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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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描かれるということ

「ミシロくんも絵を描くの?」後ろから唐突にヒカリが訊いた。

「どこへ行ってたの?」僕はびっくりしたせいで質問されたことを全く忘れて別の質問を被せた。

「母屋だよ。ねえ、ミシロくんも絵を描くの?」

「一応ね。でもどうしてそう思うの?」

「鞄に自由帳が入っているから」

「よくわかったね?」

「何か描いて」

「何がいい?」

「なんでもいいよ。――椅子、使ったら?」

 僕は振り向きに白州さんの椅子を見下ろして、ちょっとためらう。でもヒカリが腕を組んで待っているので仕方なく座ってやる。

「好きな動物は?」僕は訊いた。

「シカとイノシシは嫌い。あとは平気」

「平気と好きって違うんじゃない?」

「好きなものを訊かれるのが嫌いなの」

「気難しいんだね」

「きむずかしいって?」

「複雑ってこと」

「誰が?」

「君が」

「ヒカリが?」

「そう」

「何でもいいんだけどな。今、頭に思い浮かんだもの」

「うーん、特に思い浮かばないや」

「ミシロくんは、何かを想像したり、考えたり、しないの?」ヒカリはとても不思議そうに目を丸くして首を傾げた。

「そういうわけでもないよ。だけど今は描けそうなものについて考えてないんだよ。じゃあ、この森にはどんな生き物がいるの?」

「なんでもいるよ」

「ヘビはいる?」

「いるよ」

「みたことある?」

「ある。このあいだうちにヤマカガシが出たの」

「さっきヘビを見つけたんだけど、ヤマカガシかな?」

「どれくらい?」

「こんなもんかな」

「どこにいたの?」

「道端の水たまりから出てきて、道を渡って、山を下りて行った」

「じゃあそうかも」

「うちに出たって、怖かった?」

「別に。ヘビの方が人間を見て驚いてるみたいだった」

「大人しかった?」

「うん。ミシロくんは怖いの?」

「少しね」

「なぜ?」

「咬むから」

「他の動物だって噛むよ」

「そうだね。よく考えてみたら確かにそうだ」

「知らなかったの?」

「知らなかったわけじゃないよ。だけど、それはちょっと違うことだったんだよ。なんというか」

「わかんない」ヒカリは首を振る。それから首を伸ばして離れを見下ろす。「二人は何をしているの?」

「白州さんが絵を描いてるんだよ」

「どうして?」

「彼女を描いていて、描き残した絵があるんだ」

 僕は白州さんの椅子に座って描く。五分くらいで描いた。

「はい、ラフグリーンスネークだよ」

「わあ、ヘビだ」

「ヘビだよ」

「どこに住んでいるの?」

「南アメリカのジャングルと、それからペットに行った世界中の人間の家に住んでいるよ」

「ここにも居るの?」

「この山にはいないだろうけど、近くの人の家にはいるかもしれない。爬虫類好きのご近所さん、いる?」

「うーん。学校にはいる。でも家は近くない」

「そう。その人の家には、もしかしたら、いるかもね」

「山に入ってみたい?」

 僕はヒカリを見る。「まあ」

「てっぺんまで行ったことはないけど、たけのこ掘りに途中まで上がるの。道がないから一人じゃ登れないよ」

「危なくない?」

「どうして?」

「雨が降ったから、草は滑るし土はぬかるむよ」

「国語の授業みたい」

「え?」

「草は滑り土はぬかるむ」

「ああ」僕はちょっと笑う。「それって前にも誰かに言われた気がする」

 いつの間にかイーゼルの下にソルベルグが座って顔を洗っていた。僕らが歩き出すと起き上がってついてくる。

 ハンモックのところを過ぎて木々に分け入る。なんとなく鳥居をくぐって神域に入るような気持ちになる。ちょっとした緊張だ。全身にきちんと神経を巡らせて一歩一歩下手をしないように意識する。最初は木段が斜面をじぐざぐに登っている。それが一往復すると全く未開の原野になる。

「ズボンが濡れるかもよ。あ、同じところを踏んで歩いて。古い罠が残っているかもしれないから」

ヒカリは背丈ほどある長い枝を拾ってストックのように持ち、自分の一歩先の地面をその度若い漁師が水面を銛で突くように力を込めて突き刺しながら傾斜の向きにまっすぐ登っていく。ヒカリ、ソルベルグ、僕の順。薄褐色になった下生えが脛や足首を濡らす。若い杉の幹に赤いすずらんテープが巻きつけてある。ヒカリが立ち止まって地面を指差す。

