016 「それが夢なんでしょ?」
神矢家での情報共有が終わり、夜。
帰宅した俺は、自分、もとい美護の部屋で、本棚で見つけた演技の教本を読んでいた。
明日、また稽古がある。
初回はなんとかなったけれど、先生には普通に、下手だと言われてしまった。
台本のパートでは褒められた部分もあったが、そのあとの即興芝居、インプロとかエチュードとかいうらしいが、そっちはマジでボロボロだった。
アドリブは、正直苦手じゃない。けどそれはあくまで、入れ替わりがバレずにその場をやり過ごすためのものだ。
演技としては、やっぱりおもしろくなければならない。
演じるキャラも、立ってた方がいい。
そういう意味で、俺の演技とは目的が真逆なのだ。つまり、完全ド素人だ。
となると、やはり勉強あるのみなわけで。
「ふむ……演技中の感情は、過去の自分の経験から再現する方法がある。けど、精神的消耗が激しくてちょっと危険、か。なるほどな……」
演技の本は、読んでいるとかなり勉強になった。
なんとも奥が深い世界だ。
それに、これなら稽古だけじゃなく、自分の入れ替わり対策にも活かせそうだ。
学んでおいて損はない。
「お、即興のメソッド。ここが気になるな。なになに……『イエス・アンド』が大原則。即興劇では相手の提示した設定やセリフを否定せず、受け入れて重ねていく。否定すると場が停止し、即興は成り立たない。はぁー、さよですか」
どんどん賢くなっていく。
学校の勉強はともかく、こういう学びはかなり好きだ。
ただ、明日のレッスンでいきなり実践するのはちょっと怖いな……素人の上滑りが。
「冬音、ちょっと話があるから、降りてきなさい」
と、突然背後から、母親の声がした。もちろん、美護母だ。
ノックは……されたのだろうか。
本に集中していたせいで、聞き逃したのかもしれない。
「あ、うんっ。行きます」
先に階段を降りていく母親を、少し心の準備をしてから追いかける。
これまで、あまり母親と長く会話したことはない。
ましてや、こうして呼び出されるのは初めてだ。
マニュアルはひと通り頭に入ってるが、さて、果たしてなんの用なのか……。
「お待たせぇ」
ダイニングのドアを開けると、母親がテーブルについていた。
父親の姿はない。おそらく書斎だろう。
テレビもついておらず、部屋は無音だった。
「どうしたの? お母さん」
向かいに座りながら、そう声をかける。
重めの空気で口調が硬くなってしまっている気がするが、まあそれもリアルだろう。
「どうしたの、じゃないでしょ。先週榊先生に言われたわよ。最近身が入ってないって」
「えっ……」
榊先生、演技の稽古をつけてくれている人だ。
身が入っていない、と聞いて、俺のせいかと思ったが……先週なら、まだ入れ替わってないときの話だな。
「集中力が欠けてる、演技も成長してない、って。どういうこと? あんた、マジメにやってるの? この前夕飯で聞いたときだって、なにもないって言ったわよね?」
「えっと……ごめんなさい」
声のトーンを落として謝りながら、頭を働かせる。
こういう不測の事態では、状況をできるだけ正確に把握して、正しい振る舞いをしなければならない。
母親は、怒っている。
その原因は、先生から美護に指摘が入ったから。
稽古に集中できていない。演技が伸びていない。
そして先日、俺が初めてレッスンに行った日の夜、母親からの質問に対して、俺がその不調を自己申告しなかったから。
それがよくないことなのは、もちろんわかる。
だが……そんなに怒ることなのか?
「ただでさえ、学校のせいで週三日しかレッスンできてないんだから。限られた時間でみっちりやらなきゃ、周りと差はつけられない。それくらい、あんたもわかるでしょ」
「……うん」
俺が顔を伏せても、母親の叱責はどんどんトゲトゲしさを増していった。
やはり、違和感が拭えない。
芝居はあくまで、美護が自分の意志で取り組んでいるものなはずだ。
そしてその美護は芝居について、俺に「半分趣味みたいなもの」と言っていた。
なら、今回みたいな不調を、親がこんなに深刻に叱るだろうか?
そりゃ、普通の部活や習いごととは、本気度は違うんだろうけど……。
「わかってるの? あんたは早く、元の場所に戻らなきゃいけないの。それが夢なんでしょ?」
「……うん」
夢? それに、元の場所ってなんだ……?
考えられるのは……プロの役者の世界。子役時代に出てた、テレビの世界か?
だが美護からは、そういう目標があるとは聞いてない。
それに、マニュアルのどこにも書いてなかったはずだ。
……。
「もう何年、お稽古だけしてるの? オーディションも通らないし、先生にまであんなこと言われて、私がどれだけ情けなかったか、あんたわかる?」
「ご、ごめん……ホントにごめんなさいっ」
母親の語気がさらに強まり、俺はひとまず美護としての振る舞いに集中することにした。
気になることはある。が、まずはこの場を乗り切るのが先決だ。
「来月頭のオーディション、申し込んでおいたから」
「えっ……オーディション?」
しかも来月の頭……なら、そのときはまだ、入れ替わり期間内だ。
「昔お世話になってたプロデューサーさんに連絡取ったの。深夜ドラマの役よ。そこまで大きなお仕事じゃないけど、ここからまた注目してもらえれば、次のお仕事に繋がるわ」
母親は一枚の紙を取り出して、俺の前に置いた。
オーディションの詳細らしきものが書かれており、少しシワが出来ていた。
「お母さんが作ってあげたチャンスなんだから、今度こそ結果を出しなさい。お稽古もしっかりやらないと、一生後悔するわよ。いいわね?」
「……はい」
それっきり、母親は立ち上がってキッチンに入り、雑な手つきで洗い物を始めた。
もう話は終わり。
背中が、一方的にそう告げているようだった。
俺は紙を掴んで、自室までの階段をゆっくり上がった。
途中、今日の神矢家での美護のセリフが、頭に蘇ってきていた。
――お母さんは? なにか……言われたりとかしてない?
「……」
まあ、そりゃそうだ。
いくら入れ替わりをやり過ごすためだっていっても、なんでもかんでも、相手に話せるわけじゃない。マニュアルに書いてくれるわけじゃない。
俺ですら、母さんや姉貴については、書いてないことだってあるんだから。
「冬音」
部屋のドアノブを掴んだところで、声をかけられた。
まだ、数回しか会話していない、もうひとりの美護の家族。
休日なのにきちっとした服を着て、父親は書斎の前に静かに立っていた。
「お父さん……どうしたの?」
「……いや」
ふいっと顔をそらして、父親は階段の方に視線を投げた。
神経質そうに眉根をギュッと寄せて、かすかにため息をついたようにも見えた。
なにを言われるのだろうか。
続きを待つあいだ、いくつかのパターンが思い浮かんだ。
けれど、結局父親の口から、予想したどの言葉も出なかった。
「なんでもない……悪いな、邪魔して」
「えっ……ううん」
書斎に戻る父親を見送ってから、俺も部屋に入った。
さっきまで読んでいた教本を再び開きながら、思う。
今日の出来事は、なにを意味しているのか。
美護冬音なら、どうしたのだろうか。
そして俺は、どうするべきなのだろうか。
今、美護の身体に俺が入っていることが、あらためて申し訳なかった。




