アリゼの夢
その日の羽田はまっすぐ家に帰った。駅のホームで別れて、そのあとも何ら連絡なく、家に帰ってからも僕は一人だった。僕は足を休めながらゆっくりとビー・フィフティートゥーズのアルバムを磨いた。そして不思議な夢を見た。僕は僕の部屋にいて、窓にはべったりとしたオレンジ色の夕焼けが見えた。エコーのかかったカラスの声が響いていた。玄関のチャイムが鳴る。普通の来客ならまず一回のインターホンが鳴るはずだった。でもそれは部屋の前のチャイムの音だった。僕は鍵を開ける。通路に同い年くらいの女の子が立っている。額が広く頬の柔らかい南欧的な顔立ちで、髪は短い。裾の丸みが見事なボブ・ヘアだった。ハイカーみたいなトレッキングウェアを着ていた。上がオレンジで下が緑だ。
「カイフです」彼女は少し癖のある声で言った。その声はどことなくアヒルやカモメの声を思わせた。
「海部?」
「海部アリゼ」
廊下から部屋の中に風が吹き込む。カラスが鳴く。列車が鉄橋を渡る響き。
「いいよ。入って」僕は特に狼狽することもなく答えた。夢の中の僕は必ずしも僕自身の感情や意思で動いているわけではなかった。
「どうも」アリゼはトレッキングシューズを脱いで揃える。
僕は壁に背中をつけて彼女を先にリビングへ通した。
「家にいない時はまずここ、あなたの家だろうって、彼は言ってました」
「海部が? いや、今日は来ていないけど」
「そう」アリゼはきゅっと肩を竦めた。「それはごめんなさい。でもよく来ているのは――」
「うん。本当だよ。よく入り浸ってる。家の居心地がよくないらしくてさ」
「ここが彼のアジールなのね」アリゼはそう言って部屋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空気の中にほんの少しだけ含まれている海部の名残のようなものを感じようとしているようだった。「それに加えて待ち合わせの場所にしてしまうなんて、全く迷惑ですよね。ほんとに、ごめんなさいね」
「いいよ、べつに。好きなだけ待っていればいい。たぶん部活だろうけど、こっちに来られるかどうか海部にメールしてみるよ」二度も謝られたらそう言うしかなかった。僕はテーブルの角に腰掛けた。「ところで、海部は君が魔女だって言ってたけど、それは本当なの?」
アリゼは肯く。「何か実演しましょう。何でも。炎でも、雷でも」
「君は風の魔法が得意だったはずだ」
「ええ。でも他の科目も訓練しました。だから、何でも」
「変身は?」
「はい、もちろん」アリゼはまっすぐ手を出して僕が次の言葉を言うのを遮った。指がぴんと伸びていて綺麗な形だった。掌の薄いのが羽田の手に少し似ているな、と思った。「あなたが何をイメージしているのか、私、わかります」
「それはすごい」
「他の人間だとか、手足のある動物ならそのままでもいいんですが、巻き込むと危ないので服を脱ぎますね」アリゼはリビングの真ん中でオレンジのジャケットを脱ぎ始めた。
僕は何となしに目を背けた。
「背中を向けておくから、見ていていいですよ。見ていないと証拠にならないでしょう?」
「それはそうだけど」
「いいから」
僕は向き直ってアリゼを直視した。アリゼは緑のショートパンツを脱ぎ、アーガイルのタイツを脱ぎ、青と茶のネルシャツを脱ぎ、そして上下の下着まで全部脱いだ。彼女の体の動きに合わせて綺麗なボブヘアがふわふわ揺れていた。引き締まった背中だった。背骨に沿ってくっきりした窪みがあり、ウエストのくびれはなんだか幾何学的といってもいいくらいの感じだった。肌は極めて滑らかで、左肩と脇の下の方にほくろがあった。そのほくろはすこしばかり僕を安心させてくれた。もしそれがなかったら彼女の体はとても人間みのない造形物になっていただろう。
彼女は裸になると脱ぎ捨てた服の上にうつ伏せになった。
「見てる?」
「見てるよ」
アリゼは肩越しに僕を見つめていた。目を逸らさない。何か意味があるのだろうか。
「君の能力を僕に対して証明するのはそんなに意味のあることなんだろうか」
