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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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故郷の喪失、その後の原点

 蕎麦屋は道の低い側にあって山小屋風の天井の高い建物だった。店の表に赤い野点傘の立ててあるのが遠目にもよく目立っていた。その下に置かれた毛氈敷きの長椅子で三十くらいの落ち着いたカップルがお茶を飲んでいた。深理さんはまだ遠いうちにズームして一枚撮っておく。店の横にまた砂利敷きの駐車場があってハッチバックが何台か駐まっていた。客の車よりスタッフの車の方が多いだろう。

 入り口の引き戸は動かす度に嵌め込みの甘いガラスがばりばり暴れて、まるで借金取りがやってきたんじゃないかというくらいの煩さだった。でも締め切ってしまえば店内は静かだった。板壁特有の仄暗さだ。太い梁の下で天井扇がゆっくり回っている。黒いTシャツの上に青い作務衣を着た店員が厨房から顔を出して「テーブルにしますかテラスにしますか」と訊いた。近所から手伝いに来た風の髪の短い痩せたおばさんだった。

「濡れていなければテラスで」

「大丈夫ですよ」とおばさん。一応外まで連れて行ってテーブルの縁を撫でてみる。「うん、大丈夫。もし吹き込んできたら中へ移ってね」

 我々は眺めのいい側のベンチに並んで座り、メニューを一通り開いて牛そば大盛ととろろそばを頼む。

 テーブルを二つ乗せたテラスは斜面に長い脚を伸ばして谷の上に張り出している。木々の黒い枝の間から下界の眺望が覗いていた。囲いの上まで屋根が広がっているので雨は入ってこない。屋根の裏を見上げると垂木に細い原木が使われていた。テーブルは漆なのか合成樹脂なのか判別がつかないけど摺り漆のように暗い木目と艶が共存していた。

 彼女は一通り景色を撮ったあと、セルフタイマーをかけてテーブルの端にこちら向きに置いた。数秒経って勝手にシャッターが切れる。きちんと二人とも見切れずに写っているか確認して、少し肩を近づけて手持ちでもう一枚撮っておく。彼女はきっと白州さんともこうやってたくさん写真を撮ったんだろうな。

 僕が空を眺めていると「あ、ここから見えるんだ」と深理さんが呟いた。彼女は梟みたいにゆっくり首を動かして景色を見ていた。

「学校が見える? 白い建物」

「あの山の麓にある?」

「そう。私の通っていた小学校」

 深理さんの視線が示す方向に空母の艦橋みたいな四角い建物とかまぼこ屋根の体育館が見えた。彼女がどんな子供だったのか想像してみた。きっと何事にもそつがない子供だったのだろう。でも訊くのはやめておいた。

 僕が知りたかった彼女のことを何のことはなしに記憶している人間も存在するのだろう。同じように、僕が漫然と積み重ねてきた彼女の記憶は誰かにとっては欲しくて欲しくて堪らなかったもの、それでいて手に入らなかったものなのかもしれなかった。ある年僕はB組、彼と彼女はA組になる。次の年はまた違う。それだけのこと。それが運命というもので、そんなことに囚われていたら人間は前に進めない。

 進みたいなら克服すればいい。忘れればいい。そうして多くの人間が回復と再生の道を登っていった。確かにそうだ。

 でも、本当にそれだけが真理なのだろうか。進むことにそれほど大きな意味があるのだろうか。

 蕎麦が届く。黒いお盆の上に丼、つゆ、薬味の皿。丼の中はとろろと海苔と卵が円グラフのように占拠していて下になっている蕎麦は見えない。深理さんの牛そばも丼で、大盛にしたせいでそばどころか汁も見えなくなっていた。彼女は少し食べてから丼を僕のお盆の横に置く。僕ももう一口食べてから彼女の前に自分の丼を置く。牛そばも美味しかった。

 丼を戻す。

「利根川の河口へ行った時、狭霧のことを話したの、憶えてますか」僕は微妙な調子で切り出した。ここで言うべきことかどうか、だいたい深理さんに伝えておくべきことかどうかも判断がつかなかった。

