正式なデート
僕は高校三年の間深理さんとひとつ約束をしていた。僕からお願いしたことだ。入試が終わったら一度デートしてほしいと頼んでいた。結果が出てからじゃなくていいの? と彼女は訊いた。だけど物事は努力を尽くして、自分には何もできることがなくなってしまって、あとは結果を待つだけというその時間が一番不安なのだ。僕はそれを何かしら良いものに変えたかっただけで、ご褒美が欲しいわけではなかった。
「それで、どこへ行きたいの?」と彼女は続けた。「まだ思いつかないですけど、どこか一日で行って帰れるところがいいですね」僕はそう答えた。九月だったと思う。サンマの下ろし方を教わりながらその話をしていた。手についた生臭さがなかなか取れなかった。
十一月になった。そこらじゅうでセイタカアワダチソウの黄色い花がわさわさ咲いていた。結局僕は行きたい場所を思いつかなくて、行き先は深理さんが勝手に決めた。大橋駅で待ち合わせたあと、何も訊かずについてきてほしいと彼女は頼んだ。だから何も訊かなかった。
彼女は肩の開いた黒いニットのセーターに黒いスカート、上に個展の時の緋色のコートを着て、裾はスカートの方が五センチくらい長く、タイツに、靴はサイドゴアのショートブーツ。薄手の手袋をしている。全体として華はあるのだけど、コートを脱ぐとあとは真っ黒だった。白州さんのところに通わなくなったせいなのか、彼女はこの半年余りでまた二回りほど太った。見かけで二回りだから以前ぴったりだった服は軒並み入らなくなってしまったようで、スカートもセーターもあまり見覚えのないものだった。コートは着れているけど、それだって「着れている」という具合で、いささか身頃が詰まっていた。もう少しすとんとしたデザインだったはずだ。僕の方は体重に変化はない。グレイの薄手のセーターに紺色のズボン、編み上げの半長靴。上着はフードにふさふさしたフェイクファーがついた焦げ茶色のモッズコート。
魂が空気に染み出しているみたいなすーっとした気分だった。天気は優れない。細い雨が降ったり止んだりしている。煙突の排煙のような斑雲が集まっている。普段とは違うことが起こりそうな気配のある日だった。
日暮里から京浜東北線で赤羽まで、赤羽で湘南新宿ラインのホームに移る。どのホームも上り線はまだ混んでいるけれど下り線はがらがらで、そのうえほとんどホームの端まで歩いたので我々と同じ乗り口で電車を待つ他の客はなかった。線路に沿ってカーブしたホームの北端に他の客の姿がジオラマの人形のように小さく見えた。
我々の電車が来るまでに周りの線路では激しい発着があって、働き者の蛇のような十五両の長い列車が駅の人々を少しずつ運んでいった。人間の動きも列車の動きも同じくらいプログラムに従っているように見える。毎朝誰かが点検して、ゼンマイを巻き、正しく運行しているのを見守って満足する。そんなふうに。それとも、この景色はひとつひとつの人間が各自の意志と義務を果した結果の複雑な絡み合いに過ぎないのだろうか。そんなものが本当にこの精密さや効率を支えているのだろうか。
高崎線直通の快速が入線する。深理さんは額の上で髪を押さえる。吹き出す風と吸い込む風が起きる。不揃いな映画フィルムのような窓に我々の姿が映る。ドアが開くとロングシートの端から小さなトランクを曳いたスーツの若い男が降りてきて、男が空けた二席に我々は座った。ドア横の衝立とボックス席の背に挟まれたすみっこの席だ。衝立に誰かの忘れていった傘がかかったままになっていた。下りなので車内は既に空いている。ひとつ飛びくらいに空席があって、他にドアの近くで肩や背中を持たれかける客がいくらかいた。他人と肘をぶつけるのが嫌で座らないのだろう。彼らもほとんど大宮で下りた。僕の視界に入る範囲では誰もいなくなった。そこから先は降りる客があっても乗る客がない。
