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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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遠い声

 思い返してみれば深理さんはこの時ようやく緩やかな崩壊から抜け出して再生と回復の方向へ舵を切ったのかもしれない。

 それから彼女は何か思い立って玄関に回り、二階へ上がってカメラを取ってきた。店の表とカウンター側から何枚か撮っておく。記録用らしい。レンズにキャップを戻し、改めて立ち尽くす。

「これは大変だわ」

 何も積み直せばいいというだけのことではないのだ。蓋が開いて中身が散らばっているものは説明書に照らし合わせて中身が揃っているか確認しなければならないし、箱が折れたり破れたりしているのは直さなければならない。

 二人で話し合って、まずは東側の通りを空けて店の入り口までの足の踏み場を確保することにした。比較的状態のいいものは居間に積んでおく。中が出ているのがあると深理さんはそこへしゃがみこんだまま、説明書に目を通して、ランナーを取り上げてみたり、デカールの台紙が傷んでいないか透かして見たりする。家族のアルバムでも捲るみたいに、彼女の心は穏やかに凪いでいる。しかしそれも永遠ではない。

「あ、ごめんね。私サボってるよね」彼女は慌てて蓋を閉じる。

 決して邪魔するつもりはなかったけれど、僕が仕事を続けていても、静かに見守っていても、そこに僕の存在がある限り彼女はいつか気付いてしまう。

 人間は喪失を怖れる。避けようとする。よくできたものが壊されること、炎に焼かれること、水底に沈むこと。けれど時間とともに存在は脆くなり、色褪せていく。代謝が必要なのだ。古い型枠の中で作れるものの幅には限界がある。新しい家も古い敷地区画の上に建てられる。新しい道も古い家々の隙間に引かれる。人間は災害や戦争といった一面の破壊との駆け引きの中で全く新しいものを生み出してきた。圧倒的な力で破壊されてようやく制約のない自由な再生が可能になるのだろう。

 でもそれだけだろうか。

 手島模型の陳列棚は長年の間にメーカーの別や品番の順がだんだん投げやりなって適当に積み上げられてきた。次に積み直す時はきちんと番号順に並べるだろう。けれどそれは手島模型にとって最初の姿の回復であると同時に、今まで堆く積み上げられた無秩序さが失われることを意味している。

 片付けといってさも当然のように順序通りに並べ直すのは、実はもう一度無秩序に置き直すのが難しいからなんじゃないだろうか。上から下へ1234と品番順に並んでいればいいのだろうけど、全く法則性なくごちゃまぜになっていたら写真でも撮っておかなければ憶えておけない。もしその無秩序の中に手島模型を手島模型たらしめる独特の雰囲気が隠し込まれていたのだとしたら?

 僕は考えながら作業を続けた。その間何度か小さな余震がやってきて方々に積もった埃の粉末を奮い立たせていった。模型の山は少しずつ低く裾野を広げ、空になった棚の骨組みが虚しく揺れた。我々はその度に一応カウンターの前まで退避して揺れが収まるのを待った。化けコウモリみたいな空調機はしっかり天井にくっついたままぐらつく気配も見せなかった。

「本当に、人間は経験してからでないと学ばないのよ」何を考えていたのはわからないけれど深理さんはそう呟いた。「あの棚ね、何かしら地震対策をしないと、もしか余震が来た時にまた崩れるわね」

「手っ取り早いのは引っ越し用のバンドか何かを張り渡しておくことじゃないでしょうか。それかお金はかかるだろうけど、図書館みたいに箱の幅に合わせて段組みをして落下防止用のバーをつけるか」

「図書館だったら見栄えはいいわね」

「でも元手がない」

「そうかな? すぐには払えないわ。だけど模様替えにと思ってある程度貯めてたのよ。そろそろ潮時とは思っていたから」

 我々はさらに一時間ほどかけて入口正面の通路を開通した。「おなか減らない?」と深理さんが言うので一息入れることにする。この時は僕も何か甘いものを食べたい気分だった。食器棚の下から焼き菓子の箱を出して、小分けになっているのをひとつずつ開ける。梅花を模した形で中に濾し餡が入っていた。美味しい。ぱさっとしたところがなく全体的に均整のとれたしっとり感だった。常連さんが差し入れてくれたものらしい。

