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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
124/132

怪獣ウナギ

 検問を通って改札の前で切符を買う。千円札が券売機に吸い込まれ、じゃらじゃらお釣りが落ちてくる。ホームに下りて終点寄りの端へ歩く。立ち入り禁止の柵まで、ホームの長さの分だけきっちり明るく、そこから外側は全くの闇が地底まで伸びている。照明たちはあくまで自分の管轄に厳格だった。

 僕と狭霧はドアの位置を示すシールの上に並んで立って電車を待った。他の客は近づいてこない。シールは右も左も空のままだった。何なら向かいのホームにも人影は現れなかった。僕は狭霧のことを考えた。彼女の存在が遠くにあるのが当たり前だったせいで僕の意識は一度イギリスまで飛んでいった。でもそこには狭霧はいなかった。狭霧はここにいるのだ。いま僕らの肩と肩の間には何の空間的隔たりも、時間的隔たりも存在していない。この距離に僕と狭霧が共存している。それが現実だと受け入れられるまでに僕はずいぶん時間を費やしていた。でもそれは狭霧の方も同じだったかもしれない。僕らはまるで出来のいい映画でも見ているみたいに視線をじっと正面に据えて黙っていた。

 その沈黙を破るのは結局外的刺激だった。ごうごうと滝のような音を立てて列車が近づいてくる。まるで真っ暗な洞窟の中を流れている滝のようだ。レールの軋み、ヘッドライトの反射。向かいのホームにJRの成田エクスプレスが入ってきて、先頭車両がずっと遠くまで伸びていく。特急十二両に合わせたホーム、同じ長さで京成の方は八両が前後にぎりぎり二本入る。ルートによって運賃が違うのでホームの真ん中に柵があるのだ。

「怪獣ウナギの寝床みたいだね」と狭霧は言った。「昼間は誰も知らないトンネルの秘密の分枝に潜り込んで、溜まった水の中で目の見えない深海魚たちをむさぼり食べてるんだ」

「怪獣ウナギは目がいいのかな」

「視力はいいけど、暗いから何も見えなくて、代わりに魚たちが動く時の微妙な磁場の変化を感じ取って獲物を追いかけるんだよ」

「見えないけど、見ている」

「そう」

「なるほど」

 ホームの向こうの端に立っている警察官が青い餌粒みたいに見える。

 帰りの電車もやはり空いていた。一番後ろの車両には他に一人も乗っていない。僕らと一緒に乗り込む客もなかった。端の乗務員室に車掌さんがいるだけだ。車内を眺めながらアナウンスをして、時々内窓を開いて客室の気温を確かめる。それでも僕らに関心を向けるような気配はない。こちらは仕事で、君たちの方は違う。こっちとそっちは別々の世界だ。お互い干渉はしないでおこうじゃないか。そんなふうに。

 最初僕らは端のドアと二番目のドアの間のベンチに並んで座っていたのだけど、電車が地下を出る頃になって狭霧は荷物を持って向かいに移動した。トランクが転がっていかないように倒して、衝立の横にぴたりとつけて置く。二人の間に深い川のような避けがたい隔絶が置かれる。けれどその方がお互いの姿はよく見えた。額から足の爪先までよく見えた。

 とはいえ狭霧はあまり僕の方を見ていなかった。壁の上に貼られた広告を一枚一枚じっくり読み、時々僕の肩越しに景色を眺め、自動音声の放送が入ると天井のスピーカを見上げた。それから車掌室にちょっとだけ目を向ける。どうも頭を日本語に慣らしているみたいな様子だった。

 車内の空気はガラスの箱にぴったりと収められた置物のように安定していた。照明は消えて窓から差し込む自然光が全てだった。日向と日陰のコントラストも判然としない。時折防風壁に遮られる景色は平たい田んぼとこんもりした雑木林を繰り返している。カーブ。レールの傾斜で吊革が振れる。狭霧はシートの縁に手を下ろして、ピロードの擦れていない、まだ毛足の長いところをゆっくり撫でている。

 彼女はふと自分の髪に手をやる。

「あ、ねえ、私の髪、少し見ておいて」と体を折って頭を僕に近づけた。声が届かなくて耳を近づけた、といったふうにちょっと首を傾げる。「ちょっとパサパサでしょ」

「硬水だから」

「そう」狭霧は姿勢を戻して、毛先の方を指に取って自分の顔の前に持ってくる。「一遍こっちの水で洗ったら、明日にはずっとよくなってると思うの」

 狭霧はそう言ってみてから首を傾けて、何か嫌なことでも思い出したみたいに顔を顰めた。鼻筋に皺が寄る。

「ねえ、言おうと思って用意しておいた話って、タイミングがとてもシビアじゃない?」

「かもしれないね」

「話の流れとか、間合いとか、そういうのが完璧になる瞬間を狙い澄まして言わないと上手く話せないような気がして」

 僕は頷く。

「今回はさ、できるだけ多くのことをミシロと話したいと思ってるんだよ」

「僕もだよ。柴谷と話したい。なんでも」

「いままで思いついたことを、できるだけ多く。でも全部は無理だ。何割かは忘れちゃった。私自身のその時の興味がどこかに行ってしまった、というか。忘れてしまうってことは、大したものじゃないんだろうけどね。わざわざメールで訊かなくてもいいやって思うくらいのものだったんだろうけど」

