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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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手島由海の襲撃

 九月の下旬になっても暑い日が続いていた。いくら日差しが強くたって洗濯物の皺を伸ばしてくれるわけじゃないし、わざわざアイロンを温めて苦行をしなきゃいけない。窓を開けて扇風機を回していても正座をした膝の裏に汗が溜まって痒くなってくる。

 だから電話が鳴った時僕はほとんど待っていたみたいにすぐ立ち上がってしまった。アイロンを立て、膝の裏を手の甲で擦って、それから玄関に行って電話の様子を見る。母と伯父さんが掛けてくるのは決まって夜だから、どうせ不動産か何かの勧誘だろう。連中は暗くて深い沼の底に生息していて、橋の上から電話番号やら住所やら個人情報が降ってくるなりばくばく食いついて、ついでにみょーんと触手を伸ばして誰かの足首を引っ掴めないか手探りに探っているのだ。振り向いたら恐いぞ。でも割りと飽きっぽいのであんまり粘っていることはない。ちょっと我慢していればすっといなくなる。

 ところがその時の電話はなかなか鳴り止まなかった。どうも売り込みの感触ではない。取ってみると知っている声が聞こえた。

「ああ、いないのかと思った」

「深理さん?」僕は訊き返した。その通り相手は深理さんだった。けれど僕は何か大事な感覚を忘れていて、その声が彼女のものであるということや、彼女が僕に電話しているという現在をすぐに受け入れることができなかった。

「急にごめんね」

「いいえ」僕は靴箱に尻で寄りかかって受話器をひっくり返す。コードが捩じれていたのが気になって直しただけだ。「どうしました?」

 僕は訊いたのだが深理さんはなかなか答えなかった。声が聞こえなかったのだろうか。長い長い電話線の中に横たわる闇が僕の声を吸い取ってしまったのだろうか。それはまるで僕の存在そのものがそんな闇の中に消えていくような感覚だった。

「深理さん」僕はもう一度呼び掛けてみた。

 するともっと短い沈黙があって

「今、来られる?」と彼女は前置きなしに言った。

「ええ、いいですけど……」

「ちょっと問題があって」

「なんです?」

「来てくれたら話すから」深理さんは短く答える。「いい?」

「すぐ行きます」

「それじゃあ」と言って、終始素っ気ない調子だったくせに僕が切るのを待っている。

 受話器を置いて、まずアイロンを切る。プラグも抜く。襟と背中だけ綺麗に伸びているシャツを取り上げてハンガーに掛け、アイロン台はそのままにしておく。部屋着で出るわけにもいかないので着替える。白人の女の子の白黒写真がプリントされたロックな黒いTシャツと柔らかいジーパン。外出に上が一重では落ち着かないので薄手のカーディガンを羽織る。靴下も短いのを履く。拘っている余裕もないのであまり気の利いた格好ではない。廊下の姿見で髪が跳ねていないか、顔が寝呆けていないかだけ一応確認して頬を二三度両側からぴしゃっと叩く。

 窓を閉める時に片足をベランダのコンクリートの上に踏み出して外を見ると、遠い西の空に壁のような雲が見えた。風が吹き始めていた。

 深理さんは僕の携帯電話の番号も知っているはずだった。メモを失くしてしまってたまたま先に見つけたのが家の電話番号だったのだろうか。それともただ携帯電話が嫌いなのだろうか。たぶんどちらも違う。今の電話は家を空けてどこか遠くへ行っている僕に繋がっても意味がなかったのだ。

 そんなことを考えていたら八階から降りるエレベーターの中で財布やら携帯電話を持っていないことに気がついた。一階で扉が開く。駐輪場に向かう。一瞬取りに戻ろうか迷ったけれど、やめておいた。戸締りはしたし自転車の鍵も持っている。何か持っていかなきゃならないものがあるわけでもない。

 車架から自転車を降ろして跨る。風が強かった。自転車に乗っている時の風って大抵向かい風じゃないだろうか。ペダルは上り坂みたいに重いし、目にごみは入るし、唇は乾いて罅割れる。酷い時なんか行きも帰りも目の前から吹いてきて、気圧の神はよっぽど自転車が嫌いなんだなと思う。子供の頃に轢かれたことがあるのかもしれない。

