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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
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不変の形而上的形状

 狭霧は店の灯りを消して扉を閉める。

 テーブルには三人分の紅茶のカップとロールケーキの小さな角皿が並べられ、真ん中にポットと牛乳注し、そしてフォートナム・アンド・メイソンのサイコロ型の缶、「クイーン・アン」が置いてある。器はどれも白く、食器は銀色だった。

 席は深理さんが台所側の窓際に座って、その向かいが狭霧、狭霧の隣が僕。

 席に着いてから食事を始めるまでの短い時間に横の二人が無言で見合っている。土俵の上のような微妙な緊張がある。誰が合図をするわけでもない。全て本人たちのタイミングだ。

「さあ、召し上がって」と深理さんが沈黙を破る。フォークを取り、「ミシロくんの家はどう?」と訊く。慎ましいバニラ色のケーキを切り分けて口へ運ぶ。

「いいところですね」狭霧が答える。「あ、これおいしいです。クリームがしっとりして」

「そうでしょう? あとは脂っぽくならないように、重たくならないように、結構こだわりがあるの」

 狭霧は舌の上で感触を確かめるみたいにもう一口ゆっくり食べて、それから部屋の話を続ける。「一人でいるには手に余るのかもしれないけど、広くて羨ましいです。あと、カーペットが気持ちいいんですよ。ちょっとちくちくして、それが癖になるの」

「部屋に?」深理さんはきょとんとする。

「そういう時代の建築だから、洋室が絨毯敷きなんです」僕が補足した。僕はできるだけ二人の中間になるように体を前に倒して話を聞いていた。

「ああ。私まだ入ったことなくて」

「え、それは意外」と狭霧。

「そう思う?」

「二年以上の付き合いで、さほど離れているわけでもないのに」

「なぜか呼んでもらえないのよね。きっと何か見せたくないものでもあるんでしょ」深理さんは僕に話を振った。

「そんなことないですよ。ただここで会うのが習慣になっているだけで」

「本当に?」

「本当に」

 深理さんはもうしばらく僕の目を覗き込んでいたけど、それ以上の追及はしなかった。

 テーブルの下に黒いものが見えた。黒ネコだ。人間たちが落ち着き始めたのを見計らって僕の向かいの席に登り、テーブルの上に鼻の高さまで顔を出した。憎たらしいことにどうやったら自分が可愛く見えるのかよく把握してるのだ。その点にかけては深理さんより、あるいは妹さんよりも技巧的だった。深理さんはスポンジの切れ端をプラスチックのトレイに移してネコの前に置いた。ネコはトレイの前に前足を揃えて伸び上がり、何度か舌先で触れてからスポンジをかじり始めた。

「二人は幼馴染ではないのね」

「違います。同じ学校になったのが小四くらいで」狭霧が深理さんの質問に答えた。僕も頷いた。

「仲がよくなったのは中三?」

「はい」

「じゃあ離れていた期間の方が長いのね」

「そうなります」

「ねえ、これだけは訊いておきたいんだけど、あなたにとってミシロくんって?」

 狭霧は手を止めてしばらくフォークの柄を撫でながら考えた。でも目は深理さんの方を向いていた。でも視線が当たっているのは目ではない。鼻か唇、その辺り。

「不安にならないんです」と狭霧は答える。

「不安?」

「人間には境界があるでしょう。表向きのところと、皮膚の内側と。自分のことをこんなに人に話すのはやめておこう、言わないでおこうって、時々思う。恥ずかしくて言い淀む。それはたぶん、相手の中の幻想を壊したくないからなんです。こんなことを言ったら私の立場が悪くなるかもしれないって。そういう幻想を期待せずにいられる相手だった」

「明け透けに?」

「私という人間の本質というか、考え方の深いところをきちんと把握して、わかってくれるのは、一番はミシロだという信頼があって。だから、久しぶりに会って、変わったとか、変わってないとか、そういうやりとりはとても真剣で、重かった」

「それは大切な存在ね」

「はい」

 深理さんは微笑みを忘れずに聞いていて、少し余韻のあとにロールケーキのひとかけを口に運んだ。

 皿の上は空になる。平皿に乗せた長いままのやつを冷蔵庫から出してパン切り包丁で少し厚めに切り出した。「おかわりあるからね」と言って包丁についた生クリームを指で取って舐める。それから狭霧のイギリスのことを訊いた。