「そうなの。あなたには信じてもらわなければならないんです」
「なぜ」
「どうしても。変身したら声帯もなくなるから喋れないですよ。いいですね?」
「わかった」
アリゼの額からうっすらと光の輪が広がる。それは水面の波紋のように体の表面を走る。皮膚の肌理が深くなり、その目地から鱗が生えてくる。腕と脚は細くなって縮み、代わりに腰の下から尻尾が長く伸びていく。その様子はなぜだか製麺機から出てくるうどんを思わせた。丸くて白い生地から細長い麺ができてくる。そんなにゅうっとした質感が似ていたのだと思う。じっくり見ようとしている間にそこには乳白色の大きなヘビが現れていた。体長は何メートルもありそうだけど、でも体積にするともともとのアリゼと変わらないくらいだろう。
蛇は鱗の機能を確かめるように床の上をぐるぐると這って回り、それからぺろぺろ舌を出して何かを調べ始めた。首をもたげて棚の上を見る。カーテンの隙間を覗く。それから机の下を回ってきて僕の膝に顎を乗せた。その温かさや質感はラフグリーンスネークと同じだった。でも舌でぺろぺろされるのは初めてだった。その意外な硬さや湿り気はあまり気持ちのいいものではなかった。蛇は体を引き寄せて僕の体を登ってきた。そして右肩に顎を乗せる。
僕はいささか恐くなって目を瞑ってしまった。
「震えてる」アリゼは言った。
目を開けるとアリゼは人間の姿に戻っていた。右手を僕の肩に乗せたまま、左腕で胸を押さえ、右膝をソファの縁に乗せて体を捻って背中を丸めていた。よって僕には彼女の大事な部分は全く見えなかった。
「ね? 目を瞑ったら確かめられない」
アリゼはそう言って僕から離れ、上手く背中を向けて脱ぎ捨てた服のところへ戻った。手早く身に着ける。
「私が魔女だって信じてもらえました?」アリゼはシャツのボタンをとめながら訊いた。
「うん。さすがに信じざるを得ないよ」僕は答えた。「でも君は本当にアリゼなんだろうか。僕のことをもっと深く知っている人なんじゃないだろうか。なんだかそんな気がしてならないんだ」
彼女はきちんとショートパンツを穿いたところでまっすぐ僕を見た。
僕は続ける。
「君は変身できる。僕の知っている人に変わることもできるし、僕の知らない人に変わることもできる」
「そうね」彼女はそう言ってほんの少し微笑する。
その時真向いから夕日が差し込んできた。部屋の中がべったりしたオレンジ色の光で満たされる。彼女の輪郭もその光でくっきりと縁取られる。
強い光のせいで僕は目が眩んでしまう。視界が霞んでいく。これは夢の終わりだ。僕はそれを知っていた。どうあがいてもそのフェードアウトを止めることはできない。夢の中の景色が暗くなり、同時に現実の僕が目覚めていく。
眠りから覚めた、という感覚は希薄だった。寝起きの体のだるさも頭の重さもなかった。僕はすぐに起き上がってリビングに入った。まだ彼女がそこにいるような気がしたからだ。当然そこには誰もいない。でも僕は何度も廊下とリビングを行ったり来たりして確認しないわけにはいかなかった。何もない空間に手を伸ばして何か手応えが得られないか確認せずにはいられなかった。夢の中の彼女はそれくらいリアルな質感を持っていた。背中の質感、変身する体の質感。なぜ現実に見たことがないものをあんなに重厚に想像することができたのだろう。当然僕はアリゼに会ったことはないし、彼女の写真だって見たことはなかった。なぜ彼女の容姿がわかったのだろう。もしかして海部がやっているという夢の儀式を偶然やってしまって、アリゼが僕の夢に働きかけてきたのだろうか。
わからない。でもとにかく僕には夢に登場したのが本当のアリゼだとは思えなかった。魔女は自在に姿を変えることができるのだ。そしてあるいは自分が魔女だという自覚を持たないまま生きている魔女だっているかもしれないのだ。ねえ、狭霧、そうは思わない?
さっきB-52's調べてて初めて知ったんですがミニアルバムに「メソポタミア」というのがあるんですね。しかしなんだかあんまりひっかかりのないアルバムですなあ。




