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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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僕はそこにはいない

「白州さんや白州さんの絵はどうでしたか」

「もちろんよかったわ。誇らしいことよ。親しい人がこうやって名誉を受けるってことは。そうね…なんというか、彼の絵も美術の一つなんだなという実感が涌くのね。美術史に残るような大家に比べればまだまだ小さいけど、それでも彼らと同じ世界にあって、小さくても居場所を持っていて、そういう意味でもやっぱりこうして世に出すということは喜ばしいことなんじゃないかな」

 僕は黙って深理さんの話を聞いている。声の向こうにうっすらとデパートの放送が聞こえた。受話器を持ち替え、重心を右の尻にして体を傾ける。手島模型では一番大きな32スケールの棚だけは座布団くらいありそうな箱が綺麗に立てて並べられている。箱の面が揃っているので公園の方から入ってくる光の反射も規則的になる。魚の鱗みたいだ。

「ねえ、なぜ白州くんが私を呼んだと思う?」

 それは変な質問に聞こえた。

「深理さんがガールフレンドだから」

「白州くんはあなたのことを招待しなかったでしょう」

「ええ、はい」

「彼が招待しないなら私が一緒に見に行かないかって誘ってもよかったのよね。でも今回はそうしない方がいい気がしたの」

「彼はあえて僕を誘わなかった」

 深理さんも耳を変えたのか、それか髪を直したのだろう、がさがさと音が入った。

「実はね、私が彼の個展に呼ばれたのはこれが初めてなの」彼女は答えを言った。「彼の絵が評価されるようになる前から、彼が初めて個展をやる前から、私は彼を知っていて、彼は何度かこういった表舞台に立っているけれど、でも彼がそこに私を呼んだのは今日が初めてなの」

「それ、本当?」

「本当。私がコンサートや発表会に彼を呼ぶのと、彼が彼の個展に私を呼ぶのと、表面的には等しい愛情の交換かもしれないけれど、その意味合いは大きく異なるものなの」

「うん……」僕は先を促すためにひとまず返事をした。事情が了解できたわけじゃない。

「白州くんの個展はパトロンのルオさんの力添えがあってこそなの。ルオさんって彼から聞いたことはある?」

「いいえ。でもこの前話した時、確か深理さんが言った」

「羅と書いてルオ。大学の展覧会で彼の絵を見て気に入ったのよ。香港の大商社の人で、パナマやリベリアに何隻も船を持っているんだって」深理さんはそこだけまた受話器に口を近づけた。

「大富豪だ」

「というと太っちょなイメージじゃない? 案外すらっと背の高い人で、白髪の五厘刈りで、四六時中携帯で電話をしながらスーツのズボンのポケットに片手を突っ込んで方々を歩き回ってるの。デパートって階段やトイレの方にちょっと人気のないところがあるでしょう。あの辺でよ」深理さんはそこでちょっと苦笑した。「今日、会ったわ。当人とそのお嬢さんに。お嬢さんは私より二つか三つ若い女の子で、少し世間知らずではあるけれど、身のこなしはさすがのものね。そして彼の絵の熱心なファンでもある。彼女は、レカミエ夫人だとか、そういった新古典主義がお好きなのね。ごく写実的でかっちりした絵が。それは白州くんが最も得意とするところでもある。一方ルオさんはメセナに篤いだけあって日本の文化には興味津々なのだけど、どちらかというと文学肌なの。こんなふうに評するのはちょっと気の毒だけど、絵画や芸術というものについての見識はお嬢さんの方がよっぽど高いわね。

 例えばルオさんは日本の神話に取材したらどうかと言うの。ヨーロッパの歴史画に並ぶようなものを描いたらどうかって。もちろん指図じゃなくて提案よ。対して白州くんは、日本には日本の様式による神話の描写が既にあって、他の芸術と不可分に日本文化のひとつの側面を成しているのであって、様式を倣うことは、ヨーロッパにとって親しみやすくはあっても、その後塵を拝するに過ぎないって、そういう説明をしなくちゃならないの。白州くんの芸術は昔から決して日本の伝統に連なろうとするものではなかったし、神話画の専門でもない。そうでしょう? とすると、思うに、白州くんの絵に最初に目を止めたのはルオさんではなくて、お嬢さんの方だったのね。白州くんの絵に、ではなくて、白州くんに、と言ってもいいかもしれない。彼女は彼のことをとても慕っているようなの。ルオさんが彼のパトロンをやるのはきっと娘のためでもある。特別なのよ。ねえ、もう、説明しなくてもいい?」

