それぞれの領域、仕草、反射
家には物置きにしても使いきれない全くの空室がひとつあって、僕は今回その部屋を狭霧に使ってもらおうと思って事前にバルサンを焚いて窓を磨き、客用の布団を干して新しいシーツをかけておいた。散歩から戻ってその部屋を見てもらったあと、午後一杯狭霧はその部屋に入って静かに荷解きに専念していた。僕と話したのは、一度リビングに来て、書きものに使いたかったのだろうけど、和室から卓袱台を持っていっていいか訊いた時だけだった。僕がその卓袱台を使うのはアイロンをかける時くらいだったので全然構わない。二人で運んで行ったあと、狭霧は廊下に出てきて僕の作業部屋の扉を見た。
「ここが絵を描いたりする部屋?」
「うん」
「見てもいい?」
「いいよ」僕は扉を開いて先に中へ入った。
「これはまた、隣の部屋とずいぶん違うね」ぐるりと回転しながら壁一面にピン留めした絵を見渡す。
僕は手前の壁に立てかけておいた『砂漠』を指す。「この絵が一番新しい」裏向きに重ねてある絵の中から二年の春の展覧会に出した『ノスフェラトウ』を抜き取って『砂漠』の横に並べる。両方とも狭霧を考えて描いた絵だ。技術の巧拙はある。だがそれ以上に描いた時期が違っている。
狭霧は絵の前に離れてしゃがみ、手の甲に顎を押し当てるみたいにしてしばらく眺めた。真面目だ。でも美術家の目とは違っている。
「今日は描かないんだ」狭霧は訊いた。僕が電源コードを伸ばしてリビングのテーブルにパソコンを置いていたのでちょっと変に思ったのかもしれない。
「うん。それにリビングにいた方が用立てしやすいんじゃないかと思って」
「隣でごそごそしてたら気が散るか」
「というかお客さんが来てる時に集中するのもどうかと思う」
「じゃあ、ミシロが描いてるとこに出くわしたら、私もずいぶんこの場所に馴染んだってことになるんだろうね」
僕はその言葉にどう答えていいか瞬時にはわからなかった。
「この家はどちらかというと僕の家だけど、隣の部屋は柴谷ができるだけ自分のもののように使ってほしいんだ」
「くつろいでいいよってことね?」
「うん。人間には自分一人だけ不可侵の空間があった方がいいんだ。独占空間と共有空間ときちんと分けた方が無駄な軋轢なくやっていける」
「ここはミシロの部屋、隣は私の部屋」
「それ以外は共有空間」
「だからリビングにいたのね」
「そう。そういうことになる」
狭霧はそれからカーペットの上に座ってしばらく絵を眺めていた。僕は机の上に散らかしたままの消しかすを集めて時間を潰していたのだけど、なんだか自分の存在が邪魔に思えたので「気が済んだら扉を閉めておいてよ」と言ってリビングに戻った。
二十一時。浴室はもわもわと湯気で曇って床も空気も温まっていて、誰かが入ったあとの風呂というのは、考えてみれば、この家では初めてだった。桶の配置が普段と違って、手桶の中に真っ白なゴルフボールが取り残されていた。狭霧が洗ったのを上がる時に忘れたらしい。そのごつごつしたボールを持ってお湯の中に沈む。狭霧との回転の速い会話が頭の中をぐるぐると回っていた。それは小さな容器に閉じ込められた細長い蛇がものすごい勢いでトグロを巻いているみたいなイメージだった。
それからなんとなく金工室のことが頭に浮かんで、雨の音が聞こえて、油や鑢の匂いがした。狭霧の手や腕の感触を思い出そうとした。重くて、滑らかで、冷たくて。でも結局そのイメージは記憶の中に留まっていて、全身に行き渡る感覚になれるほど十分な情報量を持っていなかった。
上がってリビングへ行くと狭霧がここ数日分の新聞を読んでいた。オーソドックスな青いパジャマを着て、正座を崩して脚の横に新聞の束を置き、読む分を畳の上に広げている。どうも和室に落ち着いて読み物をするのが好きらしい。そのあと数日の間も暇な時に戸棚から本を出してきて寝転がって読んだり、そのままうたた寝して顎に畳の目の跡をつけていたりした。
「ボール。白くなったね」と僕は風呂場から持ってきたものを渡した。
「ああ、ごめん、置きっぱなしだった。別にどうしたいってわけでもないんだけどね、こういうのって、拾ってみたくなるんだ。なんだか可哀そうで」狭霧はボールを受け取って膝の間に置き、大きなあくびを噛み殺しながら言った。「だめだ。もう眠い。テレビ消す?」
「そのままでいいよ。少し涼みたい」
「先に寝てもいい?」
「いいよ」
狭霧は新聞を紙袋に戻して、体を起こした時にはほとんど目を閉じていて、頬は青白く、首の骨が足りないみたいに頭が上を向いて、床に踵を擦りながらふわふわと、最後に「おやすみい」と寝言みたいに不明瞭に呟いて出ていった。
僕も十分くらい風に当たってからテレビを消し、窓を閉め、明かりを落としてベッドに入った。
