形代は空を巡る
「相当古いもんだな」食べ始める前に納戸の鍾馗を見てきておやじさんは思い出しながら言った。「三十年くらいは昔のものだよ。まあ、直してみたいなら直してみればいいじゃないか。目立った傷もないし。飛ぶかどうかは、まあ、わからないけど」
確かにおやじさんの言う通り、機体は埃やらヤニやらを被っているだけで形はしっかりしている。大部分が軽い木材で組まれ、下地に張ってあるのは布だろうだけど、乾漆のように塗装が厚い被膜になっている。けれど問題は内側で、エンジンも舵のワイヤも錆だらけだった。エンジンは全体が真っ黒で中も油で固まっていてプロペラが回らない。自転しないというのではなくて、手で捻ってみてもびくともしないのだ。機体に固定しているビスを外し、駐車場に新聞紙を敷いてとりあえず呉556をさしてみた。少し待って改めてプロペラを回す。ぱきっと錆が割れる音がして固着が解け、回るには回るけれどかなりどろどろしていた。分解してみないといけないかもしれない。
おやじさんか一服がてらサンダルをつっかけて様子を見に来て「分解してみればいいさ。グリスが悪くなってるんだよ」といった。僕に任せてくれるわけだ。
でもまずは店の片付けを進める。部品を探し、集め、壊れていないか確かめ、箱の中に収める。スケールとメーカーごとに固めておく。ここまでで三日。箱は一面に低く積み上がっている。もともとウォール街だったものが足立の下町になったような具合だ。ウォール街を再建しなければならないわけだけど、そのためには高く積み上げた箱を棚に固定しておくためのものが必要だった。
四日目、おやじさんと二人で歩いて千住大橋を渡って南千住のホームセンターまでトラックの荷台に積み荷を押さえつけるためのゴムバンドを買いに行った。荷物のことを考えるとサンバーを出すべきなのだけど、どこかで渋滞にはまって身動きできなくなるのも迷惑なのでやめておいた。
店に入ると、大半の客が日用品と食料品の区画にごった返して業務用品区画は閑散としていた。水と食料の棚はすっからかんなのに工具やオイルの棚はみちみちだった。それでもよく見るとポータブルジェネレーターと懐中電灯は売り切れていた。ついでに錆落としと合成洗油も買った。もちろん在庫はたくさんあった。
棚が十四脚に各二本。ゴムバンドはなかなか重量があって、空のリュックサックを二つ持ってきたので分担して詰め込んだ。それでも肩紐が裂けないか心配になるくらいで、背負うと何だか意思を持って僕の背中を反らしにかかっているみたいに肩が引っ張られた。かなり前屈みにって俯かないと本当にひっくり返りそうになる。それで二人縦隊をつくると、まるで泣く泣く徴兵・再召集された少年兵と後備役軍人が部隊からはぐれて行進しているみたいな気分だった。僕らは感性という感性を失った抜け殻のようになって手島模型に帰還した。自転車の筋肉痛から回復しつつあった妹さんは玄関に伸びた僕を見てけらけら笑った。私の苦しみがわかったかとでも言いたげだった。
深理さんはカウンターの内側に部品の足りない箱を詰め込んで、トレーに集めた部品や欠片を指先でかき混ぜながら説明書にあるシルエットに似たものがないか探していた。あるいはそれは入荷した時から欠落していたのかもしれず、ただの棒や板にしか見えない灰色一色の中から特定の一つを見つけ出すのはほとんど不可能な試みに思えた。実際深理さんは何度も頭を抱え、カウンターに突っ伏し、とめどもなく溜息をついていた。集中力は十五分も持たない。記憶力のいい深理さんですらその状態なのだから、どう考えても他の人間には務まらなかった。
僕は砂糖のたっぷり入ったインスタントコーヒーを人数分作って彼女にも持っていった。それで他に座れる場所もないのでカウンターの上に座ってアン・ロジャースの話をした。狭霧がメールで語ってくれたハリケーンのパイロットの話だ。彼女はジャンクヤードに運び込まれた屑鉄の中からかつて自分が乗った飛行機の破片を見つけ出し、でもバケットの中へ返してしまった。
「それはあまりに運命的なんです。その破片と彼女が同じ時間、同じ空間に居合わせたこと、その部品にシリアルが刻まれていたこと、彼女がそのシリアルを憶えていたこと」
「つまり、彼女たちは互いに目印を持っていたのね。本来パイロットと飛行機の関係で知るべき以上の情報を持っていたんだわ」深理さんは自分の目の周りを押さえながら言った。「それは一対一だから可能なのね。今の私の場合、こんなに大勢の面倒を一度に見ないといけない。一つ一つに目印があっても見分けられない」
カウンターの中にがたがたと積まれた箱はざっと百以上ありそうだった。
