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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
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朝霧

 翌朝外の明るさで目覚めると布団の中から狭霧の姿が消えていた。どこまで手を伸ばしても当たりがない。指先は延々シーツの上を滑っていく。掛け布団を上げてみてもやっぱりいない。自分の体の隣にまだ熱の名残があるだけだった。

 窓が妙に明るい。太陽光の混じった赤や紫とは違う。霧だ。目隠しのカーテンを開けると目の前に真っ白な壁があるみたいな感じがした。地表も川面も見えない。自動車の往来だけが音の気配になって空のドームから降り注いでいる。

 廊下へ出ると狭霧の部屋の扉に白いメモが挟んであった。「川辺まで少し散歩してきます。帰りに新聞取ってくるね」という。安心した。消えてしまったわけではないんだ。

 顔を洗ってジャンパーとジーパンに着替える。玄関の鍵はかかっていた。合鍵を持っていったのか。

 エレベーターを下りる。エントランスのポストにはまだ朝刊が入ったままだった。交差点へ出て歩道橋をくぐり、三一四を堀切橋へ向かう。すれ違う人間はいない。対岸の歩道にも人影はない。疎らに車の往来だけがある。フォグランプの小さな光が白い闇の中から湧き出てくる。

 土手を上る。狭霧は河川敷に下りていた。遠い。でもシルエットが彼女だった。何だろう。髪型、肩や脚の形、姿勢……。

 夜中に雨が降ったのか、河川敷の草叢にはまるで雪解けのツンドラのように浅く水が張っていた。草の先にも露がついて靴や裾を濡らす。狭霧は僕の足音に気付くと振り向いておはようと声をかけ、それから「橋が消えてる」と言って堀切橋を見上げた。川面に溜まった霧が橋の中ほどをすっぽり覆い隠している。

「別の星につながってるみたいだね」狭霧はまっすぐ腕を伸ばして、人差し指と中指の間に橋と霧の境界が入るように狙う。「ロンドンではね、橋の架けられた川はどんなに細い運河でも泳いで渡ろうとしてはいけないんだって。一度でもその橋を渡ってしまったならなおさら」

「都市伝説?」

「まあ、そんなところかな。橋を建てるのに命の犠牲を欠かさなかった頃には、竣工した橋はそのまま誰かの墓標だった」

「お墓を踏むって失礼じゃないかな」

「だって、踏んでもらわなきゃ。橋を渡すための犠牲になったのに」

「そうかなあ」

「まあ、稼ぎが欲しいだけで厭々って人もいただろうけど、それでも自分の死に価値を与えてくれるものは橋しかないんだ」

 考えてみれば、確かにそうかもしれない。下らない死より大義のための殉死の方が納得がいくだろう。

「だから川を泳いで渡ろうなんて行為は彼らの努力を蔑ろにする見逃せない行為だった。彼らは怒って泳ぐ人の足を引っ張るんだって」狭霧はなぜだか少し笑った。「それはそれは恐ろしい形相だって。肌は膨れて、目は真っ黒に陥没した穴になって」

「それは恐い」

「たぶん三百年くらい前の話だよね。それはきっと子供たちのための寓話なんだ。交通用の橋がどんどん架けられるようになる頃には、実際、工業廃水が濃くなってとても人が入れる川じゃなくなっていたんだから」

 あたりの白い闇はまだ濃密に立ち込めて、橋を飲み込み、向こう岸をしっかり隠している。足元までうっすら景色がぼやけて、草の葉先についた露も曇っていた。

「ねえ」僕は訊いた。「あるところにある水が地球を一周するのにどれくらい時間がかかると思う?」

「うん? どれくらい?」

「だいたい千年。海流に乗って北極や南極で深海に潜って、回りながら汚れもするし浄化されもする。三百年前そこに流れていた水も全然姿を変えてあのあたりに居るのかもしれない」

