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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
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混じり合う二つの世界

 狭霧を深理さんに会わせる前日の夜、先方から電話があって、彼女は狭霧の食べ物の好き嫌いやアレルギーを訊いた。といっても受話器を取っていたのは僕だ。代わるか訊いたら、「うーん……、やめておくわ、声を聞くのは直接会ってからにしたいの」と深理さんは答えた。だから狭霧が答えたのを僕が全部復唱しなければならなかった。

 受話器を外して「嫌いな食べ物はないかって、深理さんが」と玄関からリビングへ少し声を張って訊く。僕が狭霧に話しかける声色を深理さんがじっと聴いているような感じがした。

「ホウレンソウ」リビングの戸口から狭霧が答えた。

「ホウレンソウ」

「シュンギク」

「シュンギク」

「細かいものだとあといくつかあるけど」

「例えば?」

「きちんと熟していないキウイとか」

「きちんと熟していないキウイ」

 そこまでするとスピーカから笑い声が聞こえた。「わかったわかった。そんなに変わった苦手はないのね。無難なものにしておくから大丈夫」

 努力が報われない気がして僕はちょっと脱力した。

「じゃあ、また明日ね。彼女にもよろしくね」

「はい。また明日」

「じゃあね」

 受話器を下向きにして電話器の台座にそっと伏せる。文字盤の光が消える。

 電話が切れて暗い玄関で一人立ちんぼになってみると、ちょっと不思議な感じがした。狭霧はまだ戸口のところにいる。例えば、音だけが存在する世界と、光だけが存在する世界と、本来何の関係もなく別々に存在していた二つの世界が今まさに互いに接触しようとしている、そんな感覚が僕の中に生じていた。僕にとって、狭霧との関係と、深理さんとの関係と、それは今まで全然別の次元に存在しているものだった。これからそこに、いわば橋のような、ひとつのしっかりとした繋がりが結ばれようとしているのだ。


 朝の十時を目標にして手島模型まで歩いていく。いい天気だった。空は深い海のように澄んで、相変わらずメジロの群が梅の花見をしに家々の角を飛び回っていた。

 休業日、おやじさんは大学。深理さんにとって家を自由に使える良い都合の日だった。彼女は黒いセーターにカラメル色の長いスカート。玄関で出迎えて、狭霧にゆっくりお辞儀をする。「はじめまして。手島深理です。あなたのことはミシロくんから聞いてるわ。今日はどうぞよろしく」

 すごく堂々として余裕に満ちた挨拶。でもちょっと完璧すぎて、狭霧に対する身構え、ある種の怖れが僕には透けて見えた。今は深理さんと狭霧が向き合う時であって、僕はただの立会人だ。気負いがないからよく気づけるのだろう。

「さあ上がって」

「お邪魔します」

 例の黒ネコが二階からこっそり下りてきて階段の中くらいに座る。ほとんど物陰に混じっているけど真鍮色の目がきらきら浮かんでいる。

「あ、これが入り浸りの黒ネコ?」狭霧が気付いて訊いた。

「そうそう。野良なのに、今日なんか朝からずっといるの」

「なんていうんですか」

「名前ねえ、ないのよ。飼ってるわけじゃないから、つけてないの」

 狭霧はネコに向かって中腰になって、「どうも、こんにちは」と挨拶する。

 ネコの方もまんざらでもないらしく、少し瞳を大きくして狭霧を見返したあと、始末が悪そうに左手首のあたりをべろっと舐めて毛繕いを始める。

 家の中は普段より片付いている。土間に出ている靴が少ないし、床に落ちている輪ゴムや糸くずもない。台所の並びに出しっぱなしになっていた牛乳の空きパックや根菜を詰め込んだダンボールも姿を消していた。それに加えてオーブンでケーキのスポンジかクッキーでも焼いたような香りがした。

「何ですか」僕は犬みたいに辺りを嗅ぎ回しながら訊いた。

「ロールケーキを作ったの。落ち着いたら出してあげようね」深理さんは長押にかけておいたハンガーを下ろして狭霧のジャケットを預かる。静電気がばちばちして両者手を引っ込める。

「乾燥してるわね。平気?」

「はい」狭霧は指をこすりながら答えて「これ、どうぞ。お土産です」とテーブルに小さな紙袋を置く。ジャケットの下は薄い桃色のVネックのブラウスにぴったりしたジーンズ。