 お湯を沸かしておいてインスタントコーヒーを淹れる。液体は黒く澄んでいて味は薄く焦げ臭い。牛乳を足すと溶けきらなかった粉が浮いてきた。

 テレビでは各地の被害が数字になって出始めていた。

 現地の映像は暗くなりつつある。地表を覆った水面が静かにその場に留まって鏡のように薄い夕日を映している。僕はとても素朴に綺麗な景色だと思った。巨大で、禍々しく、だからこそ綺麗な景色だった。

 それから夕食の支度を始める。難しいものは作らない。深理さんに任せて僕はテーブルを片づける。通路を開けるために住居の方までかなり散らかしていた。

 居間に持ってきた無傷の模型の箱を壁際に寄せて積んでいると、裏口の扉から誰かが入ってきた。妹さんだった。彼女から最初に見えたのが僕だったらしく、戸口に立ったままむっとした。僕は小さく手を上げて挨拶を返す。そうやって愛想を見せたつもりだけれど、僕だって内心むっとしていた。

 彼女はショートブーツのファスナーを下ろしつつ「おねえちゃーん」と呼び、床に上がって台所に入った。

「え、どうして?」と深理さんが言う。「寮にいたんじゃないの」

「そう、寮にいたよ。三時くらいまではね」妹さんはリュックサックを階段に下ろし、黒いインバネスコートを脱いで、僕が空けたばかりのテーブルの上が濡れていないか屈んで光の反射で確認してからそこに置いた。中はキャラメル色のジャンパースカート。「でも水が止まっちゃってさ、止むに止まれず帰ってきちゃったのさ」

「電車動いてたの?」

「んなわけないじゃないの。電車じゃなくて自転車よ」

「寮からここまで? 嘘でしょ」

「ほんと。そうでなきゃどうしてこんなにへとへとになってんのよ」妹さんはそこまで言ってひとつ大きなくしゃみをする。両手で口をふさいだまま二階に上がる。洗面所でうがいをするのが聞こえる。一度下りてきて鞄と上着を拾って二階に持っていき、戻ってきた時には使い捨てのマスクをしていた。鼻筋のところにきちんと折り目をつけて隙間がないようにしている。

「今日は一段と酷いなあ」妹さんは籠った声で呟いた。

「地震のせいでしょう。今まで大人しくしていた目に見えないくらい小さな埃が舞ってるの。連中も地震に叩き起こされたのよ」

「それにしたってプラモの箱がこっちまで流れ込んでるし」と模型の箱の山を諸悪の根源みたいに見下ろす。

「店の方もいっぱいいっぱいなんだよ。かなり崩れたからね」僕が言った。椅子を出して部屋の隅で仕事を続ける。

「由海、ご飯は食べたの?」

「食べてない」

「ろくに用意してなくて。焼きそばでいい?」

「うん。食べる」

 姉妹が料理を運んでいる間に僕がテーブルの周りを片付ける。ソース焼きそばにはざく切りのキャベツともやし、シーフードミックスのエビとイカとアサリが入っている。各自小皿に取って青のりやマヨネーズをかけて食べる。付け合わせは味の浸みた作り置きの高野豆腐。

 妹さんは最初大学にいたという。学科の研究室もかなり本が散らかったらしい。窓ガラスも何枚か皹が入ったし、広い教場では何ヶ所か天井のパネルが落ちて粉々になっていた。寮と大学は自転車圏内なので帰るには支障なかった。帰ってみるとセキュリティはダウンしているし、エレベーターも使えないし、水も止まるし、それで帰省を決めた。部屋の中も荒れ放題だけどとりあえず倒せるものだけ全部倒してそのまま出てきた。街路はともかく、駅前はどこも人で溢れているし、橋の上は上りも下りも車がぎちぎちに渋滞していた。

