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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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非常階段のダイアローグ

アリゼのパートが長くなったので前節から分離しました。

 二時間ほど池辺が知り合いから収集した地震発生当時の状況をニュースのように聞かされながら作業をして、ごみ捨ては池辺、道具の片付けは僕の分担になった。ペンキ用の大きな刷毛やバケツを抱えて階段を上る。

 美術室には誰もいなかったけど、扉を開けると妙に風が強く吹き込んできた。非常階段の扉が開いていた。外に緑色のモッズコートを着た女の子が立っていて、後ろ姿では誰かわからなかったけれど、ストッキングに包まれた脚の形には見覚えがあるような気がした。

 アリゼは振り返った。髪型は綺麗なボブに戻っていた。コートにフードがついている上にファーもあるので後ろからだと襟裾の長さが見えなかったのだ。

「なんだ、君はこんなところにも出現するんだ」

「こんなところ?」

「僕のうちだけじゃなくて、学校にも」

「そういう思い込みがあるから、アリゼだってすぐには思わなかったでしょ?」

「うん」

「人間の識別って、場所の効果もすごく大きいでしょう? 効果というか、場所による限定というか。それは決め手にはならない。でも初めの気付きの部分は場所に依存しているのかもしれない」

「君はそれを僕に体験させたかったわけだ」

 アリゼは何も言わない。

「ここまで来たなら海部に会っていけばいいのに。まだいるよ。東北へ行って日焼けして真っ黒になってる」

「それはだめ。まだ修行中だから。会えないのは距離が離れているからではないの。ナンセンス。私はここにいるし、どこにでも存在しうるし、どこにも実在しないともいえる」

「そう、たしかそんな話もあった」

「座標が重なっていても、次元が違っていれば存在は接触しない」

 僕は上りの方の二段目くらいに腰を下ろした。風と景色が遮られて静かになる。アリゼのコートのファーが風にそよいでいた。

「私が狭霧なんじゃないかと、あなたは言った。でもそれは違う。あなたはただ彼女に特異性を与えることによって安易に特徴づけようとしていただけなのよ。姿を変えるものという特異性をね。だから私のような魔女が他に実在していることを認めたくなかったの。でもそれは危うい根拠だったし、実際、成り立たない。なぜなら私は存在しているし、私以外の魔女も存在しているから。その方法で彼女を識別することはできない。それは私のことを魔女というだけで識別できないのと同じ」

「僕は安直で危うい方法に頼ろうとしていたわけだ」

「別に間違いではない。でもあなたも狭霧もそれで満足できる人じゃないと思うの」

「なるほど」

 アリゼは景色に目を向けた。

「この世界は依然として存続しているわね」

「うん」

「どれだけ破壊されても、なかなか消滅するところまでいかない。ボロボロになって変わり果てた姿のままで生き続ける。その影響が届かない土地ではこんなふうにそれ以前の景色が残される。私は世界のあちこちでこの手の大地の変貌を見に行ったわ。そして必ず一度は上から見るの。破壊と健在がくっきり分かれているものがあれば、とても広い範囲にわたって深い破壊から浅い破壊までグラデーションになっているものもあった。あたりまえに存在していた地面の表と内側が裏返しになり、手に負えないほど変化してしまう。小さな人間だけが大きな環境全体の破壊から放り出されて生き残る。そういうのが好きなの。好きというか、気になるのね。そのあとどれだけ時間をかけてその土地が変化していっても当時の痕跡は消えないし、人間はその痕跡が形作る歪みのようなものの中で生きていかなければならない。それで思うの。この世界はそんなに都合よく死んだりしない。終わったりしないんだって」

 僕はアリゼの話を聞きながらその中にしこりのような妙な感触を覚えた。でもそれが何なのかすぐにはわからなかったし、わからないうちにアリゼの次の言葉がそれをどんどん押し流していってしまった。僕は話の最後の部分だけ頭の中で繰り返した。

「それでも世界がなくならないって、悲劇的なことだとは思わないけど」

「そう? だって、もう何もかもおしまいだと思っても世界は勝手に続いていくし、生きてていかなければならない。お腹は減るし眠くもある。終わりを終わりにするには無理やり自分を殺さなければならないんだよ。それって残酷じゃない?」

 僕はしばらく考えた。

「つまり、あなた的に言うなら、たとえ自分を守り抜いても、大地の変貌はきっと否応なく自分を変えてしまうだろうということよ」

「確かに、残酷かもしれない」

「そしてその手の大地の変貌の面白いところはね、少なからず上層と下層の転換を伴っていることなの。場合によってはそれは転換ではなく混合かもしれない。ほら、今度の津波は海底の泥を丘の上に押し広げたでしょう。それは海底と地表の階層の転換。火山の噴火は地中のマグマと地表の転換、地滑りも地表と地中の転換」

「どれも地表が潜っていく方向性を持っている」

「うん。だから土地とか場所とかの概念が揺らぐのね。そこに結び付けられていた座標が機能しなくなっちゃうんだ」

「泥、とは何なんだろうか」

「栄養であり、生き物の死骸であり、生き物のもとでもある。生命の苗床」

「全ては海から生まれていった、ということだろうね。その機能もまた地表に押し広げららた。それはむしろ再生の兆しにならないだろうか」

「でも再生は喪失を伴うでしょう? 喪失から始まるのではなくて、あくまで伴うの。それまでの姿や記憶を失っていくのだから。わかるでしょう?」

 僕は深理さんのことを思い浮かべた。そして夢の中で妹さんの姿を映し出した鏡のことを思い浮かべた。わかりすぎるほどわかることだった。

 そしてさっき感じたしこりの正体に気づいた。

「君は旅を続けている」

「そうね」アリゼは少し不思議そうに答えた。

「旅を楽しいと感じる」

「というよりも『面白い』でしょうね」

「どこか一所に定住したいとは思わない?」

「思わないわね。今はそういう時期だから」

「修行というのは変化の追求だ。君は姿も変えている」

 アリゼは後ろ手に手摺を掴み、軽くジャンプして手摺の上に座る。彼女の後ろに床はない。ひっくり返ったら四階分の高さから墜落することになる。

「そうね」とアリゼ。

「変化が君のアイデンティティなんだ。いや、正確に言うなら、変化は君のアイデンティティの一部であって、君のアイデンティティが変化というものに全部占められていると言いたいわけじゃない」