僕とおやじさんで棚の柱にゴムバンドを渡し、通路に溢れている箱の山を重ねていく。大抵のメーカーは発売順に番号をつけているから、それに従ってできるだけ並べて積み直す。入れ損ねた分が後で出てきた時のために上の方は少しずつ開けておく。バンドは横に長く渡して、隠れている箱もバンドをずらせば取り出せるようにした。全部の箱がまんべんなく押さえられているわけじゃないけど、ビルのように上から下まで一体になって揺れるのは防げるし、応急処置としては悪くない仕組みだった。中身に損傷のあったものを除けば積み直しは一日で終わった。五日目午後、カウンターの方から入り口を眺めるとなかなか壮観だった。箱の面が揃っていて外の光を綺麗に反射するのだ。それこそガラス張りのビルみたいだったし、ウォール街といって差し支えなかった。
夕食までにまだ時間があったので鍾馗のエンジンを開けてみた。長い間掃除をしていないトースターの中と同じような有様だった。ブリキのバケツにお湯を張って、計量したクリーナの粉を溶かし、その中に分解した部品を漬け込む。一日は待たないと汚れが浮かないそうだ。その間にキッチンペーパーとマジックリンで機体の表面を拭いた。黒い脂が取れて内側から鮮やかな緑色が現れる。しかし鮮やかというのは軍用機にあるまじきことで、思いの他おもちゃっぽい。ちょっと後悔に焦りながら引き目に見て、脂だらけのままの方が渋かったかもしれないと思う。でも拭いてしまったところがあまりに目立っている。引くに引けないところまで来てしまったわけだ。もう全部やってしまわなければ仕方がない。終わる頃には指がしわしわのべたべたになってマジックリンの匂いが染みていた。押入れに突っ込む前はまさか換気扇の下にでも飾っておいたのだろうか。
次の日、六日目。バケツを覗くと溶液は真っ黒になっていて、昨日の反省からゴム手袋をして中身を取り出すと黒ずみが消えて地色の光沢が戻っていた。窪地にはまだ黒いのが溜まっているので掃除用にした歯ブラシでひとつひとつ掻き出す。鉄の匂いと指先の汚れ。中学時代の工作を思い出した。最後にネジの一本を磨いて溶液をキッチンペーパーで濾して流す。クリーナーの袋にはそのまま下水に流せますと書いてるのだけど、どす黒いのをそのままというのはさすがに気が引けた。部品は水気が切れるまで新聞の上に置いて干しておく。
これでエンジンが動くかどうかは燃料を流してみなければわからない。
「きれいになったな」また一服の時におやじさんが言った。かなりの感嘆で、さすがにここまでぴかぴかになるとは思っていなかったのだろう。僕も同じ気持ちだった。
「あとは組み戻して回してみるだけですね。燃料はないですが」
「いいよ。仲間に訊いて頼んでみよう。エンジンはラジコンでもユーコンでも変わらないだろう」とおやじさんが言うので調達は頼んでおいた。軽油でもガソリンでもなくてメタノール系の燃料を使のでガソリンスタンドでは買えない。似たようなエンジンを載せたラジコンも多いので筋の知り合いに訊けば手に入るかもしれない。
ゴム手袋を干して手を洗う。ひとまずカウンターを覗いてみたけど、トレーの上に形状別に分別された部品が置いてあるだけだった。休憩中らしい。深理さんは二階の書斎にいた。明るい青色のシャツ、ジョーゼットを重ねたふわっとした白いスカート。脚を組んでいた。僕が上がって行くと「終わったの?」と顔を上げた。
「はい。あとは燃料だけです」
「コーヒーでも淹れようか」
「いいえ。今は大丈夫」
「そう」深理さんは閉じた本をテーブルに置いて、ふっと息をつく。
「邪魔しちゃいましたね」
「いいえ。この間ここの本棚も随分散らかったでしょ。それで由海が片付けた時に古い本を結構発掘したのね。意外とフランス語の本があったりして」
「おやじさんの?」
「そう。でもそっちの部屋にあるのよりもっと古いものね。それで、前にミシロくんとイギリスへ行った子の話をした時、その子サンテグジュペリが好きだって言ったわね」
彼女は本棚を開いてペーパーバックを一冊取り、表紙の向きを確認して僕に渡した。僕はフランス語は読めない。でもサンテグジュペリの描いた王子さまの絵はそのままだった。
「読んだことある?」
「日本語版なら」
「キツネが木の根元に隠れて、なついてないから近づけないよって言うでしょう」彼女は話を続ける前に本棚の扉を閉めて椅子に戻った。右手をテーブルの上に寝かせて掌の底の膨らみを反対の指でかりかり触っている。「私は昔からあの言葉がなんとなく気に入ってるの。失ったって何でもないものが、ふっと、かけがえのないものに変わる瞬間を、なつく、なつかれると、彼はそう表現しているのよね」
僕は本を閉じて腹のところを浅い角度で見た。指の跡がついている。何度も読み返された痕跡だ。
「この本は大人たちの世界への失望で満ちているけど、それは思想ではなくて、彼自身が訪れた誰もいない遠い世界の数々から見ればこっちはなんておかしなものなんだろうって、それだけのことよ。それはただ感性であって、彼の格調高い文語には砂漠の気高さが宿っているの」