「勿体ないよ」

「うん。時間を無駄にはできない」

「時間ならたっぷりある」

「ううん。それはね、私がここにいられる時間ということじゃなくて、人生の時間が」

「人生の」

「私ね、自分が昔ほど深く考えることがなくなったなって思う時があるの」

 狭霧は両足を拳二つほど進行方向に置き直して体をそちらへ向けた。後ろの窓枠に手をかけて自分の肩越しに外の景色を眺める。

 電車が鉄橋に差しかかった。沼を越えるのだ。窓にトラスの影が走る。視界が点滅した。水面に霧が立って、その向こうに山や林の影が墨のようにぼんやりと浮かんでいた。ほの白い空気が窓ガラスを浸透して客室の中まで満ちてくるような感じがした。

「十四か十五か、それくらいの頃に書いた日記だとか気づきのメモを見返すとね、なんて鋭い見方なんだろうって思うものもあれば、何でこんなことで考え込んでいたんだろうって思うものもあるの。怖いのは後者だよ。今いくら取るに足らないこと、恥ずかしいと感じるくらいのことだって、当時の私は真剣だったし、それだけ鋭敏な感性を持っていて、一方の今の私にはそれがないってことだから」

「これからもっと感覚や思考が鈍っていってしまうかもしれない」

「そう。失っていくんだ。きっと今のこの気持ちも。そういう意味だよ。時間がないって。議論できるうちにしておかなければ」

 狭霧は脚を組んで、上になった方のパンプスを踵だけ抜いて爪先に引っ掛けて揺らしていた。

「歳月は哲学的な恐怖からの解放でもあるのかもしれない」

 人間は考えるのをやめることで哲学的な恐怖から解放されて生きていけるようになるのかもしれない。それは単に歳月であり、世界を都合よく捉える機能の会得であり、忙しさが齎す無感覚でもあるのだろう。


 青砥で乗り換えた上野行きはそれなりに人が乗っていた。ドアの横に荷物を置いて銀色の支柱に掴まっておく。狭霧は路線図を見上げ、「三つ目?」と口の形で訊く。僕は頷いて、堀切菖蒲園を過ぎたところで同じように無音で「次」と言った。

 最後尾の車両に乗ったので降りると屋根のないホームの端っこだった。大気はまだしんと冷たく、空は朝から変わらず霞んでいて、裏側で太陽が高くなったので雲の薄いところと厚いところで暗さが斑になっていた。

 車掌さんが鋭く笛を鳴らして、電車が行ってしまって、ホームに人気がなくなるまで狭霧はフェンス越しに辺りの景色を眺めていた。次の便を待つ客がぽつぽつ階段を上ってくるくらいだった。

「あの高いの?」狭霧は僕の住んでいるマンションを指差した。

「うん。部屋があるのはずっと下の方……」なぜ見てわかるのだろう。

「年賀状。住所があったでしょ」

「ああ」

「降りるのは初めて。神奈川に帰る時はいつも通過で」

「じゃあ、ここを通るんだ」

「新しいスカイライナーになってからはね。一回忌と二回忌はJRだから、ここは通らなかった」

 階段を下りる。狭霧の切符は改札機の中に消える。

 それから家に入るまで彼女は歩きながらマンションの高い一棟を何度か見上げた。キリスト教圏の街には大抵真ん中に聖堂があって、域内のどこに居てもその尖塔が見えて方角の目印になるという、そんな感じだった。

 エントランスのセキュリティを抜け、ポストを確認してエレベータに乗る。

「お邪魔します」と玄関の敷居を跨いで、トランクはひとまず土間に置いたまま、パンプスを脱いで床に上がり、古い祈りのポーズのように両手を上に向ける。手を洗いたいということだろう。僕は脱衣所に案内して明かりをつけた。狭霧は石鹸で手を洗い、両手に水を汲んで二回うがいをした。それはとても習慣的な動作だった。僕も同じように手を洗い、うがいをした。

 狭霧はタオルで念入りに手を拭い、その手を僕の首元に押し当てた。僕が後ずさりして壁に背中をつけると顔を近づけてキスをした。僕が唇の感触を確かめるより先に狭霧は僕の口の中に舌を差し込んだ。押し込んだといってもいい。その舌は長くしなやかに難なく奥歯まで届き、怪獣ウナギのように僕の口の中でのたうち回った。僕は自分の口の中でその舌の肌合いを確かめ、頃合いで押し返して狭霧の口の中に舌を入れ、最後にまた狭霧の舌を僕の方へ引き込んだ。僕は二匹の怪獣ウナギをイメージした。あるいは彼らにも大きい個体がメスになるルールがあって、若いうちはオスでもなくメスでもない中性なのだろうか。その間僕は狭霧の肩と頭の後ろに手を当てていた。狭霧は僕の鎖骨のあたりに手をかけていた。

