月の下で
王都。
春の舞踏会。
王侯貴族が集う大広間は、音楽と笑い声に満ちていた。
その中心には、一人の青年がいた。
「レイ殿、先日の商会の件ですが。」
「ええ。明日には話をまとめておきます。」
「助かります。」
「お礼なら、私ではなく彼に。彼の領地がなければ成立しない話ですから。」
軽く肩を叩き、自然に別の相手へ話を振る。
貴族。
商人。
若い騎士。
爵位の低い家の子息。
誰とでも分け隔てなく笑い合い、場の空気を操る。
「……あの方、本当にトワイライト家の方なの?」
「没落したとは思えない立ち回りだ。」
「女性にも慣れているご様子。」
「⋯噂どおり、食えない男だ。」
数人の令嬢が頬を染める。
レイはその視線に気付いている。だが、深入りはしない。必要以上の期待を持たせず、自然に会話を終える。
その姿は、どこか軽薄にも映った。
「失礼。」
グラスを置き、静かに会場を後にする。
誰にも気付かれないように。
だが、一つだけ視線を感じていた。
◇◇◇
夜風が吹く庭園。
月明かりが白い石畳を照らしている。
「……出てきたか。」
レイは振り返らない。
数秒後。
足音が止まる。
「久しぶりですね。」
澄んだ声だった。
栗色の長い髪。
青い瞳。
十七歳となったエリシア・ルナリア。
かつて訓練場で、