 狭霧は肩を竦めてぶるっと震えた。「ちょっと寒い」

 Tシャツは部屋着のまま、下は白の長いパンツに履き替えて、上にも白いガウンを羽織っていた。厚さはあるけど織り目が粗いので冷気が通るのだろう。

「足、濡れてない?」

「ちょっとまずいかも」狭霧は慎重に足を上げて土手の方へ方向転換する。「そろそろ帰ろうか」

 我々は来た道を引き返してまだ人気のしない通りを歩く。建物の窓はまだしんと閉ざされて明かりもない。

「あ、ねえ、髪、昨日よりよくなってない?」

「うん?」

「どう?」

 遠慮しないでじっくり検分すると、確かにさらさらしていた。きちんと梳いてから散歩に出たのか。

「昨日ミシロの部屋で見た絵、砂漠とノスフェラトウと、あれは私を描いた絵でしょ?」

「そうだよ」

「ノスフェラトウは中三くらいの私。砂漠はイギリスの私」

「うん」

「なぜわかるんだろう」

「僕の中の柴谷のイメージと柴谷の中の自分のイメージがある程度一致していたからじゃないかな」

「そんなに都合のいいものかな」

「どうだろう」

「いずれにしてもそれは記憶に基づく像だよね」

「うん。絵や写真はモチーフとなる人間を擬似的に殺すことができるのだと思う。絵はより内面的に写す。段階的に間隔を空けて描いた絵は除いて、一時に貫徹して完成させた絵はその機能を持っている」

 僕は絵と踊りについて羽田と議論したことを思い出した。絵は一瞬を切り取り、永遠と再生の中に放り込む。絵そのものは確かに朽ちていく。それでも写すという行為は不変への挑戦に他ならない。

「私は昨日あの絵を見てとても多くのことを思い出したような気がするんだ」狭霧は言った。

「とても?」

「そう。何だろう、それは言葉や光景ではなくて、きっと私の中にあった感情だとか、感覚だとか、喉の奥がむずむずするとか、平衡感覚が薄れたような危うさとか、そういう具体的に言い表すのが難しいもの、でもとてもたくさんのそういうものを」

 東西の通りに沿って朝日が差し込み、辺りの霧を真っ白く輝かせる。狭霧の姿もほんのりと光の色に染まり、横断歩道の白線を踏むその踵から跳ね上がった水滴がまるできらきらした鱗のようにひらりと舞って風に流されていく。

「なぜ我々はアイデンティティを求めなければならないんだろうか」僕は言った。

「我々って、ミシロと私のこと?」

「それを含めて、アイデンティティを求めるあらゆる生き物、あらゆる事物」

「そんなの考える主体によって違うよ。自分と他者の違いを知りたいから考える。今と昔の自分の違いを知りたいから考える。自分とは何なのかを知りたいから考える。自分が何のために存在しているのかを知りたいから考える。それらは一見互いに似ていて、でも少しずつ違った問題なんだ」

「少しずつ、ということは共通する部分も少なからずあるんじゃないだろうか」

「だとしたらそれは時間的空間的に広い視野を持っているという条件だよ。自分の生と死の終端、その延長に現前し、あるいは残されていく世界の広大さはそれを鳥瞰する者に一種のうすら寒さを覚えさせる。その虚ろさの中に同化していく没個性を我々はきっと恐れている。その短く細い糸のような一生に一体何の意味があるのか」

「その不安が我々の駆動体なんだろうか」

「私にはそう思える。それはきっと地球の寿命を知った人間が自分の立つ地面の不確かさに気づくのと同じようなことなんだ。人間の寿命を考えれば地面に対する不安なんてばかばかしく感じられるかもしれない。でも不安に陥っている人間はもっと確かな根拠を真剣に求めている。不安を呼び込む視野の広さはきっとセンスで、素質と経験の両方がそこには関わっている」

「いかに高度な素質を持っていても、いつどれほどのレベルでそれが開化するのかは偶発的あるいは運命的な体験に託されている」

「そう。そしてその卵の殻の硬さもまたそれぞれなんだ。だから慧眼なくせにアイデンティティの問いかけに陥らないまま硬く薄く透き通った自分らしさを誇っている人がいる。ろくな思考もままならないのに不安ばかり振りまいている人がいる」

「柴谷にとっての体験は淵田の無視だった」

「そうなるだろうね。きっとそれが一番大きい」

「僕にとっての体験は柴谷だった。柴谷の問いかけが少しずつ蓋を開けていった。そして金工室がその蓋を破壊した。柴谷がいなかったらこんなふうに柴谷と同じレベルで話せていなかったはずだ。回帰的だけど、そう思う」

「まるで毒みたいだね」

「うん。僕もそんなふうに思ったことがある。それは毒で、僕が誰かに問いかけることによってまたその相手まで毒に染めてしまうんじゃないかって。でも僕が毒に染まったこと自体はよかったことなんだと思う。さっきも言ったように、だからこそ柴谷とこういう話ができるし、柴谷のことを聞くためにはそれは必要なことだった。僕という存在にとってまたそれが必要だと思えるほど、僕は君に、柴谷に惹かれていた」

