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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
131/132

旅する言語、あるいは血潮

「イギリスという場所はそんなに違っていた?」

「向こうへ行って……、言葉ですね、何よりもそれが私を変えたのだと思う。言語のあり方が私のあり方を、考え方や性格を変化させた。結局、それこそ、人間がどこかに順応するということなのかもしれない」

「英語」

「ええ」

「いつ覚えたの?」

「向こうへ行く時にはもうかなり喋れました。母より私の方が喋れるくらいなんです。昔から母はそういうふうに、日本語の本と同じくらい英語の本をたくさん読ませていた。例えば私が図書室で星新一のショートショートを借りてくると、それが読み終わる頃にブラッドベリの短編集を買ってくるんです」

「まあ」

 狭霧は呆れ笑いしながら続ける。「中学に上がってからは聞き流しの音声教材を。その頃には母は一足先に向こうへ行ってたんですけど、電話口で英語の実力を試すんです」

「あなたのお母さん日本人よね?」

「そうです。母も父も」

「ちょっと熱心すぎるわね」

「私は嫌でした。母の都合であって、私が必要と感じているわけではなかったから」狭霧は僕がネコと遊んでいるところに顔を向けながら話す。「国内じゃ外へ出ても使う機会はないし、あんまり流暢だと学校の授業で変に注目されるし、それに、……母だって挨拶程度で、私に対して英語で真剣な話をすることなんてなかった。母自身は英語を自由に使いこなせるわけじゃなかったんです。最終的に一番難しい説明に使えるのは日本語で、結局感覚や思考が日本語に植わったままなんです。習得言語を操ることの難しさを知っていたからこそ私が英語を身につけるように仕向けたというのはわかりますけど、それだって日本語だけで十分の生活をさせておいて英語英語じゃ納得できないですよ。私にとってそんな母の態度は、英語に可能性を与えるよりも、日本語を冒涜するものに他ならなかったと思うんです。今思えばですよ、当時はこんなにきちんと反論を持っていたわけではないけど、でも嫌なものは嫌でしたから、反抗して母が追いつかないくらい和書を読み漁って」

「あくまでスキルとしての英語ね、お母さんが意識していたのは」

「そうです。きっと良くないんですよ。自然な言語ではない」

「あまり早くから教えるのはね。私なんか小さい頃は母が日本語できなかったから、家でフランス語を聞くのはとても自然なことだったけれど」

「じゃあフランス語の方が自然なんじゃないですか」

「そんなことないわよ。生まれも育ちも日本だもの。言われてみれば確かに、母は本や絵本は実家から送ってもらって子供たちにずいぶん聞かせていたけど、でも日本の昔話や童謡は、うちの場合はお父さんが熱心だったのよね」

「お父さんが?」

「ハーフの子供にとって母親の国で育つ方が行儀や教養に関してきちんとするもので、逆だと両方の言葉を身につけやすいものだと思うのだけど、お父さんはその点に関してはすごく意識して厳しくしたのね。つまり、言葉はともかくとして、母親が外人だからできないんだろうって言われないように、行儀を厳しく叩き込んだの。特に十歳になったくらいから、ああでも、箸の持ち方やなんかはもう少し早かったかな」そこで紅茶を一口。ミルクを足す。

「それは嫌じゃなかったですか」

「お父さんが厳しいの?」

「はい」

「嫌だったわよ。ある程度社交的に生きるようになってからでないと身についた行儀のありがたみなんてわからないでしょう。私なんてせいぜい高校に上がってからくらいなものよ」

「でも今は肯定的に捉えている」

「そうね。確かにあなたのお母さんの英語と同じ、強要なのよね。ただ、私自身そこに必要性を感じられるようになったというところが違うのかしら」

 狭霧は頷いた。

「イギリスへ行ってから、外では専ら英語を使うようになったわね?」深理さんは訊く。

「そうなんです。それで今度は逆に日本語を使わなくなって」狭霧は食いついて答えた。「家で母と話す時だけ。ある時書こうと思ってやってみると、全然だめになっていた」

「本当?」

「いや、字や文法がわからないってことじゃないんです。ちょっとした漢字を忘れていることもあったけど、それもまた別の問題で」

「そうよね」

「使わないからって忘れてしまったわけではないんです。ただ、憶えているのに上手く出てこない」

「周りに使ってくれる人が少ないから、ものはきちんと仕舞ってあるのに、配管が錆びてしまうんだ」

「母とは話すけど、でも日常の会話であって、使う言葉の幅ってすごく限られている。日本にいれば勝手に目に入るもの、勝手に耳に入るものがそれを補ってくれるのだけど、向こうは当然テレビも授業も英語で、環境に日本語がなくて、考えていることを表現するのにぴったりした言葉を全然見つけられないんです。ずいぶん遠くまで遡って思い出さなきゃいけない。まるで一面に海氷が覆っていて水面に顔を出すことができない冬の北極海みたいに。つまり、感性と日本語の間に英語が挟まってしまって、英語ならしっくりしているけど、そこから良い訳が出てこないというか、結局、訳でしかない」

