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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
アイデンティティ・プロトコル
123/132

狭霧を探し出す



努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。

 ――『人間の土地』



 霧雨が降ると、ああ、今年も春が巡ってきた、という感じがする。

 乾いた布に雫が落ちて一回り色を濃くするみたいに、褪せた景色に細やかな雨の群れが浸みこんで、地表に覆ったモノクロームの被膜を溶かそうとしている。

 空はまだ暗い。目の奥を絞られるような弱い頭痛があった。ゆっくり朝食を食べ、新聞を読み、念入りに髪を梳かして、鏡を見ながら服を選ぶ。いつも通りに家を出て、カラスたちが煩くたむろする路地を抜け、関屋の下りホームに上がる。こちらは空いていて、向こうは混んでいて、普段なら僕は向こう岸であの列に並んでいる。

 違和感。

 今ここにいるのが他でもなく僕なのだと認識できるまでいくぶん時間がかかった。だとして、それをそれとして認識するまで僕は自分自身を何だと思っていたのだろうか。そう思って思い出そうとした時にはすでにその時の感覚を忘れてしまっている。いつもそうだ。

 僕は学校へ行くわけじゃない。三年生は一月から自習期間に入って通常授業はないし、大方の入試が済んだ三月はイベントとして予餞会と卒業式を残すのみで、学校にいるのは部室でゲームでもしたい連中くらいじゃないか。実質春休みだ。引っ越しの計画を立てるやつもいれば、早々に大学の部活に顔を出している奴もいる。海部は希望の防衛大に合格したと言っていた。自分から僕に報告してきたってことはきちんと覚悟を決めたんだろう。悪くない。それから、羽田も大丈夫そうだ。こちらは直接聞いたわけじゃなくて、いくつ合格を貰ったかクラスの女の子に話しているのを耳にしただけだから、詳しいことはわからない。

 十一月に安中へ行った後から狭霧とはそのことで何度かメールをやり取りして、僕の受験終わりと彼女の予定を軸に深理さんの都合を見て日程を組んだ。チケットはかなり前々から取っていたようだけど、便と到着時刻については数日前にメールが届いたばかりだった。


 やった。本当に泊っていいの?

 前のメールでは無理を言って悪かったなと思っていたんだけど。

 一人暮らしを始めたと聞いた時からきっと素敵な家だろうと想像していたので楽しみです。

 飛行機は成田に三月五日朝着の便です。

 便名はBA005,あるいはJL7080

(ブリティッシュ・エアウェイズと日本航空のコードシェアです)。

 順調にいけば到着は九時過ぎかな。


 電車は空港に近づくとすっかり地下のトンネルに潜ってしまった。僕は終点ひとつ前の駅で降りて第二ターミナルに上がり、奥の壁に取りついている巨大な到着掲示板を見上げた。試験結果の貼り出しみたいに便名や航空会社や状況が示されている。JL7080.八時四十五分到着。五分前に到着していた。定刻より二十分も早い。到着ゲートの向こう側にはまだ大勢の人影が見えた。人の流れに逆らってゲートに近づき、フェンスに掴まって狭霧を探した。血に飢えたエージェントのように大勢の顔を一つずつ瞬時に判別していく。違う、違う、これも違う……。

 少し不安になってくる。

 とうとうゲートに押し寄せる客の波が収まってがらんとしてしまった。僕がゲートの番号を間違えたのだろうか。それとも飛行機の方が別のスポットに入ったのか。振り返ると無事に合流できたグループがちらほら談笑を続けていた。到着ゲートの奥に目を凝らす。ずっと奥の預入れ荷物の引き渡しも空いていた。

 それが狭霧探しの長い徘徊の始まりだった。まずロビーの端から端まで外国人の集団を掻き分けながら壁に沿って往復し、それでも見つからないのでゲートの見えるベンチに座ってメールを打った。返信を待つのと休憩を兼ねてしばらくそこで座って待つ。飛行機が到着すると色とりどりの客が一筋の流れになって歩いていく。僕はその度に狭霧の姿を探す。もちろん見つからない。ハワイやシンガポールからの便に乗っているわけがない。