 狭霧は前を向いて歩きながら何か返そうか考えているようだったけれど結局何も言わなかった。やがて日光は霧の帳を打ち破り、分断し、蒸発させていった。青く晴れた朝が来た。

 ポストから新聞を取り、エレベーターに乗って部屋に戻る。リビングの窓を開けると気持ちのいい風が吹き込んできた。明らかに陸風だった。冷たく雪のような味のする風だった。跳ね上げられたカーテンからほとんど青空そのものが差し込んで壁をくっきりとした青黒に染め分ける。狭霧は濡れた靴下を脱いで裸足を日向に晒して温める。床板の上には小さな埃の繊維までくっきりと影を落としていた。

「アイデンティティというのは土地のようなものじゃないかと思う」僕はその埃の繊維のひとつを目で追いながら言った。

「土地?」狭霧は膝に腕をかけて答える。

「世界がまだ地球の上で完結していた時代には自分という存在の場所を比較的簡単に確定できたんだろう。少なくとも物質的には」

「それは相対的アイデンティティだね」

「そうだろうか」

「ミシロ曰く、アイデンティティは二つに大別できる。絶対と相対、つまり自己同一性と自他相違性だ」

「座標は後者だろうか」

「世界という他との関係性だから。世界はかつて地球よりも小さく、いずれ宇宙よりも大きくなっていくのだから、それだって移ろい変化しているんだよ。そこに杭を打ったって移ろい変化していく自分を留めることにはならない」

「物質的なものは全て相対的だ、ということになりそうだね」

「私には本当の絶対的アイデンティティなんて成立しないように思える。あるのはただ限りなく絶対に近い相対なんじゃないだろうか。座標というのもその一つで、その座標軸が及ぶ範囲に限っていうなら、確かに絶対なんだ。だから我々はできるだけ多くの人、もの、場所に接して、多くの短く細い糸と絡み合って、代替の地平のようなものを自ら創り出そうとするんじゃないだろうか」狭霧は日向に置いた爪先に手を伸ばして、開いた足の指先を一本一本丁寧に揉みながら話した。その肌の色もかすかに空の色に染まっていた。

「あるいはそれは内的なものなのかもしれない」と僕。

「内的?」

「自分が自分と同じであるという証明なのだから、その文脈が自分の外側に対して完璧に閉じていてもいいのかもしれない」

「殻の内側に閉じ籠るのか」

「一番簡単なのは自明であると宣言することなんだろう。アイデンティティについて考えない者たちが最も解に近いんだよ」

「それはあんまりだね。求めるほど遠くなっていくなんて」

「僕もそう思う」

「殻の中にアイデンティティがあるなら殻そのものはどれほど揺さぶられても、移動しても、外の世界が変わってしまっても、関係ないわけだ」

「殻の中が座標軸に満たされていればいい」

「それって極小の世界みたいだね」

「うん。でも、なんか比喩的だ。本質を見失ってないだろうか」

「絶対的アイデンティティというのは私が私であり続けるための条件だよ。今朝起きた時の自分と昨日までの自分が同一の存在だと示すための鍵だよ。それは決して容姿や記憶ではないんだ。ミシロは言った。それは仕草であり反射なんだ。なぜ私を見つけられたのか」

「でも僕と君の間には外の世界が介在している」

「もし私たちが二人ではなく一人の人間だったなら、この家はきっといい殻になるんだ」

「そうか、殻というのはアジールなんだ」僕は床に手を置いた。日向の床板は爬虫類の肌のようにほんのりと暖かかった。

「そう」

「でもそれは欺瞞だよ」

「わかるよ。でも素敵な想像だと思ったんだ」

 僕は頷いた。「結局、殻の中を便宜的に二つに分けて対話の演技をすることが我々にとっての解なのかもしれない」

「便宜的なアイデンティティだ」狭霧は立ち上がった。「いい加減舌がアイデンティティという単語を受け付けなくなってきたよ」

 二人の人間が一人になるってどんなふうだろう。性的な手段を排除した時、僕はこの世界から狭霧がいなくなってしまう想像しかできなかった。僕はすぐにそのイメージを振り払った。

 開け放った窓から風とともに外の往来の音や人々の話し声が入り込んでくる。街はもうすっかり目を覚ましている。世界は僕らだけのものではなくなっていた。

比喩を使うとむしろ話がややこしくなるし欺瞞につながるので難しい。

アンチわかりやすく・面白くみたいな一節にならざるを得ない。

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