 千住にはいくつか神社があって、もともとは別々に例大祭をやっていたのだけど、一週七日が人々の生活を規定していくとともにだんだん日程が重なって、今ではほとんどひとつの巨大なイベントになっている。四年に一度、九月、神輿も人手も大変な騒ぎで、行燈の光、お囃子の音と一緒になって通りを埋め尽くす。その夜は表へ出ただけで目が回りそうだった。

 それが前の週末。電柱の貼り紙や軒先に渡した二色の縄や、まだ祭の名残の裏通りを抜けていく。

「ちょっと問題が」

 それがどういうことなのかが気掛かりだった。問題って何のことだろう。それは僕の手に負えることなんだろうか。

 店のショウウィンドウはシャッターが下りている。その前に寄せて自転車に鍵を下ろす。右手の駐車場にサンバーがなかった。地面に敷かれたコンクリートのタイルとその隙間から生えた猫じゃらしが日に当たっている。そこを広々と入っていって玄関の戸の前に立つ。物音はしない。呼鈴を押す。インターホンはない。茶色いボタンに鐘のマークがついた機械式のチャイムで、押し込むと低い音で「ぴん」という。その指を離すともう一つ低い音で「ぽん」という。ボタンの裏に糸と滑車が繋がっているんじゃないかと思うくらい手応えがある。僕は慎ましやかに少し長めにチャイムを鳴らした。やがて足音が近づいてきて錠を開く音が戸の厚みを隔てて響いた。深理さんがつっかけに片足を入れて戸を開ける。襟の詰まった薄手の真っ白なセータと黒いベロアスエードのロングスカートを着ている。

「妹が暴れてるの」深理さんは言った。余裕のない顔色だった。

「由海さん?」

「そう」

 問題の根源はどうやら妹さんらしい。僕は身構えた。暴れるって、どんなふうに? だいたい僕は手島由海という人間をまだ知らない。

「状況は?」

 そう訊くと深理さんは手の甲で額をこんこん叩いた。その手が溶けて柔らかくなった保冷剤を握っていた。でも火傷したとか、ぶつけて痣になっているとか、どこか自分の体の一部を庇っているふうではなかった。何か別の用途があって持ち出したのを状況が立て込んだせいで手の中に忘れているようだった。彼女は僕の視線で気付いて、というか思い出して、保冷剤を下駄箱の上に置いた。それだけだ。説明はなかった。

「男に振られたっていきなりやってきて。酷いわよ。すごく気が立ってるの」

 僕はあらゆる事情について、つまり保冷剤のことも含めて、それ以上訊かずにスニーカーを脱いだ。三菱重工のエアコンが仕事をしているのか中は涼しかった。居間の方はいつも通り、雑然としているがそれはそれできちんと収まりがついていて誰かが荒らした形跡は全くない。

 深理さんは階段を四五段上がって振り返る。「付いて来て」と暗に言っている。

 僕は躊躇した。狭くて急な階段だから恐いというのではなくて、今まで手島家の二階に上がったことがなかったからだ。一階は手島模型だが、二階は別の領域という感じがした。

「来て」と深理さんは改めて口に出した。

 手島家の階段を初めて上る。見た目通り急な階段だった。上ったところの踊り場は広く、正面に一対の本棚と低いテーブルセット、水回りが右手にある。上り切って二階の床から立ち上がった欄干を右に回ると南に伸びた廊下の奥と左側に二間続きの和室がある。次の間は見通せるが奥の間の襖は全てぴたりと閉じられている。

 深理さんは廊下を奥まで行って襖の引き手に手をかける。けれどその襖は何かに内側からまんべんなく押しつけられていて動かない。次の間に入って右から順に試してみると左側手前の襖を引いたところで半分ほど開いた。深理さんは横向きになって襖の間に挟まりながら中へ入る。僕も薄くなってするっと抜ける。

 まるで押入れがえずいて中身を全部ぶちまけたみたいに八畳間にありとあらゆる布団が散らかっていた。シーツの柄もてんでばらばら。廊下に面した襖の裏には分厚いマットレスが倒れかかっていた。妹さんは部屋の向こうの隅、押入れと掃き出し窓の間の角を埋めるようにして冬掛けにくるまって、ハクビシンみたいに陰から目を出して警戒していた。なるほど部屋中にばらまかれた布団は彼女の仕業だった。

このへん新しく登場する人たちが多すぎるんじゃないか?

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