 少し待って返信がないので再び歩く。駅の改札前まで戻って構内を見渡し、ターミナルの上の階も回った。時々同い年くらいの女の子たちと目が合ったけれど、みんな見られていることにぽかんとするばかりで、はっとしたり、難しい顔をしたり、そっぽを向いたり、つまり僕を知人として認識したような反応はなかった。

 もし僕の目が狭霧の姿を見分けられなくなっていたとして、それでも、僕を待っている彼女と、それ以外の、待ち人のない誰かとでは、人探しをする人間の目に返す視線が違っているのだから、それで見当はつけられるはずなのだ。あとは足の運び方や背中の姿勢の感じ、そういった仕草を見ればいい。狭霧はちょっと男勝りな歩き方をする。恐いのはただ彼女が待っていないことそれだけだ。

 また一息入れて落ち着こう。冷たいコーヒーを買ってロータリーに出る。外は風があった。冷たい風だ。不安に駆られながら歩き回って体が熱くなっていた。コートの前を開き、シャツの裾を仰ぐ。汗が飛んで肌が急激に冷やされる。今度は寒い。上を向くと屋根の向こうに白い空が見えた。飛行機は南から着陸し北に向って離陸している。タービンの音が大きく聞こえる。ファンが空気を掻き混ぜるばりばりという音が空気そのものに反響して、まるで自分がエンジンの中に吸い込まれたみたいに感じる。

 外は寒いし鼓膜が死にそうだけど、その分人間の寄りつく場所じゃないという感じがして、屋内で人波の圧力に屈して焦らされているよりはよっぽど気持ちがよかった。

 なるほど、そういうことかもしれない。

 さっさとコーヒーを飲み干して建屋に戻り、エスカレーターを上がって四階の展望デッキに出る。ドアを開け、立ち止まって目の届く限りをスキャンする。でもそんな必要はなかった。こんな寒くて風のある日に、雨の降りそうな空の下で見物をしている人間は他になかった。彼女はベンチで上を向いて額に携帯電話を乗せている。それは何か祈りの儀式のように見えた。扉の音に気付いて右手で電話を下ろし、こちらを振り向く。不安な、相手の次の行動を注意深く見守る目。

 静かに立ち上がって、何か言う。唇と喉が動く。でもその声は聞こえない。ターボ・ファンの振動が空全体を覆っていた。彼女は言い終えた後も視線を逸らさずに僕が近づくのを待っていた。距離が縮まるにつれて彼女の容姿の細部が見えてくる。

 薄く化粧をしている。髪は長い。腰にリボンのついた白いジャケットと桜の葉のような明るい緑色のワンピース。黒いピアノ調のパンプス。トランクを足の横に置いて、伸ばしたハンドルにベージュのサフィアーノを掛けている。

 変わったな。裏切りみたいだ。僕の中にあった彼女の像と、実際の彼女の姿とは、精密に見ればほとんど重なるところがなかった。同じ存在と認識しうるぎりぎりのところだ。

 僕の想像していた狭霧と目の前の狭霧とが同一の連続した人間だと信じさせるものはいったい何なのだろう。それは簡単な問題ではない。それはただ物質的な不変の要素かもしれない。たとえ歳を重ねて、化粧をして、髪型を変えて、太ったり痩せたりしても、骨格や指紋や血管の網の形は変わらないのだろう。けれどそれでは結局物質的に同一という以上のものにはならない。僕の感覚では捉えきれないほど微細な条件になってしまうかもしれない。つまりいくら詳細でも姿が部分的に共通しているだけでは駄目なのだ。もし狭霧が僕の存在を認めなかったら、僕の方を振り返らなかったら、僕はその人間をただ疑ってみるだけで狭霧だと気づくことはなかったかもしれない。僕の存在に反応することなく静止したままの人の肉体の造形だけで彼女を識別することはできなかった。僕を僕かもしれないと疑う彼女の仕草が僕の認識の中で彼女を彼女たらしめる。僕の反応を見て彼女も確信する。結局それは相互作用なのだ。反射なのだ。一方の記憶や認識が欠けてしまえば元通りに通じることはなかった。

