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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
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鳥を観る会、語りの余地

 午後は散歩をした。狭霧は履いてきた黒いパンプスを端に寄せてトランクから出してきたプーマの白いスリップオン・スニーカーで外に出た。布製の全体が白く差し色に青、背が低くて底のゴムに丸い模様がある。軽くて柔らかそうだ。それを履くとパンプスの時の大人びた感じがなくなって、いささか学生風の雰囲気に変わった。

 エレベータを下りて外へ、マンション群の中庭を川へ向かって抜ける。周りを囲んだ高い棟が観客席で、内側が闘技場みたいだ。敷地を出て川に面したところで東へ向かって汐入大橋の袂を横切り、川沿いに歩いて墨堤通りに当たる。ここまでは川に向かって緩い階段が整備された明るい区画なのだけど、そこから無愛想にまっすぐ切り立った堤防の内側へ入る。せいぜいバイクがすれ違えるくらいの幅、両側に高く壁が立ち上がっていて、まるで排水溝みたいな路地を抜けて綾瀬橋の袂を横切る。閘門みたいにコンクリートの堤防に囲われた水道を右手に見ながら僕は北千住が隅田川と荒川に囲われた実質的な島であるという話をした。そうやって歩いていると僕はこの島に引っ越してきたばかりの頃のことを思い出した。それはもうずいぶん昔のことのように思えた。まるで歴史の教科書に載っている出来事みたいな感じがした。

 堀切駅の歩道橋を登って線路を越え、土手上を走る都道四四九号を渡る。これで荒川を見渡せる。陸の方は家々の屋根の上に電信柱やVHFアンテナがちくちくと突き出し、その中に混じって梯子のついた銭湯の煙突も見えた。

「ちょっと歩くんだね」

「いや、遠回りしてきたんだよ。まっすぐ三一四から堀切橋に出ればもっと近い」

「三一四って、そこの歩道橋の架かった通り?」

「そう」僕は上流の方に顔を向けて堀切橋を指差す。「あの橋に出てくるんだ」

 手前の河川敷では小学生の野球チームが試合をやっていた。ユニフォームが一種類なのでチーム内の練習らしい。子供の両親や老人が内野の横にシートを広げて、右中間に抜ける鋭いヒットが出たところでわーわー歓声を上げていた。

 川っぺりには遊泳禁止の看板、岸辺に並んだ杭の上に翼を乾かしているカワウ、古い桟橋の奥に俎板みたいな屋形船が互いに舷側をくっつけて三隻浮かんでいる。向こう岸には護岸に登って長い釣竿を立てているカラフルな人影。土手の向こうには定規で引いたような向島線の高架。

 遊歩道を北へ。道なりなので狭霧が僕の前に出る。白いスリップオン。彼女の弓なりの脚はいささか爪先を外側に向けて進んでいく。そう、これが狭霧の歩き方だ。踵の高さによって歩き方は変わるもので、パンプスの時はどうも違っていた。

「アパートは遠いの?」僕は訊いた。狭霧は10月から大学に通うのに合わせて一人暮らしを始めていた。

「イギリスの話?」

「そう」

「大学寄りだけど、車なら三十分かからないくらいだね。まあそれでも、私にとってワトフォードは特別なものになった」

「特別?」

「日々のものではなくなったってことだよ」

 今の狭霧は日本の家とイギリスの家とを平等に振り返ることのできる立場にいるのかもしれない。

「ワトフォードの家を出る時には前みたいな抵抗は感じなかった?」

「うん。感じなかった。だって三年しかいないんだよ。私はそこで生まれたわけでも何でもないんだよ。あの家にいたのはあくまでもあの家のための私なんだ。それを置いていくことは、確かに喪失かもしれないけど、あらかじめわかっていたこと、備えていたことに過ぎないんだ。そこには抵抗も拒絶もなかったよ」

「確かに喪失ではあった?」

「うん。と思う」

「それって何なんだろう」

 狭霧は前を向いて歩いたり、こっちを向いて後ろ歩きしたりしながらしばらく考えた。

「たぶん、習慣だよ。何時に起きて、順番に何をするとかさ。人間関係じゃなくて、ただ、その土地との付き合い方、身につけていた日々の習慣を私はそこに置いてきたんだ。たまに戻って一晩泊っても、もう以前と同じ感覚では動けないんだ。それはもう私の日常じゃないんだよ」

