狭霧のメール 2010年8月
狭霧のメール 2010年8月
アン・ロジャースの話は、なんというか、核心的なものでした。
「北ワトフォード鳥を見る会」は年に1度梟の観察のために夜のちょっと遅い時刻に集まる。上弦の半月が澄んだ夜空にあり、少し風があって木々の高いところはざわざわと騒ぐのに、森の中は静かで空気もほとんどその場に留まっていた。地面にはまだ去年の落葉が一面の湿ったコーンフレークのように残って、私たちはその上をひっそりゆっくり、梟の鳴き声に注意しながら林の奥へ向かっていく。
休憩のために木々の間に集まって水筒を開けていた時、白木の幹に開いた洞の上の枝に1羽のミミズクが現れた。
大きな梟だ。
虎のような眼をして私たちを睥睨する。私たちはその瞬間の動作のまま手足を固化させる。ある人はショートブレッドを一口齧りかけたまま、ある人は器にお茶を注ごうとしたまま。
梟は1,2回その場ではばたき、それから脇の下に嘴を差し込んで落ち着かない羽毛を毟る。何か物音が聞こえたらしい、右後方を振り向き様に首を伸ばし、2,3くるくると頭を振って距離を測るや否や、まだ羽も広げぬ内に体を乗り出して足元の枝を斜めに蹴り出し、わずかに降下しながら1畳ほどもあろう翼を悠々張って、向こうの闇の中にすうっと音もなく飛んでいく。
ほんの短な邂逅なのになんという圧倒的な余韻だろう。そのあとたっぷり数十秒は誰も身動きしなかった。身動きするのを忘れていた。
私たちは梟の消えた方角へ追って行ったけれど、その夜はもう梟を見なかった。同じ梟も、別の梟も。その1度だけ。全く見つからない時もあるというから、どちらかといえば幸運だったのでしょう。
アンが私に話してくれたのは、落ち葉を踏み、木の根を跨ぎ、森の縁へ引き返す道すがらだった。
アンは回送飛行士だった。グロスターやサウサンプトンの工場からロンドン南方の前線飛行場へ軍の飛行機を配達するのが仕事。戦闘機や爆撃機の操縦士といっても軍人ではなくて、空軍の下請けの空輸補(ATA)という組織の一員だった。戦うための訓練を積んだ操縦士が単に飛んで移動するだけの空輸に時間を取られるのは勿体ない、という空軍の考えに従って、ATAの操縦士は既に一線を退いた予備役か、もともと民間航路のパイロット、そして女性たちが務めた。全体の1割くらい、それでも100人以上の女性操縦士がいたという。
工場で完成した飛行機は、爆撃で一網打尽にされるのを避けるためにまず近所の林間の飛行場へ移動、そこから前線の飛行場へ飛んで現地の部隊に引き継ぎ、書類にサイン。そのあと休憩の間に爆撃の痕や砲座の増設で刻々と変化する基地の景色を見て回るのがアンの楽しみだった。基地には炊事や事務のために働いている他の女性だっているのだけど、遠くから飛行機に乗ってやってくる飛行服の少女にはまた別の魅力があるわけで、飛行機の整備をしている男たちが放っておくはずもなく。写真に写って、煙草を貰って、1人で散歩していられるのはせいぜい最初の5分ってとこだ。
そんな一方で本職の操縦士たちは飛行少女の存在を快く思わないこともあった。
「バックミラーで化粧なんかしてないだろうな?」なんて。
「自分の髭でも剃ってろ!」ってそんな時は言い返すんだけど。
帰る時は同伴して飛んできた8人乗りのアヴロ・アンソンに乗り込むか、1940年にはまだ、特に夕方には、汽車で帰されることも屡々あって、そうなると当然客車はぎゅう詰めの混雑で、兵士がトランプやお喋りに熱狂して息苦しいし、巨大なズックやトランクがインドの水牛みたいに通路を塞いでいて足の踏み場もなかった。
ATAのパイロットは機体の大きさと発動機の数ごとにライセンスのグレードが分かれていて、同じグレードであれば初めて飛ばす機種の飛行機でもきちんと乗りこなさなければならなかった。アンも戦争の間に20種類くらいの飛行機を経験して、中でもハリケーンに思い入れがあった。というのは、一番長く乗ったからでも、一番乗り心地が良かったからでもなかった。さらにいえば、ハリケーンという機種に対する思い入れではなく、ただ、ある機番のハリケーンとの妙な縁のせいだった。