「見て、イノシシの糞」

 草や落ち葉の間に黒くころころしたものの塊と破片が落ちていた。糞自体は乾いていて匂いはない。辺りを見回す。ガビチョウとコジュケイの鳴き声以外に生き物の気配はない。罠を踏まないように足元を確認してから一歩踏み出し、また辺りを見回す。さっき木の陰にあった方角を見通す。何もいない。

「新しい罠はないの?」

「ソルベルグが怪我をすると嫌だから檻に替えたんだ。外せるものは外したけど、本当に古いものは残っているかもしれないから」

「この辺りにイノシシが入ってきたところで、特に荒されるようなものはない気がするけど、畑の周りに柵を張るだけじゃだめなのかな」

 ヒカリはしばらく答えずに登る。がしがしと地面を突き刺す。ソルベルグはきちんとヒカリの足跡を辿って踏んでいる。彼女の口振りからすると過去に痛い思いをしたことがあるのだろう。

「これは結界なんだって」

「結界?」

「この向こうは人間の世界だって警告しているの。危険なものでないと、柵は邪魔なだけだから、壊せば向こうへ縄張りを広げられるけど、罠はそうじゃないの。イノシシが自分の中で決めている縄張りそのものを押しやることができるんだって。だからこの辺りはイノシシの縄張りと人間の縄張りのグラデーションなんだよ」

「汽水だね」僕は気付いたことを言った。

「きすい?」

「真水と海水の混じり合う領域のこと。海に注ぐ川の河口にはだいたいその区間があるんだよ」

 何度も滑落しそうになりながら斜面を上っていくとやがて竹林が見えた。昔の耕地なのかその一角だけ太い木がなく竹が茂っている。ソルベルグはぶるぶる回転して毛に付いた水滴を振り飛ばす。視界は東向きで右手下に家の屋根が見えた。雨雲が低い。雷が落ちないだろうか。こんな天気に子供を連れて山に入って、怒られるのは僕の方じゃないか。

 離れの中で二人はどうしているだろうか。絵を描いて――。

 考えているうちに、休憩なのか、離れから二人が出てきた。僕は手を振る。まず白州さんが気付いて手を上げる。演技を始める時の体操選手みたいにまっすぐな腕だった。それに深理さんも気付いて跳ねながら両手を大きく振った。

 なぜだかその時、自分がいままで長い間耳抜きをしないでいたことに気付いた。顎を開いて鼻から欠伸を出す要領で耳抜きする。気圧の差に縮こまっていた鼓膜が外圧に合わせてまっすぐ正常な状態に戻る。雨の音が倍くらい大きく、一粒一粒の立てる音を聞き分けられるくらい鮮明に聞こえる。

 それから、深理さんが別に白州さんの代わりを僕に求めていたわけじゃないってことをなんとなく考えた。思い出したといってもいい。

 森の間には依然として鳥の鳴き声がこだまして、木々の幹や湯気のせいで奥の見通しは白い闇の中に消えていた。

 山を下りると林の縁の少し先にソルベルグが座っていて、僕らがハンモックの辺りを過ぎると離れに向かって歩き出した。ほんの少し早歩きで僕らの歩幅に合わせていて、白州さんに僕らを待っているように頼まれたのかもしれなかった。

 離れの扉は開いていて、深理さんが右手の床にしゃがんで鋏で供花の長さを切り揃えていた。スターチスの茎を切り戻し、リンドウの茎を切り戻し、くびれのある円筒形のガラス瓶に挿していく。赤いコートを脱いで黒の上下だった。

オリンピックのスキースラローム競技で選手がカーブのぎりぎりを滑って目印のポールを弾いていくのをよく見るけど、ソルベルグはちょうどあんなふうに戸枠に体をこすりながらするっと中に入り、框のところで前足を揃えて落ち着いていた。僕がブーツを脱ごうとすると背伸びをしてだっこをねだる。押し倒されそうになりながらなんとか抱えてやる。とにかくでかいのだ。毛足が長くてふわふわした先端が鼻に当たってくしゃみが出そうなのでいっそ近づけて額の匂いを嗅いでやる。晴れた日の午前にベランダに布団を干して、布団叩きで叩いて、取り込む時によく膨らんだのを顔に被さるくらいに持ち上げるけど、全くその時の感じだ。

