雨上がりのイーゼル
スイフトのガラスはフロントもサイドも雨の筋で歪んでいる。それでも外が見えないほどではないはずなのだけど、深理さんはとてもこっそり戻ってきて運転席のガラスをこつこつ叩いた。僕は慌ててドアのロックを解除した。車の中に一人でいるとなんとなく内鍵をかけたくなるのだ。
「警戒心が強いのね」
「へなちょこですから」
僕は膝の上に出していた『留まれアテネ』を鞄に仕舞った。
深理さんは傘を外に残して運転席に座り、足を入れてドアを開けたまま傘を畳む。冷たい空気と雨音が車内に流れ込む。ドアを閉め、カメラを念入りにタオルで拭って後部座席に預ける。頭をシートに預けて目を瞑る。息を吐く。そのまま左手を動かしてサイドブレーキに触れ、助手席のシートの縁を辿って僕の膝の上に置いた。上下に撫で、左右に撫で、少し掴んで離し、浮かせ、押し込み、止まる。繰り返し。
彼女は失われた人生を辿っていたのだ。もしあの事件がなかったら何年もあの狭い店の中でぐずぐずしていることはなかった。白州さんとのわだかまりだってなかったかもしれない。今頃彼と結婚式を挙げていたかもしれない。それが本来の人生だと思えば、今の自分は何者なのだろう。ここにいる私は本当に私なのだろうか。僕に触れることでその現実を受け入れることができる。受け入れざるを得ない。僕の存在はきっと形のいい埋め合わせなのだ。暗く陥没した穴の中にすっぽりと入り込んで表面を平滑に均してしまう何かを彼女は僕の中に見つけたのだろう。彼女はコートの前を上から三つ開いて一度胸元に手を当て、それから僕の肩を引き寄せた。
僕は彼女の開いた胸元に顔を埋めた。それが天国みたいに心地よいのはともかくとして、結構無理な体勢だった。彼女の膝の間に手をついてネコみたいに胴を伸ばさなければいけなかったし、脇腹にサイドブレーキが刺さりそうで力を抜くわけにいかない。そのせいで腰骨が脱臼する寸前みたいな感じがした。他人から見たら僕はきっと絞め殺されているみたいに見えただろう。でも僕はかなり長いことその体勢で耐えていた。それが可能だったのはたぶん色々なことを思い浮かべていたからだ。自殺した小学生が最後に彼女に抱きつくところ、彼が生きていたら僕より一つ上の学年になるということ。
彼女はいま代替の世界にいる。彼女自身はそこから抜け出そうとしているのだろうか。おそらくしている。ただ、時間をかけて。
僕は自分から離れた。でも決して肉体的な限界がきたからそうしたわけじゃなかった。
「次はどこへ行くんですか?」僕はまともに質問した。
「それは言わない約束でしよ?」
深理さんはエンジンをかける。
「白州さんの家には寄らないんですか」
「どこにあるか知っているの?」彼女はシフトレバーにかけた手を止める。
「少し東へ戻ったところ。五月にアトリエを建てる手伝いをしに来たんです」
「そうね。十五分もあれば着くはず。ここまで来ておいて彼の家に寄らないなんておかしいんじゃない?」
「寄るつもりなら何かお土産を買っていくはずだ」
「そうか……」
「深理さんが大丈夫ってこと、白州さんが大丈夫ってこと、お互い確認した方がいいと思う。罪の幻影を負わずに済むように」
「今彼が家に居るかわかるの?」
「わかります」
「行くべきだと思うの?」
「というか、個人的に確認したいことがあるんです」
「何?」
「それは答えられない。でも行きたくない気持ちもわかります」
「だから、行きたくないわけじゃないってば」
僕はカーナビを叩いて行き先の住所検索を開いた。再び白州さんの家の住所を入れる。
カーナビは検索したルートを表示して案内を始めるかどうか訊いている。
「わかった。行くわ」
僕は画面を押す。
でも深理さんはすぐには車を出さなかった。少し考えてからシフトを動かしかけてまたパーキングに戻した。ハンドルから手を、ブレーキから足を離す。
「白州くんは図工の先生になりたかったのよね」と呟く。それから僕にもきちんと聞こえるように話す。上向きに重ねた手を腿の間に置いて「前、ミシロくんから訊かれた時に、高校時代の彼とは大した接点がなかったと答えたけれど」と言った。
「ええ」
「一度だけ二人だけの接点を持ったことがあったのよ。この小学校へ来た時。彼その時図工の授業を持ってみて、輪郭ではなくて光と影で絵を描くことを子供たちに教えたの。私をモデルにして描き方を見せたのよ。そのことを私はてっきり忘れていたんだけど、それから高校を出て彼と会った時に、突然思い出して。それはなんだか、私の中で……何というか、輝かしい時代のひとつの記念品のような感触をもっているのよ。それは変わらないものなの。ごめん、わからないよね」