「なんとなく。彼らに深理さんを紹介することは白州さんにとって特別な重みを持っている」

「ルオさんは実業家であって評論家ではないのだから、多少芸術に疎いのは仕方がない。大事なのは芸術家の望みに惜しみなく支援を与えることだからね。白州くんもそれはわかっている。だけど白州くんは何かを変えようとしてるのよ。きっとルオさんの籠から出ようとしていて、そのための鍵として私が必要なのだと思う」

「白州さんは今の生活に満足していないのかな」

「物的には何も不足はないでしょうね。でも彼が描きたい絵を描くのに十分な時間があるとは言えないのよ。注文はほとんどルオさんが取ってくるものだし、絵画教室だって白州くんが始めたものではないの。彼の中にアイデアはたくさんあるのだけど、それを形にしたり誰かに提案したりする機会がとても少ないのが現状」

 話を聞いているうちに僕はだんだんと事情の真相を掴み始めていた。なぜ僕か招かれなかったのか、なんて表面的なものではなくて、深理さんと白州さんの関係が今どういう状況にあるのかという根本的な側面についての真相を、だ。

「やっぱり囚われていたんだ」僕は言った。

「ミシロくんがそう訊いた時、彼すごく図星だったものね。そういう意味では上野の頃の方が自由だったのかもしれない。お金もないし、家もボロだったけど。彼ね、本当はもっと多作なのよ。速い時は下絵から塗りまで二日で済ませちゃうくらいだったの。あの画風でよ。今は現実のものに目を向けて、もっとじっくりやっているけど、空想のような風景画だとか、本当はそういうのが好きで、前に話した時、岩井という人の名前を出したのを憶えてるかな。その人が彼を誘っているのはね、ゲームやカードのコンセプトアートなの」

「へえ」僕は素直にすごいなと思った。

「でも、そういうものって大衆文化で、いわゆるサブカルでしょう。それが純粋な芸術とは一線を画する、というのは少し古びた考えだろうけど」

「ルオさんはその仕事が白州さんの格付けを下げる要因にならないか心配しているんですね」

「まあ、そうなのでしょうね。表立って反対したりはしないけど、ちょっと渋っているのは確か。それでも最終的には白州くんの意思を尊重してくれると思うわ。だからこれはひとえに白州くんのプライドの問題なの」

「深理さんのことが必要って、彼が籠を出て別の止り木へ移るのについてきてほしいってこと?」

「具体的に言うとプロポーズよね」

 プロポーズ。

 僕は座っているドーナツ椅子の縁に左足の踵を上げる。脱いだスニーカが床に落ちてカウンタの裾にぶつかる。

「ついていくつもりなの?」僕は訊いた。

「ついて行くべきかしら。それがわからないから相談しているの。そう、私、あなたに相談していたんだ……」

「きっとそれが怖くて誰かに話したかったんだ」

「そうね。怖いのかもしれない。彼の告白を聞くのが怖いのかもしれない。なぜ喜べないんだろう」

「彼の心配を置くとして、深理さんが望んでいるのはどちらなの?」

「私が?」深理さんはそれから少し押し黙る。唾を飲み下す「ん…」という声が漏れる。

 僕は待っている。

「いつか遠くへ行きたいという気持ちはあるの。でも、今はまだ、私はどこにも行きたくないし、彼にもあの家にいてほしい」彼女ははっきり言った。その言葉は雲海の上に突き出した山頂のようにしっかりとしていた。

