水源
道はそれなりに混んでいた。国道十七号から十八号へ。ナビはしばらく道なりに走れと言ったきり黙り込んでいる。中山道を下り方向に辿っているようだ。交差点の脇に中山道の標識があった。空は灰色と水色を軽く混ぜ合わせたようなぼんやりした模様で、日は助手席の方から弱々しく差して僕の左腕を微かに白くしていた。ガラスに取りついた細かな雨粒をワイパーが縁の方へ押しやっている。
二十分ほど走って右折、北へ向かう。歩道のない片側一車線の道が曲がりくねりながら高度を上げている。山が近い。空の縁にこんもりした林が立ち上がっている。道沿いの建物はうんと少なく、時々民家が現れる。あまり新しいものはない。むしろ古いもの、黒鉄色の瓦を葺いたものが泰然として目立つ。そうした家々の間には桑畑が広がっている。木々は背が低く幅広で、瘤のたくさんついた太い枝先から弓なりの白い枝を天に向かって伸ばしつつある。毎年同じところで枝を剪定されるのでその根元だけが太るのだろう。葉はまだ冬芽の中に眠っている。
やがて山道に入る。交差点を曲がったところの右手に緊急避難所があった。横から見ると山、通り過ぎてから振り返ると、昔は空に向かって伸びていた橋が崩落して立ち入り禁止になったような具合だった。舗装はなくぎざぎざに盛り土の上にササやシダが生え、突端には古タイヤとガードレールが行き止まりを作っている。全体の手前に黄色い標識板が立っている。
山あいを進む。勾配が大きくカーブの内側に尾根が張り出しているので見通しが悪い。スイフトのエンジンは息苦しそうに回転数を上げたままでいる。スギやヒノキのすっとした幹が遠くまで透けている。山が深まるにつれてセンターラインが消え、歩道もなくなる、落石注意の標識が現れ、岩肌の崖には鋼製のネットが張られている。僕は窓に顔を近づけて左側を見ておく。時々路面が荒れてガラスに鼻をぶつけそうになった。窓を開けると冷たく重い空気が一斉に流れ込んできて噎せそうになる。あまりに多くの雨が溶け込んでいるので空気が液体にならずにいるのにこれが限界という感触だった。
二三度対向車と交換があっただけで無事に目的地に着いた。深理さんは四十七分運転した。ナビが所要時間は四十七分だと言うのだから四十七分なのだろう。
山の斜面を切り欠いたところに扇形の砂利敷き駐車場があって入口に寺の看板が出ていた。道の舗装を外れ、がりがりと砂利を踏んで奥へ入る。車の置き場所は地面に虎ロープを杭で打って区切ってある。ぶつけないように車の鼻先を崖に近づけて駐めた。
車を降りると踏みしめられた砂利がざっざっといい音を立てた。深理さんは深呼吸して腰を捻ってばりばりと鳴らし、最後に腰椎と骨盤の間を拳で叩く。それから首を真上に向ける。僕からは白い首筋と形のいい鼻孔が見える。
「こんなに深いところにあったんだ」
彼女は短く息を吐いたあとそう呟いた。ここに来るのが初めてなのだろうか。
それにしても寒い。コートの前を上まで閉めて顎を隠す。
辺りは靄がかっている。耳を澄ますと「ざー」という途切れることのない雨のノイズが聞こえた。木々の葉先に集まって大きくなった水滴は実際の雨より激しい音を立てる。どこかに滝が隠れているようなサラウンドだった。
空は駐車場の上だけ木の枝が届かずにぽっかりと空いている。周りは杉がてっぺんの辺りで互いを押し下げるみたいに競い合って枝を張っていて視界を遮っている。空と木々の境を見上げながら一回転すると世界がまるで雨のドームに柔らかく閉ざされているみたいだった。
深理さんは鞄からカメラを出して真上の空の穴やスイフトの横に立っている僕を二三度ずつ撮った。自分の目で眺め、カメラを持ち上げ、画面を見てシャッターを切り、下ろしてまた自分の目で景色を見て、それから撮れたものを確認する。でも写真を撮るのが目的というわけではなさそうだ。歩きながらそこにあるものを見て、憶えておく代わりに記録しておこう。そんな心持ち。
墓所を管理する寺の幟が道沿いに規則正しく立っている。少し道なりに坂を登って、駐車場から崖上に見えたところが寺の山内だった。寺務所に入って墓地の番地を訊く。木目パネルで内装した小さな部屋にデスクが二脚とキャビネットが詰め込まれている。カウンターもない。その中で太った若い坊さんがくるくる回りながら仕事をしていた。
「お墓の場所を教えてもらいたいんですが、いいですか」