「いや、わかりますよ」僕は答える。気が落ち着かなくてシートベルトをまっすぐ前方に伸ばしてみる。
「本当?」
「その絵が深理さんの生まれ変わる指標になったってことでしょう」
「そう、そう」彼女は妥協っぽく頷いた。あまり具体的な話にはしたくないようだった。
改めてシフトをドライブに入れる。決心して白州さんの家へ向かう。
けれど簡単な道のりではなかった。道は細く入り組んで、ナビに従っているにもかかわらず指示と実際の曲がり角が一致しない。道にはみ出した草木は半分くらいが枯れ草になっていたけれど、枯れてもまだ飛び出している。看板や鏡がなかなか見えない。時には曲がり角そのものを見落としたりして、その都度ナビはルートを新しく指示した。ひとつ前の角に執着してぐるっと回って向きを換えて同じ道へ、というのもあった。なかなかナビの思っている通りの道を走ることができない。結局二十分くらいは枯れ草の迷宮の中をぐるぐる回っていたんじゃないだろうか。そのうち僕が目視で白州さんの家を発見した。最初に見えたのはガレージの四角い屋根だった。迷走の間に雨はずいぶん弱くなってワイパーを動かさなくてもいいくらいになっていた。
やがて母屋が見え、その後ろに離れが見える。白黒に塗ってすっかり新築の建物だった。
畑の間を抜けてゆっくり敷地に入る。ガレージの前にルーフを閉じた330iと、こちらは初めて見る青いスバル・インプレッサ。青は青でもBMWに比べるとずっと明るくてメタリックだ。ガレージのシャッターが開いている。トラクターを出しているのかもしれない。邪魔にならないように母屋の方へ回って二台の横に並べる。また青い車が増えたわけだ。でもスイフトもやはり少し色味が違う。
駐める場所を考えている間に母屋から白州さんの母親が出てきて出迎えた。慌てて支度をしたらしく最低限の化粧をして髪は後ろで縛っている。青と緑のチェックのチュニックに灰色のガウン。深理さんとは面識があるようだ。僕は初対面だが、名前を言うとちょっと大袈裟な反応が返ってきた。話には聞いているわけだ。
「あれ、墓参り?」後部座席の窓を見て訊いた。
「今行ってきたところですよ」深理さんが答える。
「水に差しておこうか? しばらく居るでしょう。今バケツを持ってくるから」
「あ、お構いなく」
「花に悪いわよ」
白州さんの母は花の入ったレジ袋を受け取る。どちらかというと少し喋りすぎる人のようだった。僕らが手島家の親戚の墓に行ったと思っている。
白州さんは上にいるという。母屋の横の坂を上る。この辺りはかなり草の勢いが落ちていた。近々草刈りをしたのかもしれない。深理さんは離れを見上げながら「あんな家前はなかったのに」と言った。その感想については僕もほとんど同じ意見だ。離れは建築中からまた大きく姿を変えて、鉄平石色のガルバリウム材の屋根と漆喰の白壁という正統な風貌だった。
坂を登り切ると白州さんの姿も見えた。彼は離れと林の間にイーゼルを立てて絵を描いていた。雨上がりの鉛のように湿った風景の中に座った彼の背中はそれだけで絵画的だった。モデルは十歳くらいの髪の長い女の子で、杉の幹に渡したハンモックに腰を沈めて、モデルに専念するにも集中力が持たないようでPSPに勤しんでいた。雨は上がっているけど枝葉の下だ。濡れないだろうか。
離れの玄関前まで来て、僕は深理さんを促すつもりでわざとらしくぼんやり屋根を見上げ、白州さんの方を眺め、最後に彼女の目を見上げた。
彼女がまだ決心のつかないまま彼の背中に向かってそろそろと小股に歩いていくと、白州さんは中身の入った郵便ポストみたいに左手を直角に持ち上げて彼女を制止した。邪魔されたくないのだ。
それからたっぷり二分くらいの膠着があって、彼は作業台に貼り付けた新聞紙におもむろに筆を置くと、椅子の背凭れに背を沈めて首を左右に倒した。
深理さんは静かに、でも待ちかねたように近づいていって彼の肩に触った。
「君が来るのを待ってたんだ。ずいぶん待ったね」
白州さんは顔を上げた。ちょうど深理さんの胸に後頭部を置くような格好だった。彼女はその肩や胸に手を置いて慰めのように撫でていた。綺麗な景色だった。二人のうちどちらかというんじゃなく、やっぱり景色全体が綺麗だった。
僕は遠くに立ったまま彼らの姿を眺めて、自分の襟に指を差し込んで内科の触診のように鎖骨の下や肋骨の間を押していた。大して意図したものではない。ただそうやって押さえておかなければならないものが体の中にあったのだ。