「その土地との結びつきが切れたってことだろうか」

「切れたっていうか、長くなったんだね。あんまりしっかりした結びつきじゃなくなったんだよ。ぐるぐる巻きにされていたものが、今はせいぜい糸一本っていうくらいにさ」

 イギリスの景色がどんなふうか、荒川沿いを歩きながらかなりまとまった話をした。ブリテンの内陸はもっと平坦なのであちこちを運河が結んでいる。水深は浅く幅は一定で、岸に曳き馬が歩くための護岸がある。馬の道が対岸へ渡るところでは、曳き綱が橋の上を越えて引っかかってしまわないように袂が羊の角のような形をしている。日本の水道は時代がもっと新しくて専ら用水目的、道としての役割は少ない。

「ワトフォードにも運河がある?」僕は訊いた。

「近くにはないな。ストーク・オン・トレントなんかに行くと波止場があってたくさん船が泊まっているんだけど。近くは川だね。土手にキツネの巣があって、あ、キツネって見たことある?」

「いいや」

「巣穴を掘ると堤防が脆くなって人間は困るって、埼玉かどこかの話を聞いたけど」

「初耳」

「そう? それでね、細い川なんだけど、河原が広くて、所々湿地になってるの。鳥を見る会の定番。カモもいるし、サギもいるし」狭霧は右手の枝で何秒か頭を叩きながら考えた。「ああ、日本語でなんて言うのかな。スナイプ、オスプレー、マーガンサー」

 僕も返事に時間がかかる。

「シギ、ミサゴ、アイサ?」

「ああ! シギとミサゴね」

 僕が答えられたのは全部誰かが飛行機につけた愛称だからだ。狭霧は鳥を観る会で名前を覚えたから和名を知らないんだ。それから僕は「北ワトフォード鳥を観る会」について訊いた。要はバードウォッチングクラブだ。

「観察会に参加してどれくらい?」

「十か二十回くらいかな。川へ行ったり、畑へ行ったり、森にも入ったね。フクロウを探しに夜の森へ入るのが一番わくわくした」

「夜だから?」

 狭霧は首を振る。「夜の森だから。なんというか――」と立ち止まる。「隠された気がするの。木の枝たちが私を囲って、その輪が私の周りと外の空間とを分断して、音も風も光も遮られて、その中に一人でじっとしていると、世界の何もかもから隠されているような気持ちになる。私自身ですら私がどこにいるかわからなくなるくらいに、そんな気持ちに。そういう感じを味わうためにみんなで足を止めて、息を殺して、持っている明かりを消すの。そしてその闇に耐えられなくなった人からランタンを灯すの。なぜ大勢で行くのかって、一人じゃそのあとで怖い気持ちから抜け出せなくなるからだよ」

 狭霧は道端にしゃがみこんで、草叢の根元がアスファルトの縁とせめぎ合っているところに手を伸ばした。ゴルフボールが落ちていた。地が白とは思えないくらい土がついている。元からそこに忘れられていたというよりは、河原に埋まっていたものを誰かが拾ってきてひとしきり遊んだあと、でも持ち帰るには気が引けてそこに放置した、といったふうだった。狭霧は手の中で揉んで乾いた土を落としながら歩いた。

 荒川は前方で左にカーブして、しばらく橋がないので左岸の街並みがよく見渡せた。空は相変わらず妙に白く霞んでいる。まるで誰かが空の上からドライアイスの欠片を振り撒いているみたいだった。

「そうだ、ねえ、鳥を観る会のお年寄りたちの話、面白かった? ミシロがきっと喜ぶだろうと思って書いてたんだけど」

「メールの?」

「うん」

「面白いよ、もちろん」

「あれって、わかってくれていると思うけど、私が聞いたのを随分整理して再構成したものなの。全然本人たちが言った通りじゃなくて、実際は全然あんなふうじゃないの」

「それはそうだろうね」

「だいたい、彼らにとっては場所と時刻が恐ろしく重要なんだよ。どこで話すか、いつ話すか。時刻というのは、何も一日のうちの何時何分というのじゃなくて、もっとピンポイントに人生のうちのある一点という意味だけどね、ちょうどぴったりその場所、その時刻にならなければ、それ以外の全ての条件ではこっちがいくら聞き出そうとしたところで駄目、どうしても緘黙しなければならないものなんだ。つまり、人によっては他に何ものの気配もない、音も光もない状況でなければ語らないし、人によっては床屋でお客の髪を切っている間にぽろっとこぼしたりするわけで、だいたいいつも私は『どうして今?』って思いながら聞き始めるんだ。でも最初が肝心で、できるだけ早く聞く体勢を作って聞き入らないといけない」