「深理さん自身の望みを答えにすることが彼にとっても大事なことなんじゃないだろうか」

「でも私が何年もの間彼に救われてきたということも、どうかわかってね。割り切れない事情もきちんとあるの。彼はもう出て行こうとしている。それはかつて彼を苛んだ生活と芸術の秤の上に戻ることなの。彼はきっと支えを必要としている」深理さんは優しく言い聞かせるように言った。

「自分を犠牲にする」

「そういう生き方はいけない?」

 彼女にとっては自分が損なわれることよりも周りで何かが失われることの方が苦痛なのだ。

「だとしても深理さんが自分のアジールを守りたいと思うのは自分自身の再生を待とうとしているからだと思う」

「せめてもう少しの間だけ、あと何年か待ってくれたらいいのだけど」

「……うん」

「どうか時間をお与えください」深理さんは小声で呟いた。賽銭箱の前で唱える祈りみたいだった。

 沈黙。

 彼女は何年という単位で時間を捉えている。白州さんと深理さんの時間のずれ。前に彼が言っていたことを思い出す。自分が老人のようだと。彼らにとっては同い年ということが必ずしも同じ時間を生きることを意味しなかったのかもしれない。

「ねえ」と深理さん。

「なに?」

「理不尽な相談してごめん。これは、そう、私の問題なのに」

「僕はただ」

「ただ?」

「レストア」

「レストア」深理さんはちょっと不可解そうに復唱した。

「何かを変えたいわけじゃない。変えるべきじゃない。ただ、あるべきものがあるべき姿に戻るように――」

 深理さんは受話器の向こうで少し笑う。僕が直したゼロ観の模型に思い至ったのかもしれない。

「とにかく、近くにいてくれて助かったわ。あなたに話したらなんとか決心をつけられそうになってきた」

「うん」

「それじゃあ、えっと」話が終わったので電話を切ろうとしたのかもしれない。「ねえ、佐川さんはまだ来てないのね」

「まだ来てない。表も相変わらず人気がないし、こっちは至って平和です」

「やっぱり時間が、ね。もう少し話していてもいい? だって白州くんの出番が終わるまであと二時間もあるんだもの」

 僕はそれから店の入り口にミラージュの札をかけていることを話して、深理さんがいつもどんなふうに接客して模型を売っているのか方法を聞いた。それで三十分くらいはぎりぎり消費できた。その間誰もショウウィンドウの前を通らなかったし、公衆電話を必要としている人も現れなかった。そうしているうちにさすがに会場の方が気になり始めたのか深理さんは電話を切った。僕も受話器を置いた。

 静かだ。深理さんの声も自分の声も聞こえない。喋っていないのだから当然なのだけど、とても久しぶりに出会った気のする静けさだった。

 僕はミラージュの札を確認しに行く。やはり表に人の気配はない。一応またお客さんが来た時のことを想像して、けれど気持ちはあまり強張らなかった。三杯目の豆乳を飲む。ついでに冷蔵庫の中に残っている食べ物を確認する。ブロッコリー、豆腐、ヨーグルト、お惣菜コロッケ、ラップに包まれた玉ねぎ半分。引き出しにほうれん草、ぶなしめじ、セロリ、小さくなったキャベツ。床下のパントリーに缶詰と根菜、長ねぎ。コンロに鍋が出ていて、吸いついた蓋を取るとポトフだった。ベーコンのブロック、ソーセージ、キャベツ、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。ブイヨンとハーブのいい匂いがした。目一杯あるので昨日の夕食の残りではなくて今日のおやじさんのために作っていったものらしい。蓋を置く。

 電話を切ってから耳がしんとして物寂しい感じがしていた。リビングに入ってアンプの電源を入れ、その下の扉を開いてCDの背表紙を覗く。ゲーリー・カー。そうだ、聞いてみようか。ディスクを取ってトレーに乗せる。再生。

 ボリュームを上げる。音が流れている。これがコントラバスなのかという印象だった。チェロのような機敏さがあって、でも聴いていると少し違う。もう少し含みのある太い音。深く柔らかな暗闇のような音色。悪くない。かけながら物理の問題に戻る。

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