静かな刃
レイ、十二歳。
夕暮れの訓練場。
レイが屋敷へ戻ると、一人の男が静かに-薬草全集-の本を読んでいた。
黒髪。
穏やかな灰色の瞳。
物腰は柔らかく、争いとは無縁に見える男。
レイの父――エドガー・トワイライト。
「父上。」
「お帰り、レイ。」
彼は穏やかに微笑む。その笑みは、いつ見ても安心する。
だからこそ、レイには不思議だった。
(この人が、本当にトワイライト家の魔術師なのか?)
◇◇◇
王都では、こんな噂があった。
「トワイライト家の現当主は魔力量が少ない。」
「幻術など戦場では役に立たん。」
「魔術師ではなく、手品師だ。」
「没落貴族にはお似合いだ。」
エドガーは、その言葉を一度も否定したことがなかった。
笑って受け流すだけだった。
「そう思っていただけるなら、ありがたいですね。」
怒ることもない。
反論もしない。
ただ、相手にそう思わせたまま話を終わらせる。
その姿を見て、レイは何度も歯噛みした。
「父上は悔しくないのですか!」
ある日、思わず叫んでしまった。
エドガーは少しだけ目を丸くし、それから優しく笑う。
「悔しいよ。でもね、相手が勘違いしてくれるなら、それは私の武器になる。」
レイは理解はできても、やはり悔しい思いは消えなかった。
◇◇◇
「レイ。今日は、一つだけ教えてあげよう。」
父は腰の革鞘から細い刃を取り出した。
剣ではない。
短剣ですらない。
飾り気のない、細く尖った一本の鋼。
「……これは?」
「スティレット。鎧の隙間を貫くための暗器だ。」
「トワイライト家では昔から、大切な人を守るための武器として受け継がれてきた。」
レイは目を輝かせる。
「見せてください!」
父は苦笑した。
「一度だけだよ。」
◇◇◇
エドガーは一本の木杭の前へ立ち、静かに歩いて近づく。
魔力が静かに流れ始める。
しかし、派手な魔法陣は現れない。
炎も。
雷も。
風もない。
ただ、空気が少しだけ揺れた。
「よく見ていて。」
木杭とエドガーがすれ違う、その瞬間だった。
エドガーの身体がほんの少し沈み、同時に肩から腕が急加速する。
シュッ――。
乾いた風切り音だけが、わずかに聞こえた。
エドガーは元の場所に戻ってきていた。
「終わったよ。」
「え?」
(……踏み込みの足音がなかった。魔力の波長すら立っていなかった)
レイの背筋に冷や汗が伝う。
木杭を見る。
何も変わらない。
いや、小さな穴が、空いていた。
切れたのではない。
中央を、一直線に貫かれていた。
レイは息を呑む。
前世で何人もの魔術師を斬ってきたレイだからこそ分かった。
(正面突破の魔術じゃない。これは……)
「見えなかった……。」
「そう。」
エドガーはスティレットをしまう。
「見えなくしたからね。」
「え?」
「刃先だけを幻術で隠した。本当は、音も消すんだよ」
「感じることができない。だから、避けられない。」
レイは震えた。
派手な魔術ではない。
だが、誰より恐ろしい技だった。
◇◇◇
「覚えておきなさい。」
父は静かに言う。
「幻術は、人を騙す魔術じゃない。相手の思い込みを利用する魔術だ。あるものを見えなくする。ないものを、あるように見せる。」
「それだけで、人は簡単に判断を誤る。」
レイは父を見つめる。
「だから父上は……。皆に弱く見られているんですね。」
エドガーは少しだけ困ったように笑う。
「半分は本当だけどね。魔力量は少ない。戦いは苦手だよ。正面から魔術を撃ち合えば、私は勝てない。だから⋯」
スティレットを指先で回す。
「相手に、自分は安全だと思わせる。その一瞬があれば、十分さ」
◇◇◇
その夜。
レイは父の言葉を反芻していた。
祖父は言った。
「流れを作れる者になれ。」
父は言った。
「思い込みを利用しなさい。」
一つは戦の思想。
一つは戦いの技術。
そしてレイは静かに剣を握る。
(なら……。俺は、この二つを剣にする。)
魔術の流れを読み。
人の思い込みを操り。
誰にも見えない剣を振るう。
その発想が、後に王国中の魔術師を震え上がらせることになる。
だが、その時のレイはまだ知らない。
父エドガーが、家族の知らない夜を生きていることを。
誰も寝静まった深夜。
黒衣をまとった一人の男が、王都の屋根を音もなく駆けていた。
その手には昼間とは違う、血を吸うためのスティレット。
没落したトワイライト家を支える金は、領地からだけでは足りない。
だから彼は、人知れず「影」となっていた。
家族の笑顔を守るために。
誰にも知られることなく。