「はい」坊さんは立ち上がって戸惑いながら答えた。若い女を見るのが久しぶりだったのだろう。
「都岡家は」
坊さんは山積みにした書類の間からエクセルで作った簡単な図を引っ張り出して「つ……」と探し始めた。しばらく俯いて「ここです。ここから入ってまっすぐ行ったところです」と図を見せて指差した。
墓地は棚田のように短冊形の区画が階段状になっていて、全体でサッカー場くらいの広さがありそうだった。深理さんは一番低い区画の水道でバケツに水を汲んで物干しから柄杓を一本持っていく。
目的の墓は極めてベーシックな造りだった。花立てには茶色く乾燥した花殻が残り、墓石にはハトの糞が三つこびりついていた。彼女はカメラを鞄に仕舞い、代わりにビニール袋に包んだ掃除セットを出し、赤いコートと手袋を脱いでセーターの袖を捲る。花立てを外し、柄杓で墓石に水をかけてブラシで汚れを落とす。ブラシ一本の他にスポンジもあるのだけど、僕が袋を拾い上げると「あ、いいの。墓石は私がやるから」と断る。
僕は砂利の間から生えた小さな葉っぱをひっこ抜く作業を担当することにした。根っこから抜いて巻石の上に束になるように重ねていく。墓石がぴかぴかになると、次に彼女は花を替えるために古い花殻を僕の葉っぱの束の横に並べた。抜いたばかりの草と比べると一層からからだった。水が足りなくて枯れたのだろうか。そうしてみると切花も雑草抜きも一種の殺しだった。でも人間は長い間その殺しと共生してきた。例えば間伐が森の健康を保つように。例えば間引きが立派な野菜を育てるように。
供花の包みを解いて花立てに差す。
深理さんは最後に水鉢にたっぷり水を注ぎ、「手が死にそう」と言いつつ濡れた手を大急ぎでタオルで拭いて僕の上着の襟の裏に差し込み、少し熱を溜めこんでから僕の首元に甲を当てた。彼女の手はまだ冷たかった。首筋から爪先に向かって鳥肌の波が走るのを感じた。
線香に点火して細かく折ったのを線香立てに差す。彼女は拝石にしゃがんで手を合わせ、僕はその斜め後方で立ったまま短く黙祷した。僕が目を開けて段を下りても彼女は長らくそのままだった。それはきっと彼女にとっては欠かすことのできない時間なのだ。
僕は静かに彼女を待ちながら供花のリンドウを見た。その花だけ束から外しておくべきだったかもしれない。気に入ったのだ。でも切花はどこで咲こうと同じ運命なのだ。一度束ねられた花々と同じ場所で死にたいと思っているだろう。
深理さんはしゃがんだまま一度顔を上げ、墓石を見上げてから立ち上がる。そして花立てから供花を抜く。
「あ、持って帰るの?」置いていくものだと思っていたので僕は驚いた。
「なに、そういうものじゃないの?」
僕は巻石の上に横たえた花殻を見下ろす。
「うちはそのままですね」
「ふうん。習わしの違いが出たわね。でもいいでしょう。お供えものだってそのあと自分で食べるじゃない?」
「そうですね」
「まあ、烏勧請みたいに自然に任せるものもあるけど」
「後始末を他人に任せるな、ですか」
「ということだと思うわ」
深理さんは花に包みを戻して花立ての水を抜く。切花なんて暑ければ一日持たないで萎れてしまうだろうし、水を溜めておけば水鉢にだって夏には蚊が湧くだろう。
残った水を流してバケツと柄杓を物干しに戻し、花殻とひっこ抜いた草を纏めて燃えるごみのバケツに入れる。中にはからからの花殻が古い骨のように折り重なっていた。
石段を下りて再び参道の前に出る。
「絵になるわね」深理さんは手袋した指を額にして本堂を見る。両手をまっすぐ伸ばし、顔を少し斜めに、片目で。それからカメラを出して構え、キャップを外してもう一度構える。
「参拝しておいたら?」と僕は提案する。
彼女はそれもまあ妥当かなという感じで頷く。
階の前まで行って鐘を鳴らし、お堂の周囲を回っておく。じめじめしているばかりで特に新しさはない。深理さんは軒下の彫刻や転がっている大きな岩の形を写して、参道を下ったところで「さて、お昼ご飯はどうしようか」と訊いた。
時刻は昼を過ぎている。
「表に地図が出てましたね」
二本足で立っている看板は全体的に色が薄れて、下の方に雨で跳ねた砂粒がこびりついていた。案内図を近場の店の広告が囲んでいて、どうやらもう少し登ったところに蕎麦屋があった。店の名前の横に「十割そば」とある。
「歩いて行ってみよう。雨も弱いし、空気も気持ちがいいし」