深理さんは二脚の椅子をテーブルの同じ側に集めてその片方に僕を座らせた。ほとんど横並びなので彼女の手元がよく見える。
彼女は『星の王子さま』を開いて、読んでいるところに人差し指を当てながら読み上げた。始めからではなく途中からだった。フランス語はわからないけど、王子さまと広大な砂漠のスケッチが出ているので地球に降り立って蛇と出会うところだとわかった。
どこまでも広がっている砂漠を見て、王子さまは人間たちがいなくて寂しい場所だねと言う。
するとヘビは人間たちのいるところでも寂しいさと答える。
王子さまはヘビを変な生き物だと思う。指みたいに細くて力も弱そうだ。
でもヘビは触れたものをもとの土地に帰す力を持っていて、もし帰りたくなったら言ってくれよと言う。
王子さまがキツネに出会うのはそのあとのことだ。
鍾馗のエンジンは動いた。駐車場で手島家の三人に立ち会ってもらって、申し訳程度の防音に姉妹が男物の傘を二つ開いて肩にかける。まずはエンジンを機体に据え付け、タンクに燃料を入れて流量調節ニードルを開き、ブースターをシリンダーの上に立てる。ブースターってのはシリンダーを温めてエンジンがひとりでに動き始めるのを助ける機械だけど、これもおやじさんが手に入れてくれたものだ。それからボールペンでプロペラを叩く。しばらくは何度叩いても反抗期みたいにぐらぐらしているだけだったけれど、腕が攣りそうになってきたところでようやく自分で回り始めた。ぽこぽこという音がして、利根川の河原で見たラジコンの月光に比べるとかなりしょぼい感じだった。それでもプロペラは芝刈り機のように強烈に回った。組み直して最初の運転にはエンジンを油に慣らしておく役割もあるので、少しニードルを絞ってしばらく回しっぱなしにする。
実際飛ばしてみたのは少し後のことで、三月の終わりの朝、江戸川の河川敷の人気のないところまで車に鍾馗を乗せていった。妹さんも寮の水道管の修理が後回しにされているせいでまだこっちに留まっていたのでついてきた。荒川でないのは都の規制が酷いからだ。
河原に下り、ワイヤーを伸ばしてどれくらいの半径を取るか確認する。
エンジンをかける前に深理さんは土手の上から拾ってきた石を川に放った。コンクリートの破片みたいな面の多い取り柄のない石だった。石が川面に落ちるのと同時に我々は一分間に及ぶ黙祷を捧げた。僕は陸に上がった黒い津波の姿を想像したあと、目を開けて水面の波紋を眺めていた。妹さんはぎゅっと目を瞑って手を擦っていた。深理さんは胸の下で自然に手を組んで僕より遠くに目線を上げていた。おやじさんは額の前でちょっと手を合わせた後すぐに下ろして唇のささくれを噛んでいた。
最初は経験のあるおやじさんがハンドルを握る。鍾馗はエンジンをぼこぼこ鳴らし、プロペラで風を切りながらがたがたと滑走してゆっくりと空に上がった。燃料を少なめにしたので二分ほどでエンジンが止まって降りてくる。一人ずつ操縦士を替わって燃料を足す。シビアな操作が必要なものだと思っていたけれど、自分でやってみるとまっすぐ飛ばしている分には案外安定していた。それより飛行機の外側へ飛んで行こうとする力が強くて、しっかり反対方向へ体重をかけておかないと一緒に飛んでいってしまいそうな気がした。最初の飛行ではとても曲技はできない。一番長い時間飛ばしていたのは妹さんだった。すごく楽しそうに何周も飛ばして、そのあとで目が回って吐きそうな顔をしていた。
それが僕と手島家なりの鎮魂と祈りの儀式だった。Uコンはさすがに我々だけだったけど、いくらか離れて凧揚げをしているのは何組かあった。それらもまた古い押し入れの中から出てきてしまったものたちなのかもしれない。
もともと納戸の深奥に押し込められていたものだから、鍾馗を飾っておくためのスペースを絞り出すのには少し苦労した。天井にネジを打って紐で吊るすか、棚のてっぺんの間に板を渡しておくか、いくつか案が出たけれど、最終的に32スケールの棚の横、物置の前の少し奥まった壁に嵌るように金網のロフトを打ちつけて、その上に地上姿勢で置くことにした。高いところに置く案としては灯りや空調の邪魔にならない唯一の策だった。妹さんはそれをまず「ご神体」と称した。それから何日かすると自分でも違和感があったのか「神棚」になっていた。
エンジンの試運転で手島姉妹が傘を広げるシーン、というかカット。このカットが僕はこの作品で一番好です。決して描写的ではないんですが、とても華やかで綺麗なんですよ。だからもう少し丁寧に書いてもいいはずなんだけど、何だか野暮ったくなってしまいそうで、ひとことふたことのさらっとした短い描写だからむしろいいのかもしれません。全体的に描写の重い小説ですから、逆に浮き立つというか、そういう趣があってもいいんじゃないかと思います。