 唇を離したあと狭霧はその手を僕の耳の下に移してひとしきり髪を触った。

「ミシロ、綺麗になったね」

「そう?」

「うん。なったなった」

「柴谷も綺麗だ」僕は返した。「綺麗になった」と言ってしまうと「変わった」と言うのと同義の気がして憚られた。「僕は肉体的に柴谷のことを求めていたんだろうか」

「求めていたの?」

「それは少し違うと思う。求めていなかったと思う」

「私は求めていたと思う」狭霧は目を伏せた。「でもそれは性欲を伴うものではなかったと思う。ただ触れたいと、強くそう思っていた。ねえ、なぜ遠く長く離れるほど再会した時に近く近く近づきたくなるんだろう」

「触れ合う方がここにいるという事実を具体的に感じることができるからじゃないだろうか」

「体がそこにあれば、存在自体も接していることになるのかな」

「どうだろう。でも一つの感覚だけを頼るのは誤謬を招くかもしれない」

 狭霧はそれから首に沿って手の位置を下げ、僕の肩を舐めるようにさすった。その下にはかつて彼女につけられた傷があった。それはおそらく一種の慰撫だった。

 狭霧は離れてひとつ大きく息をついた。

 僕は明かりを消して廊下をリビングへ歩く。口の中を確かめる。でもそれはあくまで普段の僕の口の中の感触だった。誰か他人の舌が怪獣ウナギのように這い回ったあとの痕跡や違和感など全くなかった。

 狭霧はガラス戸を開いてベランダからの眺望を確認した。軟らかいシャーベットのような奥行きのない薄白い空の下にちょうど灰色の街並みが広がっている。

「目の前が川なんだね」狭霧は命知らずみたいに大胆に欄干に寄りかかって体を乗り出す。川の水も護岸のコンクリートと同じ色だった。

「隅田川。夏には花火も見える」

「ああ、方角は?」

「だいたい真南かな」僕はベランダ正面から少し左を指す。

 狭霧は風に髪を押さえながらその方向を遠くまで眺めて、隅田川の流路を目で追って足元を見下ろすところまで戻ってくる。

「隅田川の水源は」

「甲武信ヶ岳。埼玉、山梨、長野の県境。そこは荒川の源流でもある。隅田は荒川の分流だから。二つの川が分かれたところから、水道で繋がったところまでが千住なんだ」

「囲まれてるんだね。それがこっち側?」

「そう。江戸ができる前は二つの川はもっと複雑に絡み合い、大雨の度にうねるように流路を変えながら流れていた。徳川が開発のための治水をやって今の形に近づいた」

 多少風がある。藻の匂いのする風だ。川の流路に沿って下流から上流に向かって吹いている。あまり気持ちのいいものではない。僕はガラス戸の桟のところで戸枠に手を伸ばして立っていたが、カーテンを押さえて狭霧を呼び戻した。

 僕がコートを脱いでいる間に狭霧は椅子に置いた鞄から掌大の円盤を二つ取り出した。プラスチック製らしい。テーブルに置くと乾いた音がした。コースターだ。表にRAFミュージアムの文字が入っていた。

「色々あったんだけど、軽くて嵩張らないもの」狭霧はテーブルの角に手を突いて一枚を顔の前に翳す。「こういう国籍マーク、ラウンデルっていうんでしょう?」

 真ん中に小さくマークがプリントされている。

「ジャノメって訳していいもの?」

「イギリスのはね」

「他の国は?」

「あんまり言わないかな。ジャノメって言ったら、大抵はイギリスのだね」

「ふうん」狭霧はコースタをテーブルに置いて、もう一つ小さな紙袋を持ち上げる。「深理さんには紅茶を買ったの。紅茶飲む人?」

「……うん。よく飲むと思うね。食器棚にティーバッグのどっさり入った箱があるんだ。きっと喜ぶよ」 


 深理さんとのセックスシーンを直している時に気づいたんですが、キスには性別が必要ないんですよね。性別の組み合わせにかかわらず両者がオスとメス両方の役割を担うことができる。ここでは「僕」と狭霧が中性的な関係を約束しているわけです。またそれによって狭霧との関係性を深理さんとの関係性と差別化してもいる。

 あとここで「僕」が狭霧のことを久しぶりに「柴谷」と呼ぶことに違和感を覚える読者もおられると思います。その感覚はまっとうで、たぶん「僕」自身の感覚でもある。狭霧と呼んでしまいたいけど、柴谷と呼ぶことにこだわっている。昔の呼び方を変えたくないわけです。変わってはいけないという思いがそうさせているのは読み取れるかと思います。

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