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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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泥波

 その時震動のような細かい揺れが来た。

 脚立の上で平衡感覚が混乱しているせいか僕はすぐには気付かなかった。やっと揺れを感じても脚立の足の下に挟んだチラシが外れただけだと思った。

 入口のつららチャイムが鳴り始める。

「降りなさい」深理さんは言った。

 いい加減揺れの長いのが不気味になってくる。

 僕は命令に従って一段ずつ自分の足を見ながら下り、カウンターの前まで脚立を引き摺った。深理さんは古い蛍光灯を片手に、空いた手で既に通路の方へ滑り出しつつあった模型の箱を手当たり次第に叩き戻しながら歩いてきた。

 まだ揺れている。二人で脚立を畳んで下に寝かせる。それでも揺れが大きくなるばかりなので居間に引っ込んだ。小さく折ったチラシのことは忘れていた。

 それでもまだ本震ではなくて、一番大きい揺れが来るのはそのあとだった。もしこの家が飛行機の中にあるのだとしたら、乱気流に巻き込まれる時はこんな感じだろうか。世界から摩擦力が消え去る瀬戸際みたいに、ただ置かれただけのもの全てがぐるぐる滑り出そうとしていた。扉という扉は開こうとしたり閉まろうとしたりを繰り返していた。居間の食器棚やらテレビ台は金具で壁に打ち付けてあるので無事だったけれど、問題は店の方だ。棚は床に据え付けられているからいいとして、積んであるだけの模型の箱は全部が全部好き勝手な方向に吹っ飛んでいって、別の方向から飛んできた箱とぶつかって弾けるなり中身をぶちまけるなりしながら雪崩の要領で床を覆い隠していった。

 僕は店と居間の間で壁に手をついて、深理さんが狛犬のようにしゃがんで店の成り行きを見守っている上に被さっていた。揺れに慣れてくると彼女は振り向いて、自分だけ庇われているのがなんだか無様に思えたのか、片手を伸ばして僕の頭の上に――実際は届く範囲で耳の上あたりに――置いていた。

 揺れが収まる。たぶんもう揺れていない。つららチャイムの音は余韻。シーリングライトの引き紐を一度止めて静かに離す。わずかに揺れてそのまま振れ幅は小さくなる。

 揺れに慣れたせいで感覚の方がまだゆっくり揺れていた。

 物音の激しかった台所に入る。乾燥籠が倒れてシンクにお皿が散らかっていた。惣菜にして使った枚数が少なかったのが幸い、割れているものはない。食器棚やテレビ台も中身が滑って移動しただけで済んだ。とりあえず庭のガラス戸を開けておく。どこかでイヌが延々と吠えているのが聞こえた。

 深理さんは二階に上がったらしい。階段を見上げると踏み板の並びがかすかに捻れているような感じがしたけど、それはもとからかもしれない。二階の床の縁から何かしら箱の角がはみ出して見えた。本棚の上からこぼれたもののようだ。上がっていくと彼女は奥の間でコントラバスのケースを開けていて、振り返って手でオーケーサインを作った。ボディは宝石のような艶を保っている。彼女は駒を掴んで小さく左右に揺すってみる。びくともしない。大丈夫。ケースを閉める。ロック。

 二階は振動で外れた襖が何枚か倒れたのと、やはり箪笥や本棚が動いて上に乗せてあった靴箱やアルバムのケースが落ちて中身が床や畳の上に散らかっていた。次の間におやじさんが築いた研究書の山は店に引けを取らないくらいの崩壊を成し遂げていた。地質学で山崩れの標本に使えるんじゃないだろうか。ともかく動線を確保するために拾って壁際に寄せておく。研究書はほぼ哲学と哲学史絡み、日本語とフランス語が半々で英語が少し。アルバムは背表紙に「リヨン2004~2006」「長野」「スペイン2008」などサインペンの深理さんの字で書いてあった。

 本棚の中はなかなか壮観だった。扉がしっかりと磁石に押さえられているので中身が吐き出されたわけではないのだけど、ガラスなので滑り出して中の棚から外れたありとあらゆる文庫本が張り付いてまるで朝にダイヤが乱れた時の埼京線みたいだった。

 ガムテープのロールを店のカウンターから取ってきて次の余震が来る前に戸棚という戸棚の扉を片っ端から塞ぎに回る。箪笥、食器棚、台所の天袋。とりあえず中の状態はどうでもいい。早く封印。除霊の札よろしく斜めに貼ったり十字に重ねたりする。