「……習得した言語がそんなにも深く入り込んでしまうものなのかしら」深理さんは短い絶句のあとに神妙な調子で呟いた。「日本語の思考に戻るのは難しかった?」

「思い出さなければいけないんです。聴覚に英語が入らないように何もない静かなところへ行って。初めのうちはどうすればいいかわからなかった。私の場合、頭の中から翻訳を追い出すためにはどちらかの言語だけに専念しなければいけないんです」

「部屋の中に隠れて?」

「それかムーアハウスの屋上へ行って。初めから複数の言語で生きてきた人ならこうはならないのだろうけど、私にはバイリンガルの素質がないんです。深理さんはどっちを喋っているのか忘れることってありませんか」

「あるわね。前にフランス人の留学生で日本語もぺらぺらの子と喋ったことがあるんだけど、あれ、今私たち何語を喋っていたんだろうって」

「それが自然に言語を身につけるということだと思うんです。二つの言語を母語にしているけど、でもそれでひとつの母語なんです」

「もし標準語と関西弁の親を持って、二つが別の言語としたら」

「見方によっては。でも二人の間には共通の国語と国語教育がある。一つの地面の上に立っている。国が違って離れているということはたぶん大きい」

 深理さんは感心らしく喉の奥を「ふむ」と鳴らした。

 ネコはハタキが面白くなくなったらしく横向きに倒れてしばらく休んでいたが、いつの間にか掃き出しの前まで移動してガラスを引っ掻いた。ぞっとする音だ。三人ともぞっとした。深理さんは鍵を開けて外に出してやって、遠くへは行かずに日向でごろごろしているだけなので戸を閉めないでおく。春先のぬるいような冷たいような風が入ってきてカーテンの端を控えめに持ち上げる。

「血って何なのかしらね。個人の形質以上に、民族の性格や気質や、まして言語や国籍なんて伝えることがあるのか」深理さんは座り直しながら無感動にぼやいた。「まだ知らない場所を、そこへ帰りたいと思わせる記憶が、予め。そんなの、信じられる?」

「国籍?」

「子供の頃、自分がどこに帰属する人間なのか、誰に受け入れてもらえるのか、それがどこにもないような気がして不安だったの。あ、私の話にしていいの?」

「全然」

「そう、じゃあ、少しね。子供って恐ろしいものじゃない? 授業で習ったことを目敏く援用して、同類項とか、ゲルマン人の大移動とか、一時流行るでしょう。小学五六年の頃には子供の中で誰よりも背が高かったから、『キリン』なんてまだ何の捻りもないわよ。だけど歴史の授業が戦国時代に入った途端に南蛮人よ。ヨーロッパへ行ったら行ったで今度はアジア系に見えるわけで、近所の子供にハブられるし、ニーハオなんて言われたりするし。新参者の鳥があっちの木で追い立てられ、こっちの木で追い立てられ、なかなかとまる場所を見つけられない。そんなふうに。

 でも十四歳の時、それってお父さんのことを一番嫌っていた時期だけど、アルザスの親戚のおじさんに案内してもらって、ヨーロッパのあちこちを列車で回って旅をしたの。リヨンの実家に集まった時に、窮屈な思いをしているってことを話したら、じゃあもっと広い見識を持ってみたらどうだって、急なことだったけど、プランを立ててくれてね。それから二週間くらいかな。ドイツ、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク。イギリスも行ったわ。おじさんは元記者の作家で、顔が広くて、どの言語でも挨拶くらいはお手のもので、ホテルより知り合いの家に泊めてもらうことの方が多いくらいだった。何日も御馳走になっているうちに、美味しいのもあれば表情を隠すので手いっぱいというのもあったけれど、問題は味の云々ではなくて、すごく和食が恋しくなったの。特に何っていうのじゃなくて、ご飯とか、しょうゆとか、そういったもの。それで、ああ、育った土地は一生ものなんだなって思ったのよ。親の味といった方がいいのかもしれないけど、いくら親がいてもフランスじゃ食材の選びようがないでしょう。だから、血は容姿と性格を定めるものであって、故郷を定めるものではないんだって。あなたには帰るべき故郷もあって、イギリスにも心の落ち着ける場所を見つけて、それは幸せなことだったと思うわね」