「なるほど」

「どうだろう」

「わからないわ。自分のことって意外とわからないものでしょう?」

「かもしれない」

「でも、論理として考えてみるなら、私が変化していく存在なのだとして、とするなら私のアイデンティティそのものもまた変化していくんだろうか。アイデンティティというのは不変のものじゃないの? 不変だからこそアイデンティティたりうるんじゃないの?」

 僕は悩んだ。

「私は姿を変えるし、たくさんの経験を重ねていく。居場所も変わる。でもどこかに通底するものを持っているから、私は私でいられる。そう思っているの」

「変化以外のアイデンティティに依拠しているということになるんだろうか」

「ということになるんだろうね。さあ、でも、わからないわ。私はあなたの思考に付き合っているだけだし」

「君ってわからないな」

「変化していくものを理解したり、固まったイメージを与えたりするのは難しいよ。それはあたりまえだ」

「でも僕は君の人となりのようなものを把握しかけているような気がするんだ。その、わからないという感触を通して把握しかけている」

「それってすごいわね。その抜け穴こそがアイデンティティの通り道かもしれないわけでしょう?」

「そうだね。そうだと思う」

 僕もアリゼもそこで少しの間沈黙した。静かだった。どこかとても遠くで鳴っている雷の音がいくつか聞こえた。晴れているのに雷なんて不思議だった。あるいは何かの爆発による衝撃波だったのかもしれない。

「私は旅を続けなければいけない」

「大地の変貌を捉えに?」

「そう、大地の変貌を捉えに」

「じゃあ、またね」

「また」アリゼは軽く手を上げて後ろに体を倒し、最後に手摺を蹴って姿を消した。

 僕はすぐに手摺の下を覗き込んだけど、アリゼの姿はどこにもなかった。つまり真下の地面にあるべき墜死死体のようなものは一切見当たらなかった。アリゼはどこかに飛んでいってしまったのだろう。できれば証拠になる光景を目にしておきたかったけれど、彼女は自分が魔女であることを海部以外に明かしてはいけないのだ。僕は海部じゃない。それは仕方のないことだった。

「何かあった?」開いたままのドアの中から尾上先生が訊いた。生徒みたいなジャージ姿で手に小さなペンキの缶を抱えていた。

「ああ、大丈夫ですよ」

「誰と話してたの?」

「アリゼです」

「アリゼ……何組だったかな」

「ああ、どうでしょう。組替えたばかりだから、僕も知らないな」

 先生もたぶん『魔女を辿って』に目を通していて、アリゼという語感には覚えがあったのだろう。でもピンとこなかった。あるいはアリゼが魔法を使って僕をややこしい問答から救ってくれたのかもしれない。そういえば普段よりすらすらとシラを切ることができた。僕はさほど頻繁にシラを切るような人間じゃないのだ。

 僕は扉を閉めて作業台に置いていた道具を準備室に仕舞った。先生も準備室でごそごそと道具を片付けていた。

「変化というのは、あるいは変化していく何かというのは、アイデンティティになりうるんでしょうか」

「変化はアイデンティティになりうるのか」先生はとりあえず繰り返してから、切りのいいところで腰を上げた。

「なりうるでしょうね」

「なりうるですか」

「うん」

 先生は腰高の棚に置いてあるカラスの剥製の頭をひと撫でした。

「私がイメージしたのは運動方程式ね」

「運動方程式」

「国語教師がとやかく言うのもケッタイだけど、物理で去年あたりやったでしょう」

「ええ」

「移動している物体は静止している物体と違って座標は一定ではないわね。でもその速度は一定かもしれない。あるいは速度が変化していても加速度は一定かもしれない」

「関数ですか」

「というか、変化していてもそこに秩序はあるかもしれないということを言いたいのね。たとえ変化していてもその変化のあり方が一定ならそれも人としての軸になりうるだろうし、さらに言うなら、たとえ変化のあり方が変化しているとしても、やはりその変化の変化のあり方が一定なら軸になるでしょうね、ということ」

「微分的だ」

「そういう言い方もできる。でも人間を数学的に分析していくのはたぶん誤謬を生む。もちろん言葉でも語り尽くせない。私はただカンファレンスを示しただけ」

「それはわかります」

「疑問は解消した?」

「はい。かなり」

 先生はカラスの剥製を頭から尾っぽに向かって二三度撫でた。手触りが気に入っているようだ。

「じゃあ、片付けに戻らないと」

 僕は美術室に出たところで立ち止まって窓の外を見た。もちろんアリゼの姿はどこにも見当たらなかったし、遠い雷鳴も聞こえなくなっていた。


 それ以来僕はアリゼを見ていない。現実でも、夢の中でも、彼女を見ていない。旅を続けているのか、海部のもとへ帰ったのか、それともどこかで自我を失って死んでしまったのか、それさえ僕は知らない。知らないけれど、それは彼と彼女以外誰も知る必要のない問題なのだろう。

 少し先のことだけれど、海部は高校卒業まで『魔女を辿って』を書き続けた。その物語は完結しなかった。物語の中でアリゼは旅を続けている。きっと彼は大学に行ってもどこかにアテを見つけて書き続けているのだろう。


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