「白州さんは?」僕はソルベルグを抱いたまま訊く。靴はまだ脱いでいない。

「バケツを置きに行ってるの」と深理さん。一度鋏を置いて髪の下に手を入れて整えている。「花、置いていったらって。持って帰ってもうちには仏壇もないし」

 どうにか足だけでブーツを脱いでイーゼルの前に回る。白州さんはやはりあの絵の続きを描いていた。深理さんの肖像だ。絵具は全体的に塗り直されてまだ乾きようもなく艶々と濡れていた。出来はそれでもずっとよくなったと思う。正面向きの超然とした姿勢、けれどやや俯瞰。顔や頭の軸は画面の軸とひとつも一致しない。少しずつずれている。視線もこちらにまっすぐ向けられているようであり、でもよく見ると少し右へ逸れているような気もする。そこに親しみと酸味の微妙なバランスがある。

「これで完成にしようって」と深理さん。

「彼が?」僕はソルベルグの重さに耐えながら訊き返す。

「そう。いいでしょう?」

「前に見た時よりずっといい」

「私もそう思う」

 土間の横にロフトに上がる階段があって、階段と梯子の間の子みたいに急で土台がなく、側桁が一階の床と二階の縁に架かっているだけなのだけど、ヒカリはその三段目に座ってひとつ下に足を乗せる。

「ねえ、深理さん、私たちが上に行っている間、二人で何をしていたの?」ヒカリが訊いた。やっぱり気になるみたいだ。

 すると深理さんは耳と頬を赤くして「絵を描いてもらっていたの」と答えた。

「絵は描いてもらうものなの?」

「え?」

「絵のモデルをやると、何もすることがなくて、動いてもいけなくて、すごく面白くないんだけど、深理さんはそれがいいの?」

「ああ、そうか。私が『もらう』って言ったから、喜んでモデルをやっているふうに聞こえたのね。でもヒカリは違うのね?」深理さんはひとまず花瓶を置いて立ち上がり、後ろに寄りかかる場所を探して、壁付きの作業台の縁を後ろ手に触って汚れていないか確かめ、そこに腰を預けて腕を組んだ。

「そうなの。なんて言うか、描いてもらうってものじゃなくて――」

「絵に描かれる?」

「そう、そんな感じ」

「うん」深理さんは納得してすごくいい表情をした。「私だってじっとしているのはつらいわよ。でもね、それよりも、白州くんが、あなたの叔父さんがよ、これはいい、これはいい絵が描けるぞって顔をして、私と絵と交互に、じっくり観察するでもなく、ぱたぱた忙しく見比べている時の様子がね、その時の顔ったら、口が開いていたり舌が出ていたりしてちょっと気持ち悪いくらいなんだけどね、それが私はとても好きなのよ」

「それじゃあ深理さんは相変わらず絵を描いてもらうんだ」

「そうね、描いてもらうの」

 僕が寂しいような温かいような気持ちでそれを聞いていると、ソルベルグが僕の襟に爪を引っ掛けて首の後ろに回り、南極用のマフラを巻いたくらいに肩に乗っかって、そこでやっぱり落ち着こうとしていた。

 ねえソルベルグ、僕はほとんど確信しているんだけど、二人は本当なら離れ離れになる必要なんかなかったんだ。実際には現実的問題が一時的に彼らを引き裂いてしまったけれど、そういったややこしい問題から距離を置ける場所がもう少しきちんと存在していたなら二人はこんな困難に合わずに済んだはずなんだ。二人の関係は僕が現れる以前の要に戻っていくかもしれない。ただそれだけかもしれない。でもただそれだけのことが人間にはとても難しいことなんだ。ネコにだって難しいかもしれないけどさ。僕はなぜ深理さんが僕に手島模型の絵を描かせるようになったのかもう一度考えてみたんだけど、やっぱりそういう役割を期待されていたんじゃないかと思う。少なくとも、何かしらのきっかけになってほしいと期待されていたのだと思う。だから僕はそれで満足だよ。寂しくないって言ったら嘘になるけどさ、それでいいんだ。

 僕がソルベルグの顎を撫でると、彼女は首を縮めて僕の指をぺろぺろと舐め返してくれた。その優しさはとても心地の良い慰めになった。

ソルベルグは深理さんの分身です。「僕」になついているのはそのせいです。深理さんの心が「僕」から離れてしまったわけではないことを示すために必要なモチーフになっています。

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