「あら、ありがとう」

「紅茶です。フォーナム・メイソンの。お土産といっても日本でも手に入るものばかりで、少し悩みましたけど、これは美味しいので」

「フォーナム・メイソン」深理さんは袋の口を開いて中身を目の高さに掲げる。「イギリスの百貨店でしょう。日本にもあるの?」

「三越とか大丸に入っているらしいです」

「じゃ自前のビルはないのね」

「たしか」

「ま、どちらにしても都心に出ることなんて滅多なことじゃないし、嬉しいわ。せっかくだから一緒に飲みましょうか」深理さんは茶葉の缶を調理台へ持っていく。「淹れ方に作法があって?」

「ないこともないですけど、あんまり堅苦しいのも嫌われるので」

「イギリスの人もあんまりこだわらないのね」

「全然。茶道みたいなものですから」

「なるほど」深理さんはそう言いつつ箱の注意書きを読んでいる。実はそこに正しい淹れ方が書いてあるのだ。シンクの下から手桶くらいのステンレスの小鍋を出して水を汲み火にかける。

 手島家だと店でもお湯を使うので電気ポットだけど、一度沸騰させた水を使うのは本当はよくない。深理さんは食器棚からティーポットとカップを下ろす。

「お店って今日はお休みなんですか」狭霧が訊いた。

「そう。休業日なの。いつも午後からしか開けないし、営業時間の方が割合少ないくらい。副業のようなものだから」深理さんは箸やフォークの引き出しを漁りながら答える。

「あとで見てもいいですか」

「店の中?」

「ちょっと興味があって」

「模型に?」

「……うーん」

「というより、模型の店というものによね」深理さんはまだ引き出しを漁っていて、やっと帆立型の茶匙を発掘した。ちょっと持ち上げて息を吹きかける。

 鍋の水に小さな泡が立って蓋が曇り始める。茶葉を入れる前のポットに三分の一くらい注いで鍋は火に戻し、ポットを回して温め、中の湯をカップに分けてそれぞれを温める。

 茶匙で缶の蓋をこじ開け、三人とも鼻を近づけて嗅いでみる。くしゃくしゃした匂い。高貴な香りというものだろうか。おいしそうとは感じないけど、厭味がなくて、嗜好品というのはそういうものだ。

 間もなく沸騰のところでポットに茶匙二杯の茶葉を入れ、そこに鍋から勢いよく熱湯を注ぐ。最後はゆっくり、ポットに一杯まで。蓋をしてタイマーを五分にセット。

 深理さんは店に下りる扉を開いて壁の裏側に手を伸ばし、配電盤のスイッチをぱちぱちと切り替える。「欲しいのがあったら呼んでね。安くしてあげるから」

 蛍光灯がのっそりと手前から灯ってゆく。

 その間に狭霧は深理さんの横に来て店の空間に頭を突っ込み、首を伸ばして「すごーい」と呟く。「サンダル借りますね」

「ええ」

 深理さんは狭霧がつっかけに足を下ろすのを戸口の端で見守ってから、テーブルに尻をかけている僕の横へ来て「話に聞いたより可愛い子じゃない?」と小声で言った。

「想像と違いました?」

「変わった子だって言うから、もっと人当たりの難しい感じだと思ってたけど」

「図書館と同じ匂いがする」と狭霧。左右の通路を少し覗いてから真ん中の通路を入って棚を見上げ、踵を浮かせて手をまっすぐ伸ばしてみる。一番上の箱に届くか届かないかというくらい。それから箱の重なりを目で追って何かしら唇を動かす。聞こえないけど知っている飛行機の名前を唱えているのかもしれない。

「きれいに並んでますね」狭霧が訊いた。

「そう? 地震の後で直した時にはもっとかっちりしてたんだけどな」

「全部でどれくらいあるんですか」

「どうかしら。そうだなあ、一つ一つの在庫は憶えているんだけど、全体の総数はきちんと数えていないから、だけど、ざっと三千くらいはあるんじゃない?」

「三千?」狭霧はびっくりする。

「もっと少ないかな」

 狭霧はショウウィンドウに向かって歩いていく。左手の棚の影に消えてすぐ、仰け反りに顔を見せて「この大きいのがUコン?」と訊く。

 僕は通路の目抜きのところにいるので答えて肯く。

 タイマーが鳴る。深理さんはポットの蓋を取ってスプーンで中をさっとかき混ぜ、カップの保温用のお湯を捨てて茶漉しを左手に少しずつ注ぐ。ペアカップともう一つが深理さんの普段使いのもので、それだけ背が高い。