 その間僕は僕の家のことが気掛かりだった。マンションの部屋のことだ。あっちは建物の背が高いから長い揺れで共振が起きる。もしかしたらキャビネットやなんかが倒れているかもしれない。狭霧のワイバーン、伯父さんのレコードは無事だろうか。

 外界の様子を知りたかったので居間に戻ってテレビを点けた。宮城の田園地帯を浸食する津波の空撮が映っていた。茶色いスライムのような波は何の抵抗もなく休耕田の上を滑り、ビニールハウスをへし折り、用水路にぶつかって渦巻き、飛沫を上げていた。

 何とも表現しがたい感じがした。何より超現実的だ。それが今この時に、しかも陸続きのどこかで起きていて、それの映像がリアルタイムであるということ諸々に妙に納得が及ばない。宇宙や太陽の終わりを描いた天体シアターのプログラムを見ているのと同じような気持ちがする。

 波は川に沿って内陸へ登り、水嵩の増した下流の方から堤防を乗り越えて外へ外へと走っていく。家も橋もその勢いの妨げにはならない。田畑や畦や水路やあらゆる地表の境界・区別を破壊し、黒い土色に均していく。飲み込まれた地表は姿を消し、水に削られ、押し潰されながら海底の泥と混ざり合う。

 波は速さも勢いも全く衰えないまま陸地を浸食していく。その様はイワシやアリや何か小さな生き物の集合体が単純な意志の共有に従ってお互いの結合を乱すことなくひとつの物体として振舞うのを連想させた。それが生き物ならば自分の内側のエネルギーを使って抵抗に逆らいながら進んでいくのも理解できる。けれど実際にはそれは水と堆積物の混合物だった。

 広がってゆく海は上空から見れば薄い膜状の流れに過ぎなかった。だからなぜ一向に速さが落ちないのか、なぜ地面に浸み込んでいかないのか、僕はそれが不可解でならなかった。早く止まれ、もうそこで止まれ。そんなふうに祈っていた人が同じ映像を見ていた中には結構いたんじゃないだろうか。

 深理さんもまたリモコンを持ったまま椅子の前に立ってテレビを見つめていた。自分の体を忘れているようだった。

 この家にも暗い水が押し寄せ、ブルドーザのような重い泥の波が自分を呑み込んでいくところを自分の感覚に写していたのかもしれない。ここには水の重さも、力も、匂いもない。けれど幻想の中で彼女は他の全ての物質と混ざり合い、形のない、由来のない、単なる元素に分解されていく。

 電話が鳴る。居間の電話だ。それが彼女を水中の夢から浚い上げた。僕も気付いて立とうとしたけれど彼女の方が初動が早かった。

「もしもし、ああ、お父さん。うん、深理です」彼女は受話器を両手で支えて相手の声を聞く。「そうなの? それで、大丈夫なのね、なんともないのね?」右に傾いて肩で壁に寄りかかる。「そう、じゃあ迎えに行った方がいい?」それから相手が少し長く話す。彼女はその間何度か頷きながら、まず左手を空けてコードのコイルを指で弾いてみて、しごいたり指を輪っかの中に通してみたりする。それから一旦体を起して背中を壁に向けて寄りかかり、僕に向って心配ないというふうに微笑してみる。「わかった。ミシロくんもこっちに居るし、二人でなんとかしてみるからね、大丈夫。何かあったら連絡してね。……じゃあね」とそれを最後に受話器を置く。

 深理さんは姿勢よく椅子に座って電話の内容を話す。「お父さんからだったわ。今出先の大学だって。公衆電話にすごい列ができてて、二時間くらいも待たされちゃったって。酷いもんよ。で、その間に人に聞いたところによると、電車なんか軒並み止まってるし、動こうにも何をしようにも普段やらないことをしようとすると二倍でも三倍でも時間がかかっちゃう状況みたいなのよ。そういうわけで車で迎えに来るなんてことはやめた方がいいし、幸い仲のいい教授先生のいるところだから、最悪夜まで交通が復活しなかったら研究室に泊めてもらえるって」彼女はそこで言葉を切って、中指をテーブルの縁に滑らせる。伝え残しがないか考えたのだ。「ミシロくん、君のご両親の所にも電話しておいたら?」

