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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
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ターミナル

 それからまた一時間くらい三人で話をして、昼食をご馳走になってから僕と狭霧は手島家を出た。黒ネコは最後まで僕に抱かれていて、玄関で下ろしてやると裏の方へ足早に歩いていって路地に消えてしまった。小便でもしたかったのかもしれない。同じ色なので目立たないけど黒いチュニックの裾をよく見ると黒い毛がいっぱいこびりついていて、外に出てはたき落とすと風に吹かれて金糸のようにきらきら光った。

 深理さんはやっぱりサンバーと壁の間に挟まりながら表まで出て僕らを見送った。公園の角で手を振り合う。狭霧はお辞儀をする。いつもどおりの道を歩いて家に戻る。歩いている間僕らはほとんど言葉を交わさなかった。それはなんとなく自然な沈黙で、各々言葉や声のない外の世界の静寂を享受しようとしていたのかもしれない。

「深理さんは私が淵田に蛇って呼ばれていたのを知ってたのかな」信号待ちの時に狭霧が訊いた。

「うん」僕は本当のことを言うべきかどうか迷ってから、そのせいで少し遅れて答えた。だいたい僕は蛇呼ばわりされている自覚が狭霧にあることなんて全然知らなかったのだ。

「そうか、だから訊いたんだ」と狭霧。

「ヘビのこと?」

「そうそう」

 僕らが喋ったのは本当にそれだけだった。ビルの真っ黒な影が一面の青空に走る。世界の殻をまっすぐに二等分していく。例えば地球の水は潮と真水に二分されている。でもそれはかつて混じり合っていたもの、いつか混じり合っていくものに過ぎない。海は蒸発し、川は流れ、あるいは海に雨が降り、川に海嘯が登る。


 家に戻るとテレビをつけて午後のロードショーを見ながら僕はレコードを磨いた。狭霧はソファで毛布をかぶって昼寝をしていた。

 保険会社の少し長めのCMで闘病を機に勤めるのをやめて陶芸家に転向した人のインタビューを取り上げていた。他人の顔色を窺うのをやめて自分らしく生きていこうと決めたんです。自分の好きな焼き物をたくさん作るのが子供の頃からの夢だったんです。彼はそう語っていた。あらゆる意味で説得力のない言葉だな、と思った。焼き物こそ使う人間の顔色をきちんと想像しないと作れないだろう。自分らしく生きるというのは自分の好きなことを勝手にやって生きていくことをいうのだろうか。いやそれはあくまで好き勝手な生き方であって、自分とは何か、自分は何をすべきかを突き詰めて定める生き方とは全然別物だ。でも結局のところ多くの人々にとって「自分らしさ」とはそういうレベルの概念に過ぎないのだろう。好きなことをやって、毎日が充実して、何となく心地が良くて、違和感がなくて、こういう生き方が自分にしっくり来ていると感じることができるなら、それはきっと「自分らしい」生き方に値してしまうのだろう。好きなように生きていくというのを当たり障りのない引け目のない言い方に直したのが「自分らしい」生き方なのだろう。彼らは何も深く考えるところがあって「自分らしさとはこういうものだ」という認識を確立しているわけではない。きっと中三の狭霧が拒絶したのは「自分らしさ」という言葉のそういう杜撰な使い方、濫用なのだ。

 だとすれば僕らが考えていたアイデンティティだとかいった概念は人々の言う「自分らしさ」とは全然関係のないものであって、いくら考えたところでしょっちゅう耳から入ってくる「自分らしさ」という言葉の違和感を消し去ってしまうことはできないのかもしれない。それは仄かな絶望かもしれない。でも僕らがそこに違和感を覚えるなら、人々もまた僕らが使う自分らしさやアイデンティティといった言葉に違和感を抱くだろう。違和感を抱いた人々のうち一部は自分が使っている「自分らしさ」とは一体何なのかと疑い、そして考えるかもしれない。それは僕らにとって仄かな雪辱になりうるだろう。