後方から前線へ飛行機を届けるだけがフェリーパイロットの仕事ではなくて、前線で傷ついた飛行機を工場や整備基地まで空輸することもあった。もちろん、飛行場の工廠で直せるほど軽微ではないが、自力で飛べないほど重篤でもないものに限って。
ある日ミドルウォロップまでスピットファイアを届けると、傷ついたハリケーンとスピットファイアを1機ずつ整備工場に空輸してほしいと頼まれた。翼の上に乗ってみるまで全然気づかなかったけれど、天蓋のレールのところにある塗料の塗りムラに見憶えがあった。前に自分で届けた機だった。
1度目の空輸の時、その日もやはりグロスターからミドルウォロップへの飛行だったが、半分ほど来たところで前方に火事の黒い霧が見えた。普段なら方々に係留された阻塞気球が無数の白い点になって見えているだけのはずだ。只事ではない。丁度ドイツ軍の襲来に当たってしまったらしかった。
時のキャプテンはジャック・"ジャッカル"・レイドロウというスコットランド人で、1937年まで空軍に務めた経験者だった。9機が一緒になってV字の巡航編隊を組んでいた。雁と同じ、前の飛行機の翼でできた渦に乗ると抵抗が減って燃料を少し節約できるから。ジャックは横の機に近づいて手信号で何かを伝えた。それが伝言になって左右に伝わっていく。飛行機には無線機がついているのだけど、ATAの飛行士にはヘッドフォン付きの飛行帽が支給されていなかったし、当然使い方も教えられていなかった。指で数字の3、両手で押し縮める動作。どうやら3機ごとに小さく纏まれという意味のようだった。
ジャックが考えたのは実戦部隊に見せかけようという自衛策だった。ドイツ軍の戦闘機が来て、空輸であるのがばれてしまえば簡単な獲物だけれど、こちらが9機の戦闘部隊だと騙されれば襲うのを諦めるかもしれない。しかしどちらにしろ敵が10機より多ければその時は交戦を止めるものは何もない。
ATAのパイロットは空輸が至上の目的なので、曲技飛行や計器飛行、交戦はもとより禁止されて訓練も受けていなかった。戦闘に巻き込まれたら本当にひとたまりもない。逃げようと思って舵を切ることはできても、ただ飛ぶこと、着陸することを専門にしてきたパイロットには、こんな飛び方では操作が利かなくなるとか、失速するとか、特に人間や機体の限界に近づく領域では、そういった知識が全くないのだから、敵にとっては浮かんでいる標的に過ぎないはずだった。
編隊の形が変わる。ジャックはさらに後方の監視を重点的にするように指示を流した。20分ほどその空域で大きく旋回しながら待機していた。その間ずっと首を左右に振って後ろを見ようとしていたので目が回りそうだった。そのうちジャックが翼を振って元の針路に戻った。ドイツ軍の脅威は去ったようだ。
ミドルウォロップは穴だらけだった。飛行場といってもまっすぐで真っ平らな滑走路が整備されているわけではなくて、ただ草地が広がっているに過ぎない。何度か上空を旋回して着陸する順番に一列に並んで間隔を伸ばしながら、爆撃が穿った穴を避けてまっすぐ降りられるコースを探した。
あとで知ったことに、ドイツ軍との死闘の中でイギリス軍の戦術は更新されていた。3機でぴったり寄り添う編隊は身動きがとりにくいし編隊の維持のために気を使って監視が疎かになるというので2機ずつの緩い編隊が広がり始めていて、3機であるにしても互いにぴったりとくっつく隊形は身動きが取りにくいので急速に廃れていた。ジャックは新しい戦い方を知らなかったのだ。それを知った時はぞっとした。もしも敵のパイロットが新しい戦術を知っていたら我々は全く獲物だったということではないか!