「モデルをやってくれよ。まだあの絵が完成していないんだ」と白州さん。
深理さんが頷くと彼は体を起して立ち上がり、PSPの少女に向かって叫んだ。
「休憩にしよう」
少女はPSPをポーズにするなり起き上がって「はーい」と彼の方へ大きく口を開けて返事をした。
白州さんと深理さんが離れへ向かって歩いてくる。イーゼルと椅子、作業台はそのままだ。PSPの少女はハンモックを下り、走るでもなく登山家のような確かな足取りで戻ってくる。ピンクのセーターの上に襟の高い鼠色のベスト、下は細い女の子用のジーパン。華奢というよりはただ単に子供らしい細さだった。白州さんはその子を僕に紹介した。
「僕の姪のヒカリ。僕の友達のミシロくん」
「よろしく」僕は首を屈めるくらいに目を合わせたままお辞儀した。
「はい」と一言。
「どうぞよろしく。復唱。きちんとだ」白州さんは少女の頭に手を乗せて言い聞かせる。
「どうぞよろしく」少女は僕に目を合わせて無機質に言い直す。
「そうでなくちゃ。しばらく別の絵を描くから中に戻ってな」
「今描いていた絵を見てからでもいい?」
「いいよ。でも触るなよ」
「わかった」
PSPの少女ヒカリはくるっと向きを変えて野原の真ん中に置かれたイーゼルのところへ走っていく。
「気づきの悪い親でね。ああいうところを直してやろうとしないんだ。甘いってわけじゃないんだが。今時教育者になってくれる他人も少ないだろ」白州さんはヒカリの背中を遠目に見ながら愚痴って「さあ、どうぞ」と離れの木製の扉を開けて僕らを招き入れる。
離れは様変わりしていた。土間にはタイルが張ってある。壁は白く、下の方は腰板が貼ってある。腰板と床板は分厚くニスを塗って深い茶色をしている。が、既に何ヶ所か筆を落とした痕跡があるし、すっかり絵具とペトロールの匂いに染まっている。壁に沿ってカンバスや絵が立てかけられ、作業用の道具がもう一組とイーゼルが一脚中の空間に立っている。ニケは左奥の角で部屋全体を見下ろしていた。天井はやや低く土間の左にロフトに上がる階段がある。
「ああ、そうだ、ミシロくん、ひとつ気付いたことがあるんで言っておくよ」
僕は察しがつかないまま突っ立っている。
「君のニケはやっぱりいいものだよ。というのもね、自己主張がないんだな。悪い意味じゃなくてね、ここに置いたままで僕の邪魔にならないというのは、そういうことなんだ。主張がうるさくない。美大生がよく言うんだけどね、他人の作品は欲しくないって。見る分にはよくても、毎日見るところに置いてあると、なんだか目につく。視覚的にうるさい。自分の創作の邪魔になってしまう。つまり、今日のアートは多く個性を代弁するものだが、それが雄弁過ぎても存在が受け入れられないということなんだ。日常部屋に掛けておく絵、置いておく彫刻は、炎になることなく、カンテラの中で静かに灯っている火のように、明るく、きちんとガラスに収まっていなければ」
白州さんはそんなふうに言いながら部屋の隅から布に包んだカンバスを開け、イーゼルに立て替える。言葉を続ける。
「それに、だ。思うにそれはモチーフの条件とも符合するんだ。静物であれ、人物であれ。例えばモデルは、その人物でなければならない意味を持ちながら、描き手の感性に従わなくてはいけない。描き手の感性を黙らせてしまうほど主張の強いモデルというのは作品をだめにしてしまう。君のニケはよきモチーフでもある、ということだ」
彼は横目にこちらを振り向いて反応を確かめる。
言いたいことはだいたいわかるのだけど、でもそれはまだ表面的な理解だった。もう少し奥のある話だと思うのだ。だからはっきりとは頷けない。
深理さんは光の向きを探して椅子を置く。絵を描く支度が整う。
僕は靴を履き直して戸口に立った。
「いや、居てくれても構わないよ」と白州さん。
けれど僕はかぶりを振る。深理さんは僕を引き止めていない。彼女はこちらを見上げている。普段の毅然とした微笑のままだ。
僕は外に出て扉を閉め、庭と林の境界まで歩く。
途中に白州さんの描きかけた絵のイーゼルと椅子と作業台がそのままになっている。イーゼルの脚がびっしりした微細な水滴に濡れている。絵はその向こうにある景色とほぼ相似形を成していた。絵の方が少し色彩が暗く、現実には今ハンモックの上に人はいない。目を引くのは縁がないことだ。カンバスの隅が塗られないまま白く残っていた。




