饗応
昼はツナのホワイトソーススパゲティを作った。簡単だし時間もかからない。麺は少し減らして八十グラムずつ。クリームはレトルトではなく粉のやつを使うのがミソで、これが結構おいしい。
狭霧はキッチンには入らずに、椅子の背を前に膝で座面に立って僕の背中を眺めながら、質問したり、僕の質問に答えたりした。
「今日の飛行機って、ものはBAなの?」僕は訊いた。
「うん。添乗員もイギリスの人だった。あと機内食も。あんまり気にしないけど、やっぱり食べ物ばっかりは日航か全日空の方がいいよ」
「違う?」
「違う違う。今日の朝食なんかね、まっさらのマッシュポテトに、ソーセージと、それにこんな大きなマッシュルームの丸ごとソテーなの。それがワンプレート。味はいいよ、別に。でも色彩がね、緑とか、赤とか、ないでしょ。全く一色なの」
狭霧はマッシュルームのところでグレープフルーツくらいの大きさを両手で包んで表現した。大きなマッシュルームと言われて僕が想像したのはせいぜいシイタケくらいの大きさだったのでさすがに可笑しかった。
僕が換気扇を止めて器を持っていくと、狭霧は向かいの席に移ってジャケットを背凭れに掛けた。若葉色のワンピースはノースリーブだった。素肌は磁器みたいに白くて、そこはちょっと不健康だけど、華奢ながらふっくらした感じのある撫で肩の形のいい腕だった。狭霧の手についてはずっと前に感想を述べた憶えがある。彼女の肩から指先までの造形が僕はとても好きだった。改めてそう思う。左手首に銀色の細いブレスレットみたいな時計をしていた。
フォークとスプーンをそれぞれに、粉チーズ、クレイジーソルト、アンチョビソースの瓶を真ん中に置く。
「うん。なかなかおいしいよ」狭霧は二三口食べたあと言った。
「それはよかった」
「次は私が作ろうか」
「夕食はもう用意してあるんだ」
「なに?」
「……肉じゃが」僕はちょっと言い渋った。「日本へ帰ってきて一番に食べたいものってなんだろうと思って、手島模型のおやじさんに訊いてみたんだ。すごく妥当だと思うんだけど、昼から食べるのもどうかと思って」
「和食もするんだね」
「和の方が多いくらいかな」
「じゃあ、ずっと日本にいて食べたくなるものって?」
「え?」
「外国にいて故国の料理を食べたくなるんなら、故国にいれば外国の料理を食べたくなるのかなと思って。例えば、イギリス料理食べたい?」
「どうだろう……」
「嫌じゃないんなら食べてみてもいいかもよ」
ベランダのガラス戸は閉じたけれどカーテンは開けたままだった。日が差し込んでいるというよりも、床に空の白さが映り込んで鏡のようになっていた。そんな光の中で狭霧の肌は酷く真っ白に見えた。鎖骨の間や手の甲などは青白いといってもいいくらいだった。
「柴谷が僕に色々話してくれてから、僕の方でも色々考えてみたんだ。自分というものについて」僕は言った。
狭霧は口の中のものをじっくり焦らず呑み込んでから答える。「ありがとう」
「え?」
「難しいでしょう?」
「うん」
「自分が絶対なら変化する私との間に齟齬が生じるし、自分が変化するなら、それは不安定で、拠り所になりえない」
「つまり、柴谷狭霧という存在を永遠に定義する座標などないように思える」
「うん」
「そう考えると、不変というのは、本質的に、もはや活動していないものの……」
「そう。そうなの。それは死を示している。ひとつの生命の、あるいはその一時代の」
「だとして、不変を求めるものは全て死を求めなければならないのだろうか。いや、それは違う。それは違うと思いたい。なら、生きているものが変化を経ながらもそれそのものとして存在していくための鍵というのはいったい何なのだろうか。そんなものはあるのだろうか」
僕は席を立って調理台でペットボトルの烏龍茶をグラスに二つ注ぐ。狭霧は食事を止めて僕が何を持ってくるのか見守っていた。テーブルに置いたグラスを取る。
「僕に礼を言うのはどうして?」
「おかしい?」
「いや。でも訳がある。たぶんある。そういう言い方だった」
「そうだね。訳がある。私に共感してくれようとしたってことだから。あの時の私は、きっと、私と同じ水準で話を交わせる相手を切に求めていたんだ。でもそれはほとんど見つからなかった」
僕は机の下で手を組んでしばらく考える。
「僕自身にも考えることが必要だったんだ」
「人と話した?」
「何を?」
「自分について考えたこと、人と話した?」
「かなり」
「考えは変わった?」
「あまり」僕は首を振る。
「相手は?」