 だから僕は人々の間に蔓延する「自分らしさ」を軽蔑し続けるし、面と向かって言われたなら、あんたの言う「自分らしさ」とは一体何なのかと訊き返してやるだろう。まったく面倒くさい人間だけど、それでまず相手が「自分らしさ」を面倒くさい言葉なのだと思ってくれるならそれに越したことはない。その言葉を使うのをやめて自分のイメージしているものにもっと適当な言葉がないか探してくれるだけでもいい。

 もちろん僕は相手が内心でその言葉をどんな意味で使っていようと構わない。ただそれを口に出すということは相手にそのイメージを伝えるということなのだ。僕はきちんと相手の話を聞いている。だからこそ相手が伝えようとしているものを「自分らしさ」という言葉のままで受け取るわけにはいかない。確認しなければならない。

 狭霧が起き上がる。そして一度起こした上体をそのまま膝の方へ倒してまたしばらく目を瞑る。まだ眠いようだ。それから何度かあくびをして五分くらいすると今度はしっかりと体を立てて座り直した。

「なんだかいい夢を見たよ」まだあくび混じりに言った。

「いい夢?」

「ええと、どんな夢だったかな。忘れちゃったかな。でもいい夢だった。さくら色の綿あめみたいにふわふわしていた」

「ねえ狭霧」

「何?」

「アイデンティティがどういうものかって他人に伝えたり、一緒に話し合ったりするのってとても難しいことじゃないだろうか」

「うん。でもその前になぜ他人に伝える必要があるんだろう。私たちだけのものにしておいたらいけないのかな」

「いけなくはないだろうけど、でも伝えられる方が楽だと思うんだ。他人、つまり僕らに言わせてみれば誤解の価値観を持った人々が大多数を占める世界にいなければならないというのはストレスだ」

「アイデンティティというテーマは確かに分析して細分化して様々な側面を見るのが合理的なのかもしれない」狭霧は言った。「それはあまりに多くの側面を持っている。私たちには側面しか見えない。国籍のアイデンティティ、言語のアイデンティティ。私はいったい何人なのか。母語は何なのか。あるいは性別のアイデンティティ。僕は男なのか、女なのか、そのどちらでもないのか。そして空間のアイデンティティ、時間のアイデンティティ。私はどこに存在しているのか、いつ存在しているのか」

「それは全て相対的アイデンティティだ」

「そう。相対的だからこそ細分化できる。分析できる。言い表すことができる。それらをクリアしてクリアしてクリアした人間は絶対的アイデンティティとは何なのかを考えればいい。そして反射のない真っ暗な宇宙の真ん中で、私はここにいる、確かに存在している、そう言えるようになればいい」

「私はここにいる、確かに存在している」

「そう。口に出すだけなら易しい。でもそれを確信するのは難しい」

 僕は目を瞑って果てしない闇を想像した。でも狭霧がそばにいるのはわかった。

「だから反射や仕草が必要なんだ。誰か、あるいは何かを相手にしたプロトコルが」僕は言った。

「そう思う。でもそのプロトコルも自分というものの存在のわずかな一側面に過ぎない。たくさんの相手と絡み合うことによって、神経衰弱のように、モザイクのように、ひとつの存在が少しずつ確定されていくのだと思う」

「無数の無自覚のプロトコルが僕を僕たらしめているのだろうか」僕はレコードを磨く手を止めた。話しながら無意識に動かしていた手だ。これもまたレコードやクロスとのプロトコルなのだ。こうして考えている間の仕草、表情もまた狭霧によって捉えられている。意識してみればそれは当然のように絶え間なく行われていることなのだ。

 狭霧は僕の言葉には答えずに毛布をかぶり直して映画の画面に目を向けていた。


 映画が終わったあと狭霧は僕のパソコンを借りてイギリス行きのチケットを予約した。

「明日帰るよ」狭霧は言った。

「焦ることはないのに。僕の方はいつまでだって居てもらって構わないよ」

 全く無駄なセリフだということは察しがついていたけれど、それでも伝えておかなければいけない気がした。

「焦ってない。心の中で区切りがついただけなんだ。今、すごく次のことを始めなきゃいけない気がしてるんだよ。それに、早くイギリスに戻る方が日本へ帰ってくるのだって早くなるよ。ここのことは好きだけど、その方がいいでしょ?」