 狭霧はそこで話の筋を確認するくらいに間を置いて続けた。

「私はだいたい前のめりになって待ち構えているんだけど、それで、いざ話すという時になっても彼らは時系列通りには話さない。まずある一点を思い出して、そこから話が繋がっていく。とても断片的で、それって文章にしようとしたら並べ直されてしまう部分だけど、まだ手つかずの記憶を漁るための沈黙に同席することで、それによって私にもそれが用意されたシナリオではなく生の人間の記憶であるということが強く意識されるの」

 狭霧は続ける。

「本当に聞き入っていると、それはまるで私自身の記憶であるような、そんな感じがしてくるんだよ。それで意識を戻そうとすると、その時に見えているのは年老いた自分自身で、視点は私にあって、その記憶は私のものじゃない、他人のものなんだって思い出すことになる。それくらい彼らの記憶は鮮明で、質感があって、カラフルなんだ」

「それが本当に話を聴くということ、共感するということなんじゃないかな」僕は言った。「時間を忘れて、言葉と沈黙は等価で、沈黙の間に言葉を待つことはない」

「わかる?」

「僕自身はそんな没入した体験はないけど」

「私の書いたものにそんな機能はないでしょう? 文章にしたり、文章みたいに流暢な語りになってしまうと、特定の記憶を思い出す行程は省略されて、話すということの意味はだいたいが失われてしまうんじゃないかな。話し手と書き手が違うとか、言語が違うとか、そういう問題じゃなくて」

 僕は少しの間考える。

 完全な語りに共感する余地がないとすれば、それは語り手と聴き手の関係が一方的になるからだ。沈黙ならその不均衡が崩れて二人とも記憶を待っている。話す本人もまた自分の記憶の再生を待っているのだ。聴くという行為はただ聴覚だけのものではない。

 狭霧は綺麗にしたゴルフボールを足元に弾ませた。ボールは半分ほども跳ね上がらずにアスファルトの縁に向かって転がっていく。狭霧はまた屈んでポールを拾った。

「私はたぶん他人の話を自分に引きつけて考えることが余計に得意な人間なんだよ。だから時々自分がどこにいるのかわからなくなる。それはきっと昔も今も変わらない。生得のものなんだ」

「柴谷はでもそれを押して彼らの話を聞こうとした。あえて自分というものの揺らぎの中に身を投じていった。それは単に僕のためだけのことだったとは思えない」

「うん」

「だとして、なぜ、何のために」

 狭霧はしばらく背中を向けたまま歩いた。彼女の肩の上でしなやかな髪が揺れていた。

「僕はわかっていることをわざわざ訊いてしまっているのかもしれない」僕は再び先に口を開いた。

「私もそう思う。なんとなくわかってしまう。でもいいんだよ。言葉にすることに意味があるんだ。自分への問いかけと同じだ」狭霧は半分だけ振り返って答えた。「私はむしろ私の話を誰かに聞いてほしいんだと思う。とても真剣に聞いてほしいんだと思う。だから、誰かにこれくらい真剣に話を聞いてもらえたら満足だろうなってくらいのものを誰かにあげたいんだ。そうすることで私もそんなふうに聞いてもらえるかもしれないって期待を持ち続けることができるんだ」

「自分が欲しいものをまず誰かに与える」

「そう」

「僕は君の聞き手になれなかっただろうか」

「そんなこと言ってないよ。ミシロはよく聞いてくれるよ。でもいつもいつもそばにいてくれたわけじゃなかった。少なくとも、そばにいるってことを私は常に常に確かめていられるわけじゃなかった。遠くにいたからね。それは仕方のないことだ」

「なるほど」僕は慎ましく頷いた。

「うん。それでね、聞いてもらうということは、本質的に、存在を認めてもらうということなんだ。私の感じている世界を時間的空間的にすべて認めてもらうということなんだよ」

「老人たちの戦争体験には嘘や誤解が含まれているかもしれない。でもそれは彼らにとっては紛れもなく真実だった。少なくとも真実だと信じたいものだった」

「そう」狭霧はこっちを向いてゴルフボールをアンダースローで僕に投げた。僕はそれを胸の前でキャッチした。「ねえ、今度絹江さんと三人でゴルフに行こうよ」

「うん、いいよ。やったことないけど」

「大丈夫。棒が振れればそれで十分。打数なんて気にするな」

 JRの鉄橋をくぐり、堤防の道を図書館のところまで行って、そこから千住を南北に貫く旧街道を歩いて家に戻る。九月の祭になるとこの大通りが提灯と御幣でいっぱいになるのだ。千住の東半分をぐるっと回って一時間余り。歩いて回るのは僕も初めてで、結構足が疲れた。


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