「きっと大丈夫ですよ。回線も混んでいるだろうし」

「いいえ、しておきなさい」

 僕は少なからず気押されたけれど、とにかく立ち上がって電話の所へ行き、受話器を取って番号を押す。すると深理さんは「白州くんは大丈夫かな」と呟く。僕が驚いて振り返ると、それがまた彼女にとっては意外だったらしく、無言で訊き返すような微笑がその顔に浮かんだ。

 彼女は「何かをしなさい」と言う。会った時からそうだった。それは「何をしてはいけない」とは違うし、「何をした方がいい、すればいい」とも違う。その声に僕は散々突き動かされてきた。彼女への応えに自分の存在を与えてきた。

 コールはずいぶん長く、十回くらいも鳴ったけれど、どうにか繋がって母が出た。二人とも無事らしい。電話越しに母はまず僕の安否と、家がどうなっているか訊いた。どういうわけか妙に剣呑な、怒ったような感じだった。僕が家には居ないと言うと、今居る場所は安全なのかどうか確認した。手島家の家屋は見かけきちんと立っているけど、だからといって次の揺れでぺしゃんこに潰れないとも限らない。僕ははっきりしたことは言えなかった。何もはっきりしたことなどないのだ。

 でもそれは今が特別な状況だからじゃない。いつだって多くのことがはっきりしていないものなのだ。一人の人間が知ることのできる範囲はとても狭い。家の中にいてカーテンを閉めていれば家の中のことしかわからない。家族のことも知り合いのことも何一つわからない。ただ普段は特別な連絡がないから、特別なことは起きていなくて、それならいつも通りやっているのだろうと察しがつくだけであって、けれど、そこに何か不安があって一度気になり始めると、自分の何も知らないということがとても気懸りになってくる。それだけのことだ。

 僕の電話が済むと深理さんは妹の寮に電話した。寮長が出て本人とは話させてもらえなかった。仲介に入らないと一人一人の電話が長くなるから、安否確認の場合は怪我と不便がないかだけ機械的に答えているのだという。

「ひょっとすると、僕はうちへ帰らない方がいいかもしれませんね」

「そうね。マンションは断水もエレベータが止まるのも怖いわ」深理さんはコンロに火を点けてガスが通っているか確かめ、椅子を引いて座る。

「できればどんなことになってるか確認しておきたいけど」

「当面はここに居なさいよ。それは後でもいいの。きちんと情報が揃ってからよ。ねえ、そこのメモを取って。うん、鉛筆も」深理さんは電話台を指して言う。「うちがこの状態だから、他にまともに商いやっているところも稀だろうけど」

 僕がメモを食卓に持っていくと深理さんはそこにすらすらと書きつけていく。食料、水、燃料、云々。

 それから冷蔵庫の扉を一通り開けて何が入っているか確かめ、次に台所の床下にあるパントリーの蓋を取ってそっちも何が入っているか確認した。

「外はどうなってるんだろう」

 店のシャッターが閉まっているので通りの方の様子は窺えない。深理さんはサンダルを履いて玄関から出る。すたすた歩いてサンバーの横を抜け、通りへ出る。僕もブーツを履いて後を追う。

 世界は妙に静かだった。鳥の鳴き声が聞こえない、風が吹いていない。深理さんは辺りを注意深く見回して点検してから足を上げ、ゴキブリを潰すみたいに勢いよく踏み下ろした。自分の立っている地面の安全を確かめたのだろう。何の振動も衝撃もない。地面はまるで気付いていないみたいに何食わぬ顔をしている。

 彼女はそれから両手を首筋に回して髪を整え、家の前の公園の外周をぐるっと一周してくる。僕は角ごとに立ち止まって遠くの街並みを見通す。面の揃ったモルタルの家々と込み入った電線が見えるだけだ。風もない凍ったような静けさ。どこかのおばちゃんが建物の前に立って二階の窓に向かって叫んでいた。何を叫んだのかは遠くてわからない。

 一周終えて店の前に戻り、彼女は肩を開いて深呼吸する。腕を組んで店の看板を見上げる。店の中に光を入れるためにショウウィンドウのシャッターを開ける。家に入って居間の方から店内を見渡し、「よし」と一声かけると一番手前に散らばっていた箱を拾い上げた。でもそれは琵琶湖の岸で掌に水を掬ってみたようなものだ。模型の箱は相変わらず床の上に折り重なって海になっている。心なしか古びた紙の匂いが濃くなっていた。

海底の泥を掬い上げることによって新しい命が生じる。

海底の泥が遍く陸に打ち上げられることによって新しい世界が生じる。

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