「それはそうだけど」

 結局一番早いのが翌日の昼過ぎの便だった。狭霧はそのまま荷物の整理に入って、日付が変わる前には全てを済ませて、健康的な睡眠をとって、翌日十時頃に二人で家を出た。狭霧は紺色のゴシックワンピースを着ていた。

 電車の中はまた微妙な人出であまり落ち着かなかった。席もなく、会話も通らない。時々話す時はやっぱり顔を近づけた。景色はどんどん流れていくのに到着までの時間がとても長く感じられた。

「ねえ、これはとても素朴な質問なんだけど、柴谷はこの三年で誰かを好きになったりしていたの?」

 僕がそう訊くと狭霧は思いのほか長いこと考えこんでしまった。

「いないよ」長く考えたわりに短い答えだった。そして時間をかけてしまったせいか答え方が質問に対応していなかった。

 僕はその答えを聞いて一層落ち着かない気持ちになってしまった。なんだか彼女にとてもひどいことをしてしまったような気がしてきたのだ。あるいは狭霧は僕のことが好きだったのかもしれない。愛していたのかもしれない。だとしたら深理さんの話をしたり彼女に会わせたりするのは残酷な仕打ちだったことになる。僕も狭霧も二人の時間を楽しんでいたけれど、でも僕にはそのために配慮を失していた部分があったかもしれない。そう思うと僕はとてもつらい気持ちになった。とても言葉にして確認しようと思えるようなことではなかった。

 再び成田空港第二ターミナル駅で降りて僕は他の客が捌けて電車が行ってしまうのをホームで待った。そして狭霧に「今のうちに君を抱きしめておきたい」と素直に言った。

 狭霧は僕に体を預けて背中に手を回した。僕は金工室の出来事を思い出した。機械油の匂いや雨音まで思い出した。でもいま狭霧は僕を絞めつけているわけではなかったし、ゆっくりと背中を撫でているだけだった。そのおかげで僕も手が使えたので彼女の頭を撫でていた。つやつやして冷たい髪だった。そういえば確かに一日目よりずっと綺麗な髪になっていた。僕は贖いのつもりで撫で続け、そして次第に気持ちが晴れていくのを感じた。思い過ごしかもしれない。自己満足かもしれない。でも不安はもう戻ってこなかった。

 この時間は金工室とは違う。一日目のキスとも違う。お互いの心が静かに凪いでいるのがよくわかった。これほどの穏やかさは今までにはなかった。

 いつ離れようか、と僕は思った。それが潮時だった。

 狭霧が先に改札へ向かって歩いていく。

「もう大丈夫だよ。改札を抜けたら高く付くでしょう?」狭霧はホームの真ん中で振り返って僕の足を止めさせた。すでに人気は消えている。放送もない。

「そりゃあ高いけど、安く済ませちゃいけないんだよ」僕は答える。

「そういうの気にするの?」

「またうちにおいでよ。いつでも」

「機会があればね」狭霧は首を振る。「まずは帰らなきゃ」

「無事にヒースローに着いたらメールして」

「うん。必ず」

 短く沈黙。

「じゃあ、さよなら」

「また会いましょう」

 エスカレータの段に乗ったところで後ろを向いて、見えなくなるまでの少しの間手を振り合った。

 僕は地下の明るい闇の中に残る。

 真昼だというのに空の明るさはここには届かない。窓もなく蛍光灯のびりびりした光が床や壁のタイル、レールの間に溜まった地下水に反射していた。

 頃合を見て階段を上がり、用を足してホームに戻る。さほど待たずに折り返しが来た。レールが軋み、湿った風が吹き込む。ヘッドライトの光が側壁にある配管や微妙に波打った壁面の形状をなぞって近づいてくる。さっきまで乗っていたのと同じ列車だろうか。空いたベンチシートに座って全身の筋肉を溶かされたみたいに脱力した。そして気づくと頭の中に「大地讃頌」が流れていた。その伴奏は間違いなく狭霧のピアノだった。彼女の指が鍵盤を叩くところまでイメージできた。