「もちろん」

「年明け、二月か三月、こっちへ来るって」

「そう?」深理さんは少しの間景色に目をやって親指の背を撫でていた。「イギリスから帰ってくるのね」

「帰ってきてそのまま居続けるかはわからない。とりあえず数日こっちに」

「前に住んでいた家はまだ残っているんでしょう」

「今は彼女の伯母さんが住んで管理してます」

「ミシロくんのところへも来るのね」

「僕も来てほしいし、彼女もそのつもりだから僕に連絡したんだろうと思いますね」

「じっくり話せるといいわね」

「ええ」少し言いづらい。

「うちへ呼んでもいいのよ」

「えっ」

「私も会ってみたいもの。嫌じゃなければ」

「いいえ。嫌じゃないですよ」

「彼女も大学生になるのよね」

「なる、というか、もう大学生です。向こうは年度が秋に変わるから」

「九月から? ああ、そうだ。じゃあ居続けるかわからないって?」

「一応入学資格を貰って、現状通っているけど、彼女自身このままイギリスに居ていいのか、日本に戻ってこっちの大学に通うべきか、まだ決心はしていないみたいで」

「そうか、もともと好きで行ったわけじゃないのよね」

「うん。行きたくなんかなかったんです。最初は彼女のお母さんだけが渡って、彼女自身は嫌がっておばあさんのところに残って、それで、日本にいられなくなったのは、おばあさんが亡くなったからなんですよ。一人でやっていける自信があったのに、身内で誰が面倒を看るってごたごたがあって、それが耐え難いものだった。だから、イギリスへ行ったのは、退避だ」

「それなら迷うことなんてないように思えるけれど」

「迷うって?」

「強いられて渡ったなら、十八になってこれから一人で生きるという時に、今度こそ日本で、と思うのは妥当じゃなくて? あの時失ったもの、失いたくなかったもの、そういうものを取り戻せるかもしれない」

 僕はとろろそばを食べながらまた少し考えた。

「そうでしょう。でも、怖いんですよ、きっと。あれほど彼女に変化を強いた距離を引き返すということ、その移動をもう一度経験するのは。帰ってきたところで、それぞれに時間を経た彼女と、こちらの世界と、その擦り合わせがすんなりいくかどうかもわからない」

 深理さんはしばらく僕のどんぶりをじっと見つめたあと、自分の牛そばを一口啜って、それから景色に顔を上げる。

「難しいわね」

「はい。難しいんです」

「お父さんの家系の本家が、昔、とても山深いところにあってね、そこは五〇年代のダムの流行りで集落ごと湖の底に沈んでしまったの。それは私が生まれるよりずっと前のこと。私が知ってるのは、車で何時間もかかって、山道だからカーブが多いでしょう、酔って吐きそうになりながら、ようやくそこへ着いて、私のおじいちゃんが言ったのだけど、『やあ、ようやく帰ってきた』って。湖と山と、コンクリートの壁と、送電線と、人なんか誰も住んじゃいないのに」深理さんはそこでちょっと笑う。

「故郷を失うということ?」

「失われても、そこにある、ということ。だから、きっと大丈夫よ」


 深理さんは僕より早く牛そばの大盛を食べきり、僕が残したとろろそばも全部食べてしまった。胸の下に手を差し込んで満足そうに胃のあたりを撫でたり押し込んでみたりする。そしてまた僕に割り勘をさせない。結構高かったのにな。

 外は依然として木々の葉に増幅された雨音が覆っている。実際の雨の勢いは少し強くなっただろうか。坂道を下りる。アスファルトは磨かれた一枚岩のように黒く光って誰かが足を滑らせるのを待っている。ヘビはいない。稜線から集まってきた雨水が小さなせせらぎになって岩の間を流れている。

