第214話_引っ越す
「光一、こっちだ」
喫茶店のドアを開けると、父さんが窓際の席で手を振っていた。
「元気か」
父さんは静かに笑った。
額の毛が少し白髪になってきていた。
父さんは、離婚した。
離婚を言い渡された俺の義理の母親は激怒していたし、義理の弟は父さんに懐いていたので悲しんでいた。
「俺は、死んでしまったあいつのことがやっぱり忘れられない。
今さらだけど、こんな気持のままで再婚したのが、そももそ間違いだったんだよな」
窓から差し込む暖かい日差しに目を細めながら、父さんが言った。
「光一、お前にも悪いことをしたと思ってる。
父さんがお前を一人で育てればよかったんだ......
でも仕事との両立に自信がなくてつい......」
「そんなのもういいよ。
それより弟は大丈夫かな。
あいつがきちんと大学に行けるお金はあるのかな?」
「大丈夫だ、慰謝料を渡した。月々の養育費も渡すつもりでいる」
「うん、それならよかった」
父さんは航空機を操縦する免許を持っていて、給料は良いし金に困らない。
父さんの技能を必要とする企業は国内外に多く、引く手あまたという話だった。
「実はアメリカのテキサス州にある航空会社のオファーを受けようと思ってる。
しばらくは向こうで暮らすことになる」
父さんはぼそっと言った。
「そっか。じゃあ、今日はお別れを言いに来たんだ?」
「そんな......別れじゃない。
またすぐに会える。長期休暇のときはアメリカに遊びに来い」
父さんはニヤリと笑うと俺の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
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(うぅ、寒い)
灰色の空をみあげる。
(今にも雪が降りそうだな......)
今日、俺はパーソナルトレーニングスタジオヒルマから引っ越す。
父さんは俺の学費とアパート代を出してくれた。
学費は葵に返した。
葵は「いらない」って何度も拒否してたけど......。
アパートも借りた。
だから「ジム」から引っ越すことにしたのだ。
荷物はカバンひとつだけ。
(いつまでも蛭間さんに甘えるわけにはいかないし)
「そんな。光一、いつまでもここに住めばいいのに。
大学からも近いんだし」
蛭間さんは、俺が「引っ越す」というと眉をひそめて反対した。
「ポータルを開ける仕事は、ちゃんと引き受けますよ?」
腕につけているポータルを蛭間さんのほうに振ってみせた。
「あと、たまにここでトレーニングさせてください」
「そんなの良いに決まってるでしょ。ここの鍵はもってなさい」
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シーンと静まり返ったジムを見回す。
はじめてポータルを開けた壁をさする。
(壁から裸の女たちが現れたとき、びっくりしたよなぁ)
俺のベッドの上で、葵が消滅のトリガーで消えたこともあった。
豆次郎が吸い込まれていった鏡。
6人の悠人が優香を囲んで祈りを捧げたフロア。
俺の小さな寝床。
うどんをよくつくったミニキッチン。
いろいろあったよな。
またいつでも来れるけど。
ここに住むことはもう無い......。
なんとなく、自分の人生に「一区切り」がついたことを感じる。
「さて......。行くか」
ゆっくりと立ち上がる。
ボストンバッグには、教科書何冊かと少しの現金と衣類だけが入っている。
このジムに住みはじめたときと同じ荷物だ。
腕には二つのポータルを着けていた。
亡くなった圭一のポータルと、自分のポータル。
ふりむいてジムを見回す。
「ありがとう」
小さくつぶやいてジムの扉をそっと締めた。