 狭霧はワトフォードの景色や鳥を観る会のことを改めて説明して、「昔はモスキート爆撃機の大きな工場があったんですよ」と言った。

「デハビラントね。そう、ワトフォードってモスキートの生産拠点だったのよ。雑誌で読んだことあるわ」深理さんはちょっと思い出しながら答えた。

「今は丸ごとワーナーブラザーズのスタジオになってます」

「ああ、そうなの? それは知らなかった。建物はそのままなのかな」

「ヒースはそのままだって言ってましたね。スタジオのゲート前から道なりに行くと元の滑走路も見えて、彼の勤めている工房がその先なんです。ムーアハウス・ウッドワークス。ああ、ええと、彼って、隣の家のご主人なんですけど」

「木工というと、何を作るところなの?」

「注文の家具と古い箪笥なんかの修理です。だから彼の祖父の代はみんなモスキートの製造に駆り出されたって。工房はいいところですよ。天井が高くて、中庭に螺旋階段があって屋根の上に登れて、そこからの景色がとてもいいんです。延々たる牧草地と垣根と、時々生き物も見えて」

「ウォーターシップダウンみたいな?」

「そうそう。よくご存じですね」

「父親が自分の子供のために考えた物語ってなんだかいいのよね。気に入っちゃうのよ。子供騙しなんだけど、本当に馬鹿馬鹿しいものは見せたくなくて、寓意を込めつつ、えぐみは濾し取って。えぐみがないということは文学的には踏み込みが足りないということなのかもしれないけど、傑作を選ぶ基準でお気に入りを選んでいるわけではないし」

 狭霧は次に何を言おうか少し考えて紅茶を飲む。

「ごめん、話の腰を折っちゃったわね」

「いや、話せることがなくて」狭霧はソーサーに戻したカップの向きを整え、そのあとちょっとカップの中を覗いてみてから「お店に来た人にお茶を出したりするんですか」と訊いた。

「え、なぜ?」

「家族の普段使いのものではないですよね」狭霧は深理さんの持っているマグカップを見て訊いた。「でも使い込まれていて」

 深理さんは頷いて「時々、長居する人には」と答える。「お母さんの影響?」

「仕事柄でしょうか」

「食器のバイヤーだって」

「営業力のない個人経営の窯元を回っているんです。もともとは日本から持っていく仕事だったんですけど、市場を調べているうちにいいものがたくさん見つかって、これは持って帰らないとって。カタログは勝手にどんどん溜まっていくし、取引相手がものを持ってうちまで来ることもあるんです。だから覚えないわけにはいかないというか」

「リチャード・ジノリ」僕は皿を掲げて裏を覗き込む。読み上げる。

「何だっけ。知ってるんだけど」と応えて狭霧。何度か指の背で額を叩いてから、僕と同じように高台の内側を確認する。「そう、アンティコホワイト」

「じゃあよく仕事の話を聞くの」深理さんは皿がテーブルに下ろされるのを待って訊いた。

「訊かなくても喋るんです。だから家にいると可哀そうなアシスタントみたいな気分だった」

 深理さんは口を押さえて笑う。「そうか、いまは別々に暮らしているんだったわね」

「ええ」

「イギリスへ行ったのはお母さんと一緒に住むためじゃなかったの?」

「まあ、建前上は」

「事実は違うのね?」

 狭霧はしばらく庭の方へ顔を向けた。窓にはまっすぐ、深理さんにはちょうど横顔を向けて。

 それから向き直って事情を話す。情報はかなり整理されていた。

「別の国で生きようとするなら生きる空間も違う。使う言語も違う環境に馴染んでいかなければならない。それって生まれ変わるのと同じようなことだと思うんです。そこにはかつて私が揺られたゆりかごもない。育った言語も聞こえない。なら私は古い私を抜け殻として置いていってもいいんじゃないか。実際の私が変わってしまうのは仕方がないとしても、その時に死んでしまうそれまでの私を、あの家の中にできるだけいい状態で取っておこうとした」

「取っておくって?」

「昔は親密だったけど、もう何年も音信不通の誰かの記憶って、最後に会った時点で止まっていませんか」

「どうかな……。うん、でも、わかるわ」

「そんなふうに、新しい刺激から隔離することで変化からも遠ざけることができるんじゃないかって」

「誰かの記憶の中みたいに?」

「ええ」

「家屋に記憶が宿るとすればそれも妥当かもしれないわね」

「昨日、行ってきました」

「昔の家に?」

「ええ。でも、だめでした」

「だめ?」

「置いてきたはずの自分を生き返らせることはできなかったと思うんです。たぶん、今の私が何か大切なことを忘れていたから。忘れてしまったのは、仕舞い場所かもしれないし、鍵をかけた暗号のことかもしれないし、キスをすればいいのか、水をかければいいのか、そういった蘇生の方法かもしれない。とにかく上手く行かなかったですね」