「和歌山の田舎もこんな感じ?」深理さんは訊いた。赤いコートのポケットに手を入れて、一歩一歩爪先を地面につっかけてブレーキをかけるみたいに歩いている。

「だいたい。こんなに寒くはないけど」首を縮めて答える。歩き方は僕も同じようなものだ。

「植生がだいぶ違うんじゃない」

「いや、案外こんなもんですよ」

「照葉樹林じゃないの?」

「原生はね。でも今はほとんど造林のスギとヒノキですよ。林業の盛りに開発して、それが放ったままになっている。コナラやクヌギなんて少数派です」

「へえ」彼女は感心して木々の枝ぶりを見上げる。

「晴れた日なんか綿毛みたいな虫が木の間にいっぱい飛んでますけどね、やっぱり針葉樹ばかりで土が痩せていくと生き物も増えませんよ」

 頭とコートに付いた水滴を払ってスイフトに乗る。エンジンをかけると早速ワイパーが動いて水滴を追い出した。ごりごりと砂利を踏んで駐車場を抜け、崖に沿った細い道を登ってきた通りに引き返す。エンジンブレーキをかけて坂を下る。耳がつんとする。振り向くと霞んだ山の上に厚い雲がかかっている。雨はまた少しずつ勢いを強める。

 約束があるから僕は質問しない。約束させておいて自分だけ喋るのもアンフェアだと思っているのか深理さんも無口だ。雨と、ワイパーと、エンジンの高い回転と、それだけだ。幹線に出て西へ。

 案の定小学校を目指していた。長い擁壁の下の通りに駐める。擁壁の上は校庭らしく、さらにフェンスの支柱が立ち上がっている。斜めに張ったワイヤが風に煽られてからんからんと打ち合っている。

 雨は細く密に降っている。今度は折り畳み傘を鞄から出しておいて広げる。深理さんはしばらく傘なしで様子見をしていたけれど、木々の下に入ると大きな雨粒が落ちてくるので観念して僕の手から傘を取った。高低差があるので校門は一本入って坂を上ったところにある。路地はシイの並木。路肩にはたくさんどんぐりが落ちている。真ん中の方はほとんど踏み潰されて殻は割れ、白っぽい中身が粉末になって路面の窪みに挟まっている。

 坂の上から重たい鉄の軋む音が聞こえた。誰かが校門を開けたようだった。白い半袖に紺色半ズボン、体操着の小学生が何人か通りに出てくる。晩秋の雨にそんな薄着でよく凍えずにいられる。クラブ活動の帰りだろうけど道具は何も持っていない。日焼けしているから屋外競技、陸上だろうか。横に広がってこちらへ向かって下りてきた。顔がわかるくらいの距離で彼女たちは僕らに「こんにちは」と大声で挨拶する。僕らも慌てて返事をする。知らない人間にも挨拶するように教えられているのだ。僕は深理さんとくっついているのがちょっと恥ずかしくなった。

 頭に雨がかかる。

 彼女が立ち止まって傘が僕の頭上から外れていた。ちょっと引き返して傘の下に戻る。彼女は振り返って子供たちの後姿を目で追っていた。頬や唇はとても無表情で、瞼が半分くらい閉じて下目に、冷たくて無防備な横顔だった。

 子供たちが足早に坂下の角に消える。深理さんは向き直りながら右手で僕の肩を後押しした。

 校門の前に着く。休日だ。校庭に人気はないが校舎の一階には明かりが灯っていた。坂は校舎の背後に回り込んでまた高い擁壁になっている。あの下に件の菜園があるのだろうか。

「ねえ、少しの間一人にしてもらってもいいかしら」彼女は咀嚼するようにゆっくり言った。

「傘は?」

「私も持っているから」彼女は鞄から傘の柄を少し見せて、先に車の鍵を僕に渡した。

 僕は彼女が傘を開くのを待って坂を下った。十歩ほど行って振り返ると、彼女は「どうしたの?」と訊くように体を傾けて僕を促す。シイの枝のトンネルを歩いて下る。

 助手席に入る。濡れた鞄を拭いて『留まれアテネ』を取り出し、でもまだ開かない。膝に置いて表紙に目を落とす。ほとんど黒い深緑色の地に黄色い文字。まだ今のうちにやっておかなければならないことがあるような気がした。