布団はいつも通り僕を包み込む。ひんやりして、暖まるのに時間がかかる。爪先を前衛にして摩擦で熱を起こしながら少しずつ脚を伸ばす。
耳を澄ませる。どこかの家から椅子を引く音。狭霧はもう眠っただろうか。
そんなふうに気を張っていたせいかなかなか寝付けなかった。
一時間くらいして扉を開けたり閉めたりするのが聞こえた。今度は自分の家の中だ。廊下に出るとトイレの灯りが点いていた。
「眠れない?」と僕は扉の前に言って訊く。
「なぜか。ミシロも?」狭霧の意識はさっきよりずっとはっきりしているようだった。一度昼寝のような深く短い眠りに落ちて目が冴えてしまったのかもしれない。
「少しね。どうせならこっちへ来たら、話でもしているうちに眠くなるかもよ」
代わって僕がトイレに入っている間に、狭霧は毛布と掛け布団を引き摺って寝室にやってくる。
窓から街の明かりが入っていた。
「ああ、カーテン開いてるね」僕の方からメールに書いたので朝日とともに起きる話を狭霧は知っていた。
僕が布団を半分どかしたところに狭霧が上って自分の布団を引っ張り上げる。しばらく面積の等分と間合いの確認をして、お互いの布団が綺麗に重なるように、ずれないように慎重に被って横になった。
僕らはそれぞれの布団にしっかりとくるまっていてお互い直接触れている部分はなかった。
「子供みたいじゃない?」狭霧が訊いた。彼女の声はとても近くから聞こえた。「小さい時に、同い年の子供同士でこうやって同じ布団に入ったの、ない?」
「どうだろう。僕は同い年の幼馴染っていなかったから」
「そっか」
「歳上の間に挟まれてもみくちゃにされたことならあるけど、同い年だと、同じ布団って、思い出せない。別々の布団だったら、小学校の泊まり遠足の時に隣と目が合って、そしたらこっち見るなって言われたけどね」
「四年か五年?」
「だったと思う」
狭霧はちょっと残念そうに息を吐いてもぞもぞ体を動かす。「だんだん一人になることが大事になってくるんだね」と言う。
「一人になる?」
それってどういうことなんだろうか。色々な含みを持っているように聞こえた。子供が大人になるにつれてプライベートな空間を手に入れる、ということかもしれない。大人があらゆる庇護から自立して一人前になる、ということかもしれない。それともそういった世界との壁の内側に別の人間を招き入れることによって二つの人間の境目が消失する、ということなのかもしれない。狭霧は最初の意味で言ったのだろうけど、僕はその言葉から色々なイメージを膨らませた。
「ねえ、しばらく考えていたんだけど、どうして私だとわかったの?」狭霧は訊いた。
「空港で?」
「そう」
「どこにいるのかわかったのはなぜ、というのじゃなくて?」
「違う。そのあと。私を見つけて、それが私だとわかるその時に」
「人が出てきて、それが僕かもしれないと思ったんじゃない?」
「そうだね」
「僕もそれを見て君なんじゃないかと思った。だから君が何にも気付かずにただじっと滑走路の方を見ていて僕がいくら近づいても気づかなかったとしたら、別人なんじゃないかと思ったかもしれない。姿じゃない。動きなんだ。柴谷は柴谷の仕草をしたのであり、それは僕を知っているだろう柴谷の仕草だった」
「じゃあ、私が頑張って無視していたらわからなかったんだね。それか、振り返っても知らない人のような顔をしていたら。そういう仕草って変えられるものだと思うけど」
「自分で意識しうる部分は確かにそうだろう。でもその端々にはどうしても直せないところが出ちゃうんじゃないかな。意識しえないから変わらない、君に特有の仕草のニュアンスというのが」
「そうか、仕草か……」狭霧は手を開いたり閉じたり、顔のあちこちに当ててみたりした。
手を下ろしてそれからしばらく目を瞑る。
「細かく言うなら、それは柴谷の僕に対する仕草、ということになるんだろうけど」
「それはたぶん反応という言い方もできるね」
「無響室の話でたしか反射というテーマがあった」僕はフェイスブックの引用記事を思い出した。
「あ、タイン・ミュアソロウの?」
「そうそう」
「あそこに出てくる彼女って、私のことね」
「わかったよ。そうでなきゃおかしいもの。それで、反射の話を読んで、僕は中三の柴谷がどんなふうに世界を認識していたのかもっと理解できたような気がしたよ」
「そう?」狭霧は調子を変えずに答える。やっぱり彼女は三年前の出来事を今の自分とほとんど切り離して捉えているのだ。
「淵田は柴谷の宇宙の背景放射の外側にいたんだ。別の世界といってもいい。君の呼びかけを無視し続けたっていうのはそういう意味になる。それで君の周りの人たちが淵田にばかり食って掛かるから、彼女たちもまた淵田の方へどんどん近づいて行って、柴谷の宇宙の外へ出て行ってしまった。柴谷の宇宙には何も残らなかった」