 千住に一人で生活した三年間、僕は狭霧を待ち続けていた。待つための家だった。巣といった方が適切かもしれない。待った時間に見合うだけの密度をこの数日に与えることができたものか、わからない。僕はまだあまりに主観的な記憶しか持っていない。これでよかったのか、足りなかったのか、それがわかるのはもっと時間が経ってからだ。

 けれど僕らにとって大切だったのはきっと口数や内容ではない。同じ空間にいた時間の長さだ。お互いのために費やす時間は、たぶんこれ以上長すぎてもいけないし、短すぎてもいけなかった。狭霧は何の予定に強いられることもなく、ただもう発つべきだというタイミングを見計らって出ていくのだ。それは完璧だった。

 途中駅、電車はポイントを渡ってスカイライナーの通過待ちで数分停車する。僕はホームに出て手島家に電話をかけた。コールは酷く短く感じた。

「はい、私」深理さんの声だった。

「狭霧を送ってきました」

「うん」

「ええ」

「今帰ってくるところね」

「はい」

「電車の中から掛けてるの?」

「ホームに居ます」

「なんだ」

「ええ」

「うちにおいで。大橋駅で待っているから」

 電車の中は手前の駅から幾分客が増えて、僕の危うさも知らずに、おばさんたちは三人同時に喋り、赤ん坊は叫び、子供は走り回っていた。休日だった。

 高砂で上野行きの鈍行に乗り換えて千住大橋駅まで乗る。狭い改札の前に下りてくると奥のアーケードの角で深理さんが腕を組んでいるのが見えた。周りの景色があんまりじめじめして暗いので彼女の姿はとても燦然として見落としようがなかった。薄手のブラウス、大柄な赤いカーディガン、脛丈の黒いウールのタイトスカート。

「お帰り」と彼女は呼びかける。「少し散歩しようか」

 線路の下に伸びているシャッタばかりのアーケードを抜け、足立市場の向かいを歩いて隅田川へ。小さな公園の隅に大橋をくぐるための通路があって、階段を上り下りして一旦堤防を越える造りになっている。堤防の川側には屋形船の桟橋を兼ねた岸があって、コンクリートの堤防に「奥の細道」のペンキ絵が描かれている。此岸に他人はいない。川面のさざめきに西日がきらきらと光り、バラストを積んだ平たい台船が波を引きながら走っていく。僕らは堤防の壁面に背中で寄りかかってしばらく黙っていた。

「前に、僕たちが付き合ってたのかって訊きましたね」僕は言った。

「訊いたね」

 僕は護岸の縁に近づいて一度水面を見下ろし、ぞっとしたのでちょっと離れてゆっくりしゃがんだ。膝は閉じているけど、ヤンキーみたいに首を突き出して背中を丸める。

「狭霧は、僕にとっては、恋というより、大事にしなきゃいけない、大事にしたい、そう思えて仕方がない存在だったんです」

 深理さんも堤防から離れて僕の後ろ数歩のところに立っている。僕が入水でもするのかと思ってびっくりしたのかもしれない。

「あなたたちは本当の意味で特別な関係だったのよ。私には……いいえ、誰にもあなたにとっての彼女の代わりは務まらない」

 僕は頷く。

「もう大丈夫?」と深理さん。

「なんだかお腹が減ったな」

「ほんと?」

「ほんとに」

「よし」深理さんは自分の膝を叩いて合図する。「さ、帰ろう。肉屋が混む前にさ」

「はい」と答えて僕も腰を上げ、橋の下へ入る。

 川面はまだきらきらと弱い風にさざめき、向こう岸には午後の穏やかな人の往来が見えていた。


〈了〉

成田空港のターミナル、京成線のターミナル、そして物語のターミナル。

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