「あまり」少し悩んでから首を振った。「ほとんどの場合、結局のところ疑問は疑問のまま、謎は謎のままだったと思う。こういうことなんだよ、私はこう考えている。そう言われるとその時はなるほどと思う。感心する。でもあとあと振り返ると僕の考えはそことは少し違うところにあって、その人の考えのまま受け入れようとすると筋が通らないんだ。強いて言えばそれは手掛かりに過ぎないのだと思う。自分の考えていることはその人の文脈で言うとこの言葉で簡潔に表せるな、とか、そういうことなんだ。それはたぶんその人が考えているのとは別の意味、別の使い方になってしまうんだと思う。でもぼくはそれでしっくりきてしまう。そしてまた僕が語ったことも相手の中でそんなふうに消化されて、形がなくなって、その人の文脈の中で断片的にしか残っていかないんだろう、と」
「うん。それでいいんだと思う」
「それで?」
「議論して、考えが変わらなくても」
「ああ」
「言葉にして自分の考えの道筋を洗い出すことに価値があるんだよ。一人ではだめなんだ。そして私とミシロですら考えが一致してしまうことはないんだよ。私とミシロですらお互いの間には次元の狭間のような隔たりが横たわっているんだ。お互いの言葉を消化しなければならない。もし違ったら、ねえ、それはとても、とても気持ちいいことなのだろうけど」
狭霧がフォークを置く。器は全部空になっている。僕ももう少しだ。
「私、変わった?」
「この三年で?」
「そう」
「少し。でも、どこだろう。声の感じかな」
「声?」
「上手く言えないけど、ちょっと違った気がする」
「昔と今と?」
「僕の記憶と、今と」
「記憶の中の私と、今の私」
「そう。そうだよ。だけど、記憶だって、今のものだ」
「今のもの?」
「つまり――」
「つまり、現実の私と同じように、記憶の中の私もまた、三年という時間を変化した。そういうこと?」
「そう」
「ミシロが会って知った昔の私の延長上に記憶の私がある?」
「うん」
「まっすぐ?」
「うん」
狭霧はちょっといいことがあったような顔をする。それから少し考え直して、「現実の私にはもっと曲線や角があっただろうと思う」と呟く。
「まっすぐじゃなかった?」
「うん」
「記憶と実際と、乖離しているのは、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ、別に。だってそれは塔のようなものだから」
「塔?」
「指標のような、どこにいても、遠くにいても、見えるもの」
「動かないもの?」
「うん……、いや、それは地球が動くものかどうか、みたいなことだよ。理論の規模によっては捉えられるけど、感覚的にはしっかりしたもので」狭霧はいささか慌ただしく手を動かして説明した。「わかる?」
「うん」
「私自身では、ずっと客観的になったと思う」狭霧は落ち着いた調子を取り戻して言った。
「客観的に?」
「十五の私に対して。……なんというか、今は俯瞰している。一個の他者のように、私から切り離して」
「切り離して」
「完全にではないかもしれない、でも確かな仕切りをもって」
「今の自分を見るのと、昔の自分を見るのと、違う?」
「違う」
僕は首を傾げる。違うって、どんなふうに?
「後悔を消せるわけじゃないの」彼女は自分の首の下や襟元に指を触れながら答える。
「うん」
「だけどそれは、純粋に批判的になれる、というかね、刺すように胸が痛いとか、恥ずかしいとか、そういった感情の動きを伴わないものなんだよ。今の自分には手出しのしようがない、揺るぎない過去の映像のような……そう、例えば、フィルムやテープと同じ。そこに手を加えることはできても、映像が違うものになるだけで、現実が変わるわけじゃない。変えようがないものだということを、私は、渋々ではあるにしても、認めている。もしまっすぐのまま今の歳になっていたら、ここまで自分というものを客観できるようになったとは思えない」
狭霧は椅子を引く。食器をシンクに持っていく。「洗い物私がするね」
食器は狭霧に任せて、僕はテーブルを拭き、台拭きを洗うのは狭霧に頼んで、飾り棚からコーギーのワイバーンを下ろしてきてテーブルに置いた。絹江さんから渡された時にはケースがついていたけど、最初に飾ってからずっと外したままだった。あまり幅と長さにぴったりしていて、被せておくのが虐待みたいで嫌だったのだ。
「あ、懐かしい」狭霧が手を乾かしながらリビングに出てくる。「思ったより大きいね」と遠目に見てからテーブルに取りついて顔を近づけてみる。埃を被っていないか、日に当たって黄ばんでいないか。「綺麗に取っておいてくれたんだ」
「もともと綺麗だったよ」
狭霧はワイバーンのプロペラに息を吹きかける。
「あれ、ここ回転するようになってなかった?」
「回るけど少し重いんだ」僕は指で押してぐるぐる回す。
「ああ、なんだ」狭霧も同じようにする。
僕はソファに倒れ込んで、ひしゃげたクッションを手当たり次第に叩き直してやる。
「自分らしさという言葉が嫌いだ」僕はクッションを引っ張って空気を入れてやりながら言った。
「え?」
「あれ、柴谷が書いたんだ」
「もしかして、国語の自習の時の?」
「うん」