 擁壁の陰になっていて校門前の様子は見えなかった。深理さんはこっそり学校の中へ入っただろうか。それとも校門を過ぎて畑の裏手まで坂を上っているだろうか。

 僕にとってここは一年前に話に聞いただけの場所だ。けれど彼女にとっては六年間毎日通い続けた場所だ。そして人生の転換と墜落を迎えた場所なのだ。彼女の通学路や、ランドセルの色だって僕は知らない。ただ断片的な物語をいくつか聞いたに過ぎない。たったそれだけ。

 彼女は過去に潜っていこうとしているのかもしれない。それなら僕がここにいるのは僕が彼女にとっての現実や現在の標識だからなのだろう。しっかりと地面にくっついた僕の足に丈夫なケーブルを結びつけて、帰る時にはそいつを伝って昇ってこよう。その役が務まるのは僕が彼女の過去に居合わせなかったからなのだ。それは僕が僕である意味そのものではないかもしれない。でも他の親しい人々には務まらない役目には他ならない。

 少しわかった。

 僕はクロッキーを開いて白州さんが連絡先を書いてくれたページを探した。住所も貰ったはずだ。ほら、あった。

 運転席に身を乗り出してハンドルの右側を覗き込み、車の鍵を挿してひとつ捻る。アクセサリーポジションに。表示板にオイルとバッテリのサインが光る。少し遅れてカーナビの画面が目を覚ます。運転席の座面で弾みをつけて体を起こし、書いてある住所を行き先検索に打ち込む。十字の目印が地図に一点を示し、「ここへ行く」に触れるともっと縮尺の小さい地図に切り替わり、尺取り虫みたいな緑色の線が現在地と白州さんの家を結んだ。見積もり二十分の道のりらしい。ハンドル頼りにもう一度体を伸ばして鍵を戻して抜く。

 白州さんの家に電話をかける。呼び出し二回で相手は取った。それは白州さん本人ではなかった。老人の声だ。しわがれていて性別はわからない。でも検討がついた。ばあちゃんだ。ゼリーを食わせるばあちゃんだ。

 僕は大声で何度かはっきり言い直して白州さんを呼んでもらった。一度電話が切れる。こちらの番号を訊かれなかったけど、ナンバーフォンかリダイヤルの機能がある電話なのだろう。

 五分くらい待った。それは結構長い時間だった。

「ミシロです」

「どうしたんだ?」

「今家にいますか」

「あ、うん」

「当面家に?」

「ああ。納屋の整理をしてる」

「これから一時間より早く深理さんをそっちに連れていきますよ。必ず」

 白州さんは少し沈黙した。言葉の意味を吟味しているみたいだった。

「なんだか彼女には合意を得ていないような口調だな」

「そうです」

「そうです、か」

「いま小学校に居ます。彼女は一人でどこかに行っている」

「小学校って」

「ええ」

「一人にして大丈夫か?」

「大丈夫」

「迎えに行こう」

「だめですよ。連れていきますから。それにこっちも車なんです。カブリオレには車積めないでしょう」

「電車で来たんじゃないのか」

「高崎でレンタカーを借りて」

「ああ。車種は」

「スイフトです。青いスイフト。年式は最新」

「わかったよ。言っておくから、庭に入れて。でもあんまり無理をして連れてきちゃだめだよ」

 電話を切って辺りを見回す。深理さんはまだ戻らない。

 フロントガラスを覗くと電柱の上に一羽の猛禽が見えた。ノスリだろうか。羽が濡れて年季の入ったクマのぬいぐるみみたいになっていた。何かを待っているようだったけれど、しばらくすると飛び立って羽ばたきながら山の方へ低く飛んでいった。雷が怖いのだろう、雨の日は高く飛んでいる鳥は見ない。

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