
「はい。制限時間は十分。では、スタートです」
私が合図すると、冬音さんはビクッと肩を跳ねさせつつ、慌てて紙を裏返しました。
シャーペンの芯を出して、問題に向かい始めます。
ただ、ときどき私の顔をチラチラと窺って、不安そうにしていました。
「で、できました……!」
数分後、冬音さんがペンを置いて、ピシッと手を上げました。
私はタイマーを止めて、紙を受け取ります。
……ふむ、なるほど。
「お疲れさまでした。では、採点します」
「は、はいっ。お願いします……!」
冬音さんは緊張しているようでした。
問題は、簡単な数学、というか算数や、漢字の書き取り、英単語の意味を答えるものなど、教科の区別なく、様々です。
しかし――。
「冬音さん」
「はいっ」
「ゼロ点です」
「えぇっ⁉︎ そんな!」
私の採点結果を聞いて、冬音さんは絶望的な表情でのけ反りました。
素直な人です。なんだか、申し訳なくなってしまいますね……。
「な、なんでぇ……? 見直ししたのに……え、『トクチョウ』がある、って、この字じゃないんだっけ……?」
「いえ、そこは合っています。というか、問題自体は全て正解です」
「えっ……そうなんだ。ほっ。……あれ、でもそれじゃあ、どうして?」
「ここ」
私はピッと、紙の上部を指差しました。
冬音さんが顔を近づけて、まじまじとそこを見つめます。
「名前です。あなたは『美護冬音』ではなく、『神矢琉依』ですよ」
「……あっ」
私の指摘に、冬音さんは両手を口に当てて、目をパチクリさせていました。
うっすらと、額に汗が滲んでいるようにも見えます。
「問題は、カモフラージュです。このテストの本当の目的は、無意識に自分の名前を書いてしまう恐れを実感してもらうことです」
「なっ……なるほど! まんまと!」
「騙すようなことをしてすみません。これもお兄ちゃんの考案で、自分が入れ替わり中、一番うっかりしそうだったのが、名前だそうで」
あの人の話では、前回亜梨紗さんと入れ替わったときにも、ヒヤッとすることがあったそうです。
それに、亜梨紗さんも言っていました。自分の名前を書いたまま、プリントを提出しそうになって怖かった、と。
「もともと、記名というものは無意識に行われがちです。もう何百回、何千回もやったことでしょうから。特にテストなどでは、意識は問題の方に集中していますしね」
「た、たしかに……メンタリズムや……」
冬音さんはおかしなことを言っていました。しかも、関西弁で。
もしかして、ちょっとおもしろい人なのでは。
「ということで、これからは、こういうヒヤリハットがいくつも起こるはずです。致命的なものばかりではありませんが、自分が他人になっているという意識を常に持って、あまりなにかに集中せずに過ごすのがポイントです」
「は、はいっ、ありがとうございます、先生!」
またピシッと手を上げて、冬音さんがいいお返事をしました。
マジメで、熱心。本当にありがたいです。
ただ、亜梨紗さんのときよりもなんとなく、ちょっとだけ心配になっている自分がいるのもまた事実でした。
大丈夫でしょうかね……。
「あの……ところで、先生」
「ん、はい、なんでしょう?」
先生ではありませんが、まあそれは今はいいとして。
「この『ワザワイ』っていう漢字……『炎』にしちゃってました……」
「……まあ、テストの中身は関係ないので」
やっぱり、心配でした。
とはいえ、私も見逃していたんですけどね。
『もしもし、璃奈?』
冬音さんが初めてのお風呂に入っているのを、待つあいだ。
私が通話をかけると、すぐに応答がありました。
今日はやることが多くて、忙しいですね。
「はい。出張お疲れさまです、お父さん」
電話の向こうで、父がほほ笑んだ気配がありました。
お仕事の関係で、神矢家の主人であるお父さんは今、別の地方のホテルに泊まっているのでした。
つまり今、この家には私と、冬音さんしかいないのです。
まあ、その方がなにかと都合がいいような気もしますが。
少なくとも、入れ替わりの初期に関しては。
『……今回も面倒かけるね、璃奈』
「いえ。前回で慣れたぶん、うまくやれると思います。安心してください」
『そうか。……でも、悪いね、本当に』
受話口から弱々しい声と、小さなため息が漏れ聞こえてきました。
今回の入れ替わりのことは、すでにお父さんにもLINEで伝えてありました。
当然ながら、入れ替わりは家族全体の問題です。
連携して冬音さんをサポートするためにも、情報共有は大切です。
『今回も、女の子なんだね?』
「はい」
『そっかぁ……また難しいなぁ』
「私は、女性の方が嬉しいですけどね」
気を遣うことが少なくて、ずっと楽です。
ただ、やはりお父さんにとっては、年頃の女子高生との接し方には、なかなか苦労するようです。
しかも、外見は自分の息子ですからね。
ただ、逆に男性の場合には、お父さんに頼る部分が多くなります。
そこはお互いさま、というものでしょう。
『電話ありがとう。大変だろうけど、僕が帰るまでよろしくね』
「はい。そちらこそ、お仕事頑張ってくださいね」
『ああ。それじゃあ』
プツン、と通話が切れて、スマホが静かになりました。
お風呂場の方からは、まだシャワーの音が聞こえています。
おそらく、もうしばらくは、出てはこられないでしょう。
「……さて」
一度吐息をついて、私はまた、LINEの画面をスクロールしました。
もうひとり、報告をしなければならない人がいます。
ちょっとだけ、気が進まないけれど。でも、話さないわけにはいきません。
だって、さっきも言った通り。
入れ替わりは、家族全体の問題、なのですから。
「……もしもし、お姉ちゃん?」