深理さんは道の先に向かって勾配に逆らって歩幅大きく進んでいく。ショートブーツ、タイツに包まれた寸胴な脚の形。僕も油断していると距離が開いてしまう。
道は古びて砂利のようになったアスファルトの舗装。右手に切り立った岩壁があって、路肩に土混じりの枯れ葉や木の実が溜まって道幅を狭く曖昧にしている。木々の増幅した雨音は相変わらず林の奥深くから響いてくる。時々その中の不運な一粒が僕の肩や膝に当たって地表との出会いを妨げられる。空気は細かな水滴と混じって白っぽく霞んでいる。東山魁夷の絵画世界に近いものがある。
けれど生き物の気配は多い。スギの葉の間からガビチョウのやかましい鳴き声がひっきりなしに聞こえる。コジュケイの声も響いている。けれどよく耳を澄ませるともっと小さな声も聞こえる。種類まではわからない。見回すとカエデの幹にゴジュウカラがくっついているのを見つけた。灰色と白のツートーンの間に黒い線の入ったモダンな彩色の小さな鳥だ。スーパーボールみたいにびゅんびゅん飛び回るので立ち止まって目で追わないと見失ってしまう。
「ねえ!」深理さんが呼んだ。僕が止まっている間に先を歩いていて、道端に立ち止まって振り返った。「ヘビ」
ゴジュウカラを探すのをやめて彼女に追いつく。足早になると濡れたアスファルトは案外踏ん張りの利かないものだった。
「ヘビ」と深理さんの視線の先、黒く濡れた岩壁の窪みに引っかかるくらいにして登山用のロープみたいな細長いヘビが道端に向かって下っていた。
ヘビは崖の岩壁と路面を隔てる浅い茂みを潜ってアスファルトの上にするする這い出してきた。
「何かわかる?」彼女はまず写真を撮ってから訊いた。
「なんだろう、ヤマカガシかな」
「毒はない?」
「あるけど、気にかけるようなものじゃないです」
「不穏な宥め方ね」
「毒性が弱いし、毒の歯が口の奥の方に生えているから、咬まれてもあんまり毒には当たらないし、大人しいヘビなんです」
深理さんはしゃがんでよく観察してみる。「目が悪いのかな」
確かに目が曇っていて、でもそれは脱皮の前兆だった。目の表面も全身と一緒に脱皮するのだ。こうなると中の新しい体がしっかりするまでは動きが鈍ってしまう。力が出ないのか、気分が憂鬱になるのか、とにかくそんな時に山を下ってくるのは上が寒くて堪らないからかもしれない。
そんなふうに説明して、僕の声の余韻が消えて雨のサラウンドに耳が慣れると、延々とした木々の幹の間に反射して遠くから微かなエンジン音が聞こえた。
「車かな」深理さんは一度顔を上げる。
「下から」
「おい、早く渡らないと轢かれちゃうぞ」深理さんはヘビーに呼びかけた。
ヘビはまだ道の真ん中だ。
がたがたしたディーゼルの音がはっきり聞こえてくる。雨の霞みの中にヘッドランプが差して幹の後ろに筋状の影が伸びる。
ヘビが渡っているからちょっと待ってくれって止めたら、車の方はいささか不運な気持ちになるだろうな。
ヘッドランプの光源が見えた時、深理さんは手袋を外してヘビの首根っこを掴み、そのままアンダースローで標高が低い方へ放り投げた。すぐに岩壁の側に寄って車をやり過ごす。クロネコヤマトのトラックだった。地面がちょっと震えた。念のため崖上を見上げる。異変はない。
通り過ぎた後で地面の下がっている方を覗き込んで、けれどヘビはもう茂みの中に紛れ込んでしまって見つけられなかった。彼女はシダの草露で指先を濡らして擦り合わせ、よく払ってから鼻に近づける。
「水の匂い」という感想。
「汚いものじゃないですよ。これだけ濡れているんだから」
「蟲は蟲よ」もう一度雨で指を洗ってから手袋をつけ直す。
道の先は山の谷に沿って左のカーブ、右手はほとんど垂直に切り立った黒い崖がしばらく続いている。岩肌のごつごつの間に青々した苔が根を下ろして点々と群落を作り、その間を岩の窪みに沿って微かに水が流れていた。
ここが水源なのだ。岩の尖った所から水滴が落ち、落ちた水は一度路肩に溜まり、アスファルトの上では厚みのない帯状の浅い小川になって低い方へ流れている。靴で流れを踏むと水は左右に分かれて周りの艶々した湿り気の中に浸透して消えてしまう。足を別のところへ動かすと流れは復活する。そうした水の筋が谷に沿って集まり、やがて川になる。低い方の路肩まで来ると水の帯はまた岩の上や土の中に分かれて消えていく。