「柴谷」

 僕が呼ぶと、狭霧は何度か微妙に頷いた。なんというか、僕の呼びかけに七十点をつけるみたいな、ちょっと仕方のない頷き方だった。

 それから狭霧は展望デッキを囲む高いフェンスの向こうへ視線を外した。駐機場とその奥に滑走路が広がっている。敷地の端にある誘導用のアンテナのあたりから空気が霞んでいる。

「二十三羽」と狭霧。

 何のことか訊き返しそうになったけど、誘導路に囲まれた芝生の上にカラスの黒いシルエットが集まっていた。誘導路は滑走路や駐機場の間を網目に接続している。ちょうどカラスが集まっているところの二つ隣の誘導路を中型の旅客機がエンジンの回転を落としてターミナルビルに向かってゆっくり進んでいた。

「あれ、二十四かな」と再び狭霧。

 狭霧はあえて僕のことに集中しないでいるようだった。この距離を貴重なものにしたくないのだ。長く遠い隔たりが人間の接触を稀有にする。そこに感動を与える。そういった変動を、だからこそ彼女は拒む。平静でいたい。

 僕は仕方なく狭霧の隣に立って芝生の上のカラスを数えてみた。誘導路の番号を示す看板の上に乗っているやつもいる。だいたい二十羽、あとは途中でふざけて隣の敷地へ行ってみたり戻ってみたり飛んでしまうのでよくわからない。

「飛行機に慣れてるよ」と僕。

「痛い目に遭ってたら、そういう鳥だから、周りの連中も飛行機を避けるだろうけど、巧く付き合い方を覚えたんだろうね」狭霧はフェンスの向こうに目をやったまま言った。

「飛行機が自分には関心を持ってないってわかってるんだよ。ちょっと注意しておけば危ないものじゃない。無害で」

「ほら、横を通っても逃げない」

 狭霧はカラスを眺めているのが本当に面白いみたいだった。

 誘導路から駐機場に入った全日空の大型機が黄色い線に沿って進んできて、マーシャラーの誘導で僕らの足元のスポットに入った。宙に浮いた橋が蟹の腕みたいに動いて飛行機の胴体にくっつく。操縦席の暗いガラスの中に操縦士の白い手袋が見える。思わず手を振ると少し遅れてガラスの中で四つの手袋がひらひら揺れた。自分から振っておいてなんだけどちょっとびっくりした。狭霧も横で真似をする。

 手袋が見えなくなる。そろそろ行こう。フェンスを離れ、狭霧はトランクの上に乗せていた鞄を肩にかける。

 僕はトランクを引いてやろうと思って手を差し出す。

「私の手、冷たいよ?」

「うん?」

 真剣なのかわざと誤解したのかは表情を見てもわからない、狭霧は僕の手を両手で掴んだ。

「うわ、冷たい」

 長い間寒さの中で待っていた彼女の手は当然芯の芯まで冷却されていたわけで、僕はちょっと悲鳴を上げた。

「だから言ったじゃん」

「言ったけど……」

「ミシロの手はあったかいね」

「歩き回ったからだよ」

 僕も両手にしてしばらく熱の交換をする。狭霧の手が温まり、僕の手が冷たくなり、そのうち均一の温度になる。

「鞄、持とうか」改めて訊く。

「いいよ。大したものじゃないし」

 僕は素直に頷く。「あんまり気を使わない方がいいか」

 きっと狭霧だって相手が彼氏だったら曳かせてやるのだろうけど、僕は彼氏じゃない。

「だね。私も気を付けるよ」

 こういう時って、久しぶりで距離感が掴めないからか、それともお互いの関係を過信して暗黙の了解が効いていると思ってしまうのか、訊かずじまい、言わずじまいの察し合戦みたいになりがちじゃないだろうか。それはあんまり面倒だ。僕も狭霧もそういう面倒には陥りたくないと思っていたわけだ。

「探したでしょ?」狭霧は改めて訊いた。

「相当」と僕。

「ごめん。でも感動の再会みたいにしたくなくて」

「いいよ。少しわかる」

 屋内に入って扉を閉める。するとまるでエアロックをくぐったみたいに大気の振動や冷たい風がぴたりと消え去った。

冒頭の引用はたしか各章が始まる前のまえがきみたいな部分からの引用だったと思います。だから章の名前が書いてないのだ。

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