「そういう判断が早いところ、野生の勘よね」と深理さん。

「そういう?」妹さんは訊き返す。

「大学も寮も、片付けの手伝い一つしないで出てきたんでしょう?」

「だって、そうしないと、夜になったら移動できないよ」

「別に責めてないのよ。大学に泊まる人、寮に残る人も多いはずで、そこはよく判断したわねって言ってるの」

 食後に玄米茶を入れてコップで飲む。妹さんはマスクの具合を直して店の照明を点け、そして一つくしゃみをする。

「ところで、模型は無事だったの?」妹さんは鼻をずるずるしながら訊いた。

「表のは全部無事。棚の方は全部ってわけにはいかなかったわ。いくつか中身がだめになってるのもある。つまり、部品が折れてたり」深理さんはだめになっている模型の山からエレールのP39の黒箱を取って中を開ける。ジョルジュ・オリヴローのかっちりしたボックスアートで、真横から描いているのと飛行機の色のせいで装甲車両みたいに見える。

「そんなの売り物にならないじゃないの。どうするの、すっごく安くするの?」

「甘いわね。その逆よ。高く売るの」

「どういうこと?」

「うちにはプラモデルを作れる人がいるじゃないの。その人が綺麗に作って売ったら、優に十倍から百倍の値段が付けられるわ」

「それって部品が割れてても品物として、その、品質に問題はないの?」

「全然。だって、模型を綺麗に造りたい人はもとのキットの悪いところを直すために切ったり貼ったりを散々やるもの。そのうちの一つだと考えればいいのよ。モデルを綺麗に造れるだけの技術があれば、亀裂のひとつやふたつどうってことないの。そうでしょう、ミシロくん」

 深理さんが僕を見る。妹さんも僕を見る。僕はとびきり美人の姉妹に見つめられる。微笑を返すしかない。

「そうなの?」妹さんが僕に訊く。

「さあ、どうかな。一概にモデラーといっても技巧はピンキリだから。おやじさんのようなスーパーモデラーはほんの一握りだよ」僕は相手が求めている答えを言った。

「お父さんってそんなにすごいの?」

「すごいよ」

「あなたはどうなの?」

「どうって?」

「つまり、スーパーモデラーなの?」

「わからない。こないだ君が壊したのを除くともう五年くらい触ってないから、少なくとも最盛期よりかなり腕が落ちていると思うよ」

「また何の証明もなしにぐちぐち言ってるわね」

「昔作ったのはとってないんだ」

「そうじゃなくて」

「そうだ、そろそろお母さん仕事終わったんじゃない?」と深理さんが割って入る。席を立って電話をかける。向こうは震度が小さかったから家に帰ってテレビでも点けないとことの重大さに気付けないかもしれない。少なくとも昼の間に連絡はなかった。とりあえずこちらの様子だけでも伝えておこうということだろう。深理さんが五分くらい、代わって妹さんが一分くらい喋った。身内だけで話が始まると僕は少し居心地が悪くなる。

 それから玄米茶を空けて店の片づけを少し進めた。妹さんは埃を嫌って二階に逃げ、至って自主的に本棚の片づけを始めた。本が好きそうな人間には見えないけど、でも手際さえよければ関心のない人間の方が片付けには向いているのかもしれない。途中で中を捲って手が止まることもないだろうし。

 僕は途中で公園に出て携帯電話に来ているメールの確認をした。案外大勢の人々が誰かの心配をして、案外大勢の人々がそれに答えていることがわかった。僕はその一部に短い簡潔な返信を書いた。残りの大部分は一斉送信の流れ弾だった。

「無事?」狭霧のメールが訊いていた。幸いその宛先に入っているのは僕のアドレスだけだった。

「無事。手島模型にいる。ここの人たち、僕の家族も無事。」僕はやはり電報みたいに短い簡潔な返信を送った。届くのかどうか不安だったけど、返事はすぐに来た。まるで狭霧は机にかじりついて携帯電話をじっと見つめていたみたいだ。

「よかった。」

「でも模型の山は崩れた。これを直すにはとても長い時間がかかるし、残念だけど元通り無秩序な並びに戻すのは無理だ」

「がんばってね」この返信には少し間があった。笑ってくれていればいいんだけど、でもだとしてもそれを表に出す気分になれなかったのかもしれない。無線手の話の引用がついた長いメールが届いたのはそれあと半日ほど経ってからだった。

「おーい」と小声で深理さんが呼ぶ。

 僕は振り返って彼女を見たけど、でも店の前に立っているのは妹さんの方だった。僕が声を聞き違えたのだ。

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