「すごくいまさらじゃない?」
「まあね」
「どうして?」
「今でも嫌いかどうか、聞きたい」
狭霧は食事の時の席に横向きに腰を下ろして背凭れの上に左腕を引っ掛ける。
「うん。まあ、嫌いかな。人間はその概念をあまり安易に使いすぎると思うんだ。いまだに。別に、私がそれを変えようとしたとか、変わることを期待したとか、そういうわけでもないんだけど」
「人間は?」
「というより、それに無頓着でいられる人間は、だよ。漠然としたままの自分に平気で縋ることができる。それが何なのか説明してみろとか、発揮しろとか、平気で言うよ」
狭霧は言いながら弓なりの脚を片方椅子の上に上げて膝を腕に抱える。目はその爪先やテーブルの縁に俯いている。
「私はそうじゃない。自分らしさというのはやっぱり難解だ。帰納法的に、脚の組み方が自分らしいとか、話し方が自分らしいとか、そういうのはわかるよ。妥当だ。でもそれは自分らしい要素の一つであって、一つに過ぎなくて、自分らしさ全体とは別物なんだ。全然規模が違う。一粒一粒が硬い粒子でも、全体が見えるまで倍率を落とすと、ふわふわして輪郭のないものかもしれない。それをきちんと囲って、きちんと決めてからじゃないと、本当のことなんてとても扱えないよ」
それからしばらく無言になって、熱心にワイバーンの主翼を指で撫でたり、裏返してパネルラインを爪でなぞったりしていた。
「自分らしさに無頓着でいられる人間たちはなぜ無頓着でいられるんだろうか」
「考えることを知らないか、考えられることを知っていてもあえて立ち入らないか、どちらかだろうね」
「一部の人々は自分らしさを自明のものだと思っている」
「その問題は考えていない人間にとっては簡単だし、考えている人間にとっては難しい問題なんだよ。考えれば考えるほど複雑に入り組んでいくんだ。顕微鏡の倍率を上げれば上げるほど細かなものが見えてきて全然空白が現れないのと同じだよ。まあ、人間の思考というのは往々にしてそういうものなのかもしれないけど。だから後者の人々はあえて覗き込まないことにしているんだ。そこに顕微鏡があるのは知っている。でもそれ以上倍率を上げる必要はない。それで十分だって」
「なぜそこで立ち止まれるのだろう」
「好奇心の限界、あるいは、時間の制約」
「時間の制約?」
「動き続けて、それが自分の精一杯だと思うなら、その生き方をもって自分らしさに対する答えに代えることができる、ということだと思うの。簡単に言うなら、忙しい人はそんなこと考えている暇ないでしょ、ということなのね。でもそういう生き方って、もっと現実的な見返りによって充実を得ることができるでしょ。私はそれを別に卑下するわけじゃないの。そういう生き方もあるだろうし、よほど安定した生き方だと思うの。でもその充実を奪われた時、そこに立ち止まるための足場はないよって、私はただそれが不安なだけで」
僕は尾上先生のことを思い出した。何のために生きるのか、と僕が訊いた時、先生は家族のためだと答えた。子供のためだと答えた。先生は彼らに対する生き甲斐によって存在を確定されているのだ。あるいは何かしらの競技に打ち込んでいる人間なら、人生をかけてその競技と自分の素質に向き合うことによって自分らしい在り方に到達できるのかもしれない。狭霧が言っているのはそういうことだろう。
「私は自分らしさを自明のものだと思っている人たちの方が存在として強靭だと思うんだ。それにはとても具体的な拠り所があるわけだからね」
「僕らもいつか歳月を経て、忙しさの中でそういった人間に変わっていくんだろうか」
「それは嫌だな」狭霧は苦笑いした。ワイバーンを持ち上げて腹の下を覗き込んでいた。
「僕も嫌だ。ねえ、これは単なる驕りなんだろうけど、僕らはいま人類の哲学の先端に立っているような気がするんだ。どんな高名な哲学家もこんなに深く自分について考えたことはないんじゃないかって気がしてるよ」
「先端というか、末端だね。木の枝のようにたくさんの方向性があって、その中の一つの先端というなら、確かにそうだと思う」
「いい気分だ」
狭霧は頷いた。それから椅子を立ってひとしきり膝と足首をほぐし、和室の方からリビングを出ていく。
ワイバーンはテーブルに残されていた。棚に戻すかどうか少し迷って、でも狭霧のことだからそれは残すべくして残したのだ。忘れたわけじゃない。そのまま出しておくことにした。
饗応っていうのはその土地の食物を食べて順化することをいうわけですが、ここでは狭霧が昼食を経て「僕」と噛み合った話ができるようになっていくわけです。
あと狭霧の言葉に注目してほしいんですが、女言葉をあんまり使わないのです。中性的なんです。むろん敬語もないし、そのせいで「僕」が喋ってるのか狭霧が喋ってるのかわかりにくいというところはあると思うんですけど、それはそれでギミックとしてありかなと思います。