「うん。私もそういうイメージでタインに話したんだ」
「僕はそれを体験したことがない。だけど、怖いだろうね。自分の体がどうなっているのか、それが外界とどう接しているのか、わからないというのは」
「怖いよ」狭霧は目を伏せてほとんど閉じたくらいにする。無言語の海に沈んでいる感覚を両手に掬い上げて、その造形をできるだけ細かく言い表そうとする。「世界にあるものの何も、床の他には何も感覚することはできない。すると周りからの反響で感覚していたはずの自身の輪郭もぼやけて、だんだんその領域がわからなくなってしまう。感覚が空間全体に溶け出して、自分も、他のものも、何も存在していないのと同じ」目を開く。「無響室では、でも、明かりがついた時、私の体と感覚とが自分のものとしてすっと受け入れられたんだ。天井が見えて、目を動かして、ひとつながりの体があって、そこに感覚が通っている。あの感じを思い出すととても心が落ち着く」
「もし世界で一人きりだったら、人間はどんなふうに自分を認識するんだろう」と僕は訊いてみる。
「自分の他にどんなものも存在しなかったら?」
「ううん。他に人間がいなかったら。生まれた時から、一人も」
「生まれようがないよ」
「そこは目を瞑って。とても人間の密度が疎で、一人の人間がまだ他の人間に出会ったことがなかったら」
「荒野にいる原始人みたいに?」
「そう」
「ミシロはどう思うの」
「自分が何者かを知るのがすごく難しい状況だよね」
「だろうね」
「もしもう一人でも人間を見つけたら、意思疎通を試みて、それが相対的アイデンティティに過ぎないにしても、相手との差異から自分というものを定めるのかもしれないけど」
「いないんでしょ?」
「いない。でも差異を探す相手が人間である必要もないはずなんだ。だって、人間を見つけたところでそれがすぐに自分の同種とは気づけないかもしれないし、気づけたとしても、それは容姿がとりわけ自分に似ているからであって、前もって同種の存在を予知しているからじゃない。自分が人間であることを無条件に認めてくれる集団とか社会とかがないというのは、そういう状況なんだ」
狭霧は僕の言葉の端々を何度か繰り返してから「ああ、そうだね」と頷く。「現実は私が人間であることを認めるとともに強制してもいて」
「だから、もし人間を見つけられなくても、目にする範囲で自分の比較になるものを探して、自分の性質をそうした尺度の中に位置づけていく。あの動物は自分には似ていない。あの生き物が一番自分に似ている。精度は悪いだろうけど」
「じゃあ、とても似ていると思える獣に出会ったら、自分は人間なんかじゃなく、その獣なんだという結論も妥当なの?」
「妥当だと思うよ。でも似ているものに近づくほど細かな違いも見えてくるからね。相対的アイデンティティはそうやって完成されていくんだと思う」
僕はそれから狭霧の想像が形になるのをしばらく待つ。
「たった一人というのは、まず、寂しいだろうね。岩石の大地に地衣類の貼りついた薄い表土があって、樹木はなくて、所々にかろうじて藪や小さな水たまりがあって、遠くには壁のような白い山脈があって、見えるのは渡り鳥と、リャマの群れと、岩のごつごつした溝の間を走っているキツネだけなの。それで、私は別に、似ているものの方へ近寄っていかなきゃいけないとも思わないよ。冷たい空気を吸ったり、足が痛くなるまで遠くに歩いたり、水たまりに顔を写したり、そういった行動の中で自分という生き物を測っていくんじゃないかな」
「測る?」
「限界を知ることで、自分のできることとできないこと、面白いことと苦しいこと、そういう区別がついて、そういう機能や分別の集まりとして、その全てをひとつの感覚に集めている主体を自分として認識するんじゃないかな。もちろん、そこに言葉はなくて、ただただ感性に従って」
「反射だ」
「そう、感性の反射。でもまだそれでも絶対的アイデンティティとは言えないのだと思う。絶対的アイデンティティはきっと無響室の中でも消えない」
いつの間にか話がお開きになってくる。次第に時間の流れが遅くなって、どんどん遅くなって、滑らかに一続きに見えていた床は短冊状の細い足場になり、すっかり広がった隙間から意識がこぼれ出して闇の中に落ちていく。
二人ともそのまま眠った。狭霧の体温や心臓の動き、息づかいが自分の手よりも近い距離にあった。僕の生命活動もまた彼女に伝わっていた。布団の中にいるのに、周りには原始の草原が果てしもなく広がっていて、周りには邪魔になるような意識を持った生き物は何もなくて、そうしてお互いが溶け合って領域の境目もなく、全体がひとつのものになっているようなうっとりした感じが意識と眠りの間に広がっていた。