「これがミシロの絵だね」狭霧はカウンターの側にいるらしい。

「絵によっては外板の歪みなんかも見えるの。水彩なのにね」深理さんは顔を上げずに、やや声を大きくして答える。カップをテーブルに移し、冷蔵庫からロールケーキを出して被せていたラップを剥がす。フォークを出す。

「別々のメーカーが同じ型の飛行機の模型をそれぞれに出しているんですね」狭霧は模型の棚の間に戻って再びぐるぐる見回している。「これ、本当に同じタイプ?」

「そういうの結構多いのよ」

 深理さんはテーブルの支度が終わったのでおやじさんのつっかけで店に降りてカウンターの表側に寄りかかる。

「造形の技を競っているの。きちんと自分で造形して金型を造っているところもあるし、他のメーカから中身だけ貰って自分の箱に詰めるということもある。たくさんのメーカーから出ているのに実際模型としては二種類か三種類しかないとか。自分のブランドで揃えることに意味があるのだという考え方をすればそうなるわね。反対に、他に誰も作ったことのないものを模型化すれば需要を一手に引き受けることができる。もちろん出来が悪ければ失望を買うことになるけれど」

「そこに違いがあるってことは、その中のどれか、もしかしたら全部、本物を正確に縮尺したのではないということですね」

「そう。最近はどこのメーカも少しずつ良くなってきたけれど、きちんと調査をやっていない模型は大抵そう。忠実ではないの。冷戦時代に西側で造ったソ連の新型機の模型なんて酷いわよ。出来じゃなくて話題性で売るものだから。そういうものはあらゆる点で適当なの。だからマイナーでキットに恵まれていない飛行機を作る時、真剣に実際性を求めるモデラーさんは自分で山ほど資料を集めて、ろくでもないキットをベースに、パーツをばらしてくっつけたり、パテを盛ったり、ああでもなしこうでもなしと忠実を求めて四苦八苦する」

「メーカーが新しくて正確な模型を出すのを待つわけにはいかないんですね」

「そうらしいのよね。既成品がない時はプラ版を組んでゼロから作っちゃう人もいるの」

「それで模型になるの?」

「それでこそ模型になるのだと考えている人もいる。プラモデルがまだ一般的じゃなかった昔には木を削って作るのが普通だったもの」

「へえ……。忠実を求めるというのは、だけど、縮尺するということ自体どこかに忠実性の省略を含んでいるんじゃなく?」

「いくら忠実でもそれは模型であって飛行機ではないのよね」

「飛ばない」

「きっとそういう無駄さこそが模型を一部の人間の趣味たらしめているのよ。その一方で出来の悪い模型を割り切って手を加えずにそのまま仕上げようとする人もいて、それは模型そのものへの愛着だと思うけれど」

「愛着?」

「そう。ある常連さんが言うにはね、彼が精巧な模型を手に取って眺める時、ああ、本物はこういう形をしているんだなって眺めるのよ。でも出来の悪い模型の時は、なんだ全くへんてこなプラモデルだって思いながら眺めるのよね」

「でも眺めるんだ」

「うん」

「変なの」

「結局はね、心血注いで何かを作ること、それを手元に置いておくこと、そこに模型家の真理があって、リアルだろうが模型そのものだろうが、自分で作ったものに出来がいいと感じられればそれで満足なのよ」深理さんはそう言って僕の方を見た。「だから模型が好きなんでしょ、なんて、こういう話を模型家本人に吹っ掛けるのはあまり気の利いたことじゃないでしょうけど」

「深理さんも模型を眺めるの?」

「時には」

「どんなふうに?」

 そう訊かれて深理さんの視線は狭霧を離れ、斜め上に向かって空調の手前の吹き出し口の辺りに留まった。

「時代を思いながら」

「時代」

「古い飛行機、退役した飛行機に対しては、偉大な故人に銅像や肖像が贈られるような、そんな気持ちで見るかな。既に失われたもの、過ぎ去ったものの形代というか。あとは、見る機会も、それを作る人口も単体の模型よりずっと少ないのだけど、私はジオラマの方が好きね。景色を再現したやつ。ワイヤーで吊るのとか、アクリルの炎とか、綿の煙とか、そういうのはあまり好かないけど。本来的には飛行機も道具なんだから、周りに人間のいる方が活き活きして見えて。それは過去の人間たちの活動であって、私には現実にならないものだから」深理さんは狭霧の反応を見て「さ、そろそろ戻らないとせっかくの紅茶が渋くなる」と言う。

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