そのハリケーンは前線にいる間にエンジン回りに銃撃を受けて穴だらけ、コクピットにも「天使の梯子」ができて計器もいくつか割れていた。ズタボロのハリケーンを任されたのはその日に編隊を組んだ4人のうちで一番ハリケーンに慣れていたからだった。操縦席に乗り込む前に胴体後部の無線機を収めておく扉を開いて懐中電灯で前後を照らす。操縦索は損傷していない。操縦席に乗り込むとシートやら操縦桿の輪っかに貼った滑り止めのテープから黴びた酸みたいな汗の匂いがぷんぷんした。天蓋を閉めるのが躊躇われるくらいだ。実際閉めなかった。大した速度は出さないし、高度も上げない。開けていた方が横風もわかる。
エンジンは妙な振動があって過熱気味、油圧も死にかけ、何より主翼に穴が開いてトリムで調整できないくらい右に傾くので機体を斜めに保ってペダルを踏ん張っていなければならなかった。それでもなんとかグロスターまで持っていった。降りると腕の筋肉がビリビリ震えて力が入らなかった。
機体を工場に押し込んで扉を閉めて以降そのハリケーンを見ていない。結局修理できずにスクラップになったのか、立派に直ってどこかの戦場に墜ちたのか、それとも戦争が終わるまで生き残ったのか、わからない。二度会う方が珍しいのだ。前線に運んでいった飛行機のほとんどは一度きりの出会いだった。
ドイツが降伏するとATAは人員削減をして女性飛行士はいなくなった。戦争は終わった、家庭に戻れ。無言の号令が社会を席巻していた。まだ飛びたい女も、そうでない女も、等しく追い出された。アンもATAを去らなければならなかった。飛行はもはや生活の一部になっていたけれど、それが現実だった。ワトフォードに戻ってしばらくの間は家族とともに疎開した人々の帰還や再定住を支援する慈善事業を手伝い、それから兄の伝手で事務の仕事に就いた。スクラップヤードだった。戦前はほとんど自動車の分解をやっていて、戦争に勝った途端大量の仕事が舞い込んできた。飛行機が要らなくなったのだ。空軍は予備戦力として取っておいた古い飛行機からゴミに出し始めた。飛行機は繊細な造りの上に使用の間は過酷な荷重に耐えるから、耐用年数がとても短い。任されたのは運び込まれてくるスクラップのリスト管理だったけれど、解体の様子は窓の外に見えたし、音も聞こえた。以前は名も知らぬまま送り出して、今度は名もなきものに還すなんて、数奇な巡り合わせだと思った。リストの一部には空軍の登録番号がついていて、その中に自分の知っている飛行機がないか探してみた。以前自分の手で報告書に書き込んだ番号がそこにも1つ2つはあるはずだった。けれどそこでわかったのは、どちらかというと自分自身が乗った飛行機の番号をほとんど憶えていないという事実だった。あのハリケーンだって2度目にやっと覚えたくらいだ。
そんな折、外のヤードで作業をしていた解体工が部屋に入ってきて呼んだ。アンが飛行少女だったことは職場ではちょっとした話題になっていた。みんなが聞きたがるのでハリケーンの一件も話していた。彼が見つけたのは例のハリケーンの番号が入った金属の棒切れだった。どうやら胴体の骨組の一部らしい。アンは手にとって番号を確かめた。知っている番号だった。けれど残っているのは拉げて錆びた欠片だけで、どこにも飛行機の面影はない。番号の刻まれていない他の部品は既に失われてしまったのだ。逆にいえば、たまたま番号が刻まれていたからその欠片だけが残ってしまったのだろう。懐かしく感じないわけではなかった。解体工は持って帰ったらどうかと訊いた。迷った。けれど持って帰って、どこかに大事にしまっておいて、自分がいつか死ぬ時、この欠片はどうなるのだろうか。どこかで長く連れ添ったわけでもなく、修羅場を共にしたわけでもない。ただ憶えていたというだけで、一度届けただけの他の多くの飛行機と違った関係があるわけではない。それを持って帰るということは、何かを消滅から救うというよりも、本来全て揃って名もなきものへ還るはずのものの一部を欠いてしまうことになるのではないだろうか。持っていてはいけないという気持ちの方が強かった。アンはもう一度番号をじっと見たあと、両手で持ってコンテナの縁に向かってできるだけそっと投げ上げた。しかしそれなりに重いものだったのでほとんど精一杯、ちょっと掠って中で「がしゃーん」と音がした。それが自分でも乱暴に思えて、とんでもない間違いをしでかしてしまったような気がした。
大切なものを飾っている戸棚を見ると今でも得も言われぬ気持ちになる。その時手放さずにいたら、と何度感じたことか。その度に「あの欠片にとっては自分の体の他の欠片や他の飛行機と同じように同じ時に消滅し、それらと溶け合って新しい何かに生まれ変わる方が幸福だったのだ」と自分に言い聞かせてきた。だから、計器やプロペラや、そういった部品を蒐集しているコレクターの相手は苦手だった。方々の博物館で保管されている飛行機もいくらか見てきたけど、そこには当時の飛行機に満ちていた尊厳や危なっかしい溌剌とした感じはもうなくなっていて、見れば見るほど情けない気持ちになった。その度、自分自身を見る鏡にしてしまっているだけかもしれないけれど、「昔と違っても、今だってきちんと役割があるんだから、まあ、少し寂しくはあるかもしれないが、もう少ししゃんとしているんだよ。生き残っただけ幸いだと思わなきゃ」と、そんなふうに励ましてやるのだった。
骨組の破片を放った時、きっとアンの中では既にそのハリケーンは失われていて、破片はそれを裏付けたに過ぎない。破片が存在全体を負うことはできなかったのだ。
まさかこの小説「空戦」と一緒に読んでる人とかいる?