僕はデリダの『留まれアテネ』を読んでいた。高校の図書室で借りた本だ。哲学者の書いた本であることは確かだけど、彼が哲学のために書いた他の多くの本とは全然毛色が違う。他人の撮った写真を見て感じられることを、特にその現在と過去の差分について色々書いている。それがとても鋭い見方なので読んでいると思索的な気分になる。
赤羽で座ってから深理さんは膝の間で指を組んで目を瞑っているか時々手を持ち上げて爪のささくれを気にしているかどちらかだったけど、大宮のホームを出て電車が郊外へ入ると僕に肩を寄せて頭を近づけた。本を見ているのだ。自分が読んでいる時に他人に覗かれたり、一々本の名前を聞かれたりするのは普通疎ましいことだろうけど、不思議と嫌な感じはしなかった。彼女のはぼーっと景色を眺めているみたいに気配がなかった。
「懐かしい。その本読んだことあるわ」
僕は本を持ち直した。
「聞きたい?」深理さんは訊いた。
「ええ」僕は栞を挟んで本を閉じた。深理さんは背表紙の辺りに手を伸ばして感触を確かめ、視線を斜めにしてそのまま僕の肩に耳の上の辺りを押しつけた。ちょうど骨の出っ張っているところだけど痛くないのだろうか。彼女が喋ると微細な振動が骨伝いに響いてきてちょっとくすぐったかった。誰も我々を見ていない。電車は走っている。
「高校に上がってから通学に電車を使うようになって、乗っている間何か時間を潰すものが必要でしょ、それで本を読もうと思って、図書館や古書店ではなくて、私の場合はまず自分の家の本棚を探したのね。お父さんの買った哲学の専門書が床に積むくらいたくさんあって、そこから読むことにしたの。もちろん建築の本も読んだわ。だけど十五や十六の女の子ってどちらかと言うと啓蒙的なものに惹かれるのよ。啓蒙的って」
「わかりますよ」僕は中立的に肯く。
「哲学は哲学史に過ぎないという話を前にしたわね。憶えてる?」
「ええ。憶えてます」
「だけどその本は違うでしょ。対象が具体的で、彼がどういうふうに世界を見ているのかがすごくストレートに伝わってくる。ああそうか、きっとそれが本当の哲学であって、哲学についての議論は哲学ではないんだ。そんなふうに私が理解するきっかけになった本」
僕はしばらく本の表紙に目を落とす。
「つまり、破壊的な哲学史と、建設的な哲学」
「過去の哲学家を批判するだけなら破壊ね。でもデリダはそこから次の世代に繋がる考えを提示したから、破壊というよりは解体だったわね。一方建設と言ってもほとんどは増築だわ。みんな古代哲学の築いた頑丈な基礎を大事に使っているものね。更地に建てた哲学家は近代ではウィトゲンシュタインくらいじゃないかな。本当にひと握り」
「だけどこの本は建設的じゃないと思います」
「そう?」
「どういうふうに見ればいいか教えているわけではないから。ただ個別の事象に対して自分の例を示しているだけだから」
「そうかもしれない。けどね、デリダは世界はこのように見るものだという普遍的な価値観を否定した人なの。均質化や繰り返しに陥るからって。この本には時間の経過というテーマはあるけれど、写真の一枚一枚を仔細に見て、そこにだけ現れるものに対して注意を払っている。ここから彼の思想の原理を引き出そうとすることは、本人がしなかった通り、傲慢な行いになる。ひとつひとつの存在や出来事を無意味なものにしてしまうかもしれない」
高崎で降りると深理さんは改札を出る前に構内図を探して何かの場所を確認した。目当ては生花店だった。彼女はそこで供花用に一対誂えてもらうのに白いキクと黄色の小さなキク、スターチスを選ぶ。僕は小振りなリンドウを二枝取ってその束に加えてもらう。青紫の花はまだ蕾が多く、二分ほどに開いたワイングラス型の花にはほんの少し香りがあった。
「いい匂い」僕が差し出すと深理さんは首を下げて鼻を近づけた。