 ネコは外で横になって寝ている。風が吹く度にひげや耳がぴくぴく動く。花の匂いでも流れてくるのかもしれない。ネコの鼻や耳は人間よりずっと敏感で、その分、遠いもの、小さいものを確かに感覚することができる。僕には嗅げないものを嗅ぎ、聞こえないものを聞いている。

 僕はネコを気にかけながら黙って二人の話を聞いていた。海外の経験なんてまるでないし、言語の壁にぶち当たったこともない。

「旅行は好き?」深理さんが訊いた。

「好き。国内ならウェールズやスコットランドや、母の出張にくっついていって。旅というほどじゃないけど、私一人で行こうという気にもなれなくて」

「一人はだめよ。ツアーでもボーイフレンドでも、誰かに連れて行ってもらわないと。そのおじさん紹介してあげようか。作家でスケジュールってものがないの。捕まらない時はどこかへ旅してる時ね。とにかく一人旅はだめ」

「はい」狭霧は忠告に頷いた。そんなことはわかっている、といったふうだった。

「旅というのは、見知らぬ土地へ入っていって、一秒一秒新しいものを知っていくことでしょう。これは知っているものだ、これは慣れたものだって、感覚だけでやっていけることはひとつもなくて、目的の場所へきちんと行き着くには色々なことに注意していなければいけない」

「とても危うい、不安定な状態」

「そう。かといって、そこに馴染んでいかなければいけないわけでもない。引っ越して、勝手の違う環境で、これからここで生きていくのだと思うと気が重いかもしれないけれど、旅なら常に帰れる場所があるのだから。それはきっと自分の家がどんな場所だったかを思い返す機会でもあるのね」

「遠くへ離れて、ぷかぷか浮かびながら、外側から見てみる。旅の間、私というものは常に変化しながら、定めずにいられる。私は今、旅の中にあるのかもしれませんね。一人暮らしというのは」

「期間があって、終わりが見えているなら、そうじゃないかしら」

 狭霧はロールケーキを食べ終えて皿に付いた生クリームをフォークできれいにとり、「もっかいお店見てもいいですか」と訊く。

「あら、気になるの?」

 狭霧はまた店に降りて棚の間で何かを探す。いくつか箱を取って見比べてみたりする。僕らもカウンターのところまで出て、どの絵が売れた、残った、という話をしていた。深理さんは天板に深く座ってカウンターの間に足を下ろし、僕は店とリビングの間で床の下がっているところに腰かけて、外から戻ってきたネコを膝の上に乗せていた。黒いチュニックを着ているので裾のところにほとんど同化する。普段は深理さんやおやじさんにくっついてばかりで僕にはなついていなかったのに、今日は感じが良かった。

「イギリスの飛行機の国籍マークって日本ではジャノメって呼ぶんですよね」と狭霧。深理さんにも訊いてみるつもりらしい。

「イギリスではスネーク・アイズって呼ばないの?」

「私は聞かないですね。今の話、鳥を観る会の人から聞いた話ですけど、その人は自分ではそうは言わないって口振りだった。スネーク・アイズっていうと、普通はサイコロのゾロ目のことですね」

 深理さんは耳に水が入ったみたいに首を傾けて、うーんと低く喉を鳴らす。「円が二重三重になっているものなら、日本では大抵そういう名前を付けるわよね。傘や独楽や」

「他の国の国籍マークにも似たようなのがあるけど」

「イギリスのが一番それっぽいからじゃない? 白目と黒目の比率なんか典型的で。あと、ボウリングのスプリットでスネークアイってわかる?」深理さんはカウンタから降りて狭霧の横まで歩いていき、棚を探していくつかひっこ抜く。

「端っこの七番と十番が残るの」

「そう。離れてるからヘビの目なの。二次大戦頃から違ってくるんだけど、イギリスの飛行機のラウンデルってね、だいたいそれまでは翼の端ぎりぎりのところに翼の幅一杯に描くのよ。ほら、ソードフィッシュやハートなんかいかにもヘビの目じゃない? これが単葉になるとだんだん内側に寄ってきて、大きさも小さくなる。戦後の機体だともうこんなに小さい」

 深理さんは胸の上に模型の箱をたくさん抱え込んで最後に古びたフロッグ製のガネットを引っこ抜き、狭霧はそれを受け取って先に持っていたノヴォ=フロッグ製のソードフィッシュと見比べる。実機同士の世代は二十年くらい離れている。

「ああ、確かに。これじゃジャノメにはならないや」

「なんといっても複葉機の方が可愛いでしょ?」

 その問いかけには狭霧は苦笑いして首を傾げるだけだった。

なんかこうへらへらした感じで終わっていくのが腑に落ちないんですが、このシーンのちょっとメルヘンな雰囲気を守りながらどうにかする手段が全然思いつかなかったのでもう一度後で考えます。といっても言うほどもうあとが残ってないのだ。

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