「それがあなたの言うように取り戻せるものだとして、どんなふうに現れて、実感できるものなのか、手掛かりがなかったのね」深理さんは何かしら事の次第を把握しているような確かさで訊いた。

「結局、今の私自身から完全に切り離すことができていなかったのかもしれません。イギリスへ行ってから、自分の部屋へ入って扉を閉める度に、私がもう一人、外界との接触を頑なに拒絶してベッドの上でじっと座って待っていたような気もするんです」

「新しい環境に慣れることを拒んで?」

「おそらく」

 黒猫はスポンジを平らげて食後に顔を洗うのも済ませ、手持ち無沙汰になったのか話し込んでいる二人の足にまとわりついて膝に前足を引っかけたりする。本当はテーブルに上って間に割り込みたいのだろうけど、そこは深理さんがきちんと躾けたのでやらない。

 僕は古いハタキを取ってきて席に戻る。足元でそいつを振って「おいで」と呼ぶと案外素直に寄ってきた。

「私、日本に帰ってこようと思っているんです」

「そう」深理さんは寛容に頷く。

「帰ってくる」狭霧は抑揚を確かめるみたいに呟いて「帰ってくる、って、でも、あまりしっくりこなくて」と続ける。

「まだ向こうに家があるものね」

「今度はきちんと、何もかも持ってこようと思っているんです。残してくるものがないように。そうしたら、今の私と、これからの帰った私と、その合間はずっと滑らかに接続できるだろうから」

「それがいいわね。でもこちら側の状況はもういいの?」

「ええ。それだけは単に年齢の問題で」

「こちらへ戻ってきたとして、あなたに望まない変化を強いるようなものはないのね?」

「予断はできませんけど」

 深理さんはそこで一度体を傾けてネコの方を覗き込む。何をしているのか確認。それから「生まれ変わるというのは、むしろ変化を拒絶することなのかしら」と訊いた。

「え?」

「変わってしまえばそれまでの自分は死んでしまうって、そう言ったでしょう。あなたの場合には、それが生まれ変わるという選択だったと思うのだけど」

「ええ」

「それで、上手く行かなかった。だから今度は、なんだろう、もっと、緩やかで継続的な変化を受け入れることにした」

「私には、たぶん、自分の存在の一貫性が大事なんです」

「でも移り変わっていくのが人間ではなくて?」深理さんはそう訊いてみてから少しの間狭霧の反応を窺う。「変化を経ることで以前の自分に客観的な定義や評価を与えられるものだと思うけれど」

「全体としては変わっていく。でもその中には部分的に不変の性質を持ったところもあると思うんです。そういった部分に共通する概念を私は求めている。それは、突き詰めていけば、周囲にある世界との関係性、というか、その接触する部分ののことを指しているような気がしていて」

「形而上学的な形状?」深理さんはそう言ってちょっと笑いながら、掌に顎を置いて体をいくらか前に傾ける。「楽しい言い回しね」

「例えばそれは手触りなんです。使い慣れたフォークにはそれ専用の持ち方があって、別のフォークの持ち方とは違っているし、フォークの方から見ても、その人間に持たれる時の持たれ方は独特のもので、別の人間とを区別することができる。私もフォークも変化していく。でも持ち方と持たれ方だけは変わらない。そういう、何者か同士の間に決まった接し方の、単純な、でも表現しようのないプロトコル、それが結局は私を私たらしめる。その一部には昔から大事にしているぬいぐるみへの愛着や安心感もあるだろうし、無感覚の闇に対する接し方もあるだろうし」狭霧は顔の前にフォークを立てて、その向こうに深理さんの目をじっと見つめたまま、瞬きもせずに説明した。

 深理さんはちょっと眩しいみたいにその目を見返して「プロトコル」と呟く。

「勘合符とか、手形とか、そういうものです。相手を相手として確認するための、もっと微妙で感覚的な合図というか」

「あなた自身の考え方なのね」

「影響を受けた範囲がどこまで及ぶのかはわからないけど、誰かに求めたり、与えられたりしたものじゃない」

 深理さんは頷いて体を起こし、机の下で脚を組み直した。その時に伸ばした足の爪先が僕の脛を掠った。わざとじゃない。

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