店の人は慣れた手つきで茎を切り揃えて輪ゴムで束ね、ウェットタオルとアルミホイルで茎先を、全体をフィルムで包む。一対で千円になる。
花を深いレジ袋に入れて構外の西へ出る。傘を差すほどの雨ではない。駅前の大通りをまっすぐ進む。信号待ちの時に花束を入れた袋に顔を半ば突っ込んでみる。ほとんどキクの匂いだった。深理さんは僕の行動を見ているけど何も言わない。行き先に関わることだからだろう。彼女は行き先に関する情報は一切口にしなかった。
高崎の街並みは東京の衛星都市に倣って、駅の両側に大きなビル、そこから中層の均一なビル群がなだらかに続いている。角にカーレンタルの店が見える。高い塀に囲まれた平らな敷地に小さなオフィスがあって、上に四隅を支えられた平たい屋根が架かっている。駐車スペースは広くない。背広を脱いだ若いスタッフが青いスイフトを窮屈そうに切り返していた。他には日野デュトロが一台あるだけだ。既に出払っているのか、それとも元々配備されていないのかはわからない。ガラス戸を引いてオフィスに入る。窓口に居た制服の女性が立ち上がって挨拶した。
「手島です。車をお願いしていたんですが」と深理さん。
「こちらへどうぞ」受付嬢は満面の笑みでカウンターの席を勧める。
オフィスの中は事務所と待合室がカウンターで隔てられ、我々の背中側には壁に沿って水色のビニール張りのソファがいくつか並んでいた。それは少し歯科医院を思わせた。事務所の方が壁で仕切られて、そこに印象派の花束の絵でも掛かっていればもっとそれらしかっただろう。
受付嬢は返却時の注意事項や保険加入の案内を一通りやって、契約書にサインを求めた。深理さんはボールペンを受け取って名前と住所と電話番号をしっかり書く。受付嬢と一緒に外へ出てスイフトのドアを開ける。僕は花と鞄を後部座席に置いて助手席に乗り込む。新しい車の匂いがした。たぶん石油系溶剤の匂いなのだろう。ドライクリーニングから戻ってきたジャケットも同じような匂いがする。深理さんが運転席に座ってエンジンをかけ、開けたドアから受付嬢がここがライト、こっちはワイパー、座席の調節はここ、と説明する。深理さんは一通りコンソールを触って、それから鏡の向きを確かめる。
「カーナビの設定はできますか」と深理さん。
「行き先の名前で探されますか?」
「はい」
「それでしたら経路案内から施設名で探すを押してください」
深理さんは指示通りに画面をタッチして五十音のキーボードを呼び出す。
「ああ、わかりました。これで大丈夫です」
「他にご不明な点はございますか?」
「いいえ」
「では、お気をつけて」と言って受付嬢は引き下がる。
深理さんはドアを閉めて「かわぐちぼしょ」と入力する。当たりが一件ある。市街地の外れのようだ。深理さんはそこに決定してワイパーを動かす。フロントガラスを覆っていた水滴がいなくなって前方視界がクリアになる。受付嬢の誘導で路地に出て、信号で止まって右指示。ナビも右折しろと言っている。受付嬢は後ろでお辞儀をしてオフィスに戻っていく。タイトスカートなので変に小股だった。
「この大きさに慣れてないから、そっち側擦らないように見ておいてね」と深理さん。
僕は窓ガラスに顔を近づけて下を見た。まだ白線が見える。
「そんなに細い道を……」僕は訊こうとして途中で言葉を切った。
「通るけど、訊いちゃだめ。今はまだ大丈夫よ。細い角を左折する時だけ気をつけて」
「すみません」
信号が変わる。頭をヘッドレストにぶつける。続いて左肩に体重が集まる。いささかレース感覚のスタートだった。サンバーよりスイフトの方がパワーもあるしスロットルの反応も早いのだろう。あるいはクラッチが浮いている感覚でアクセルを踏んだのかもしれない。こっちはオートマチックだ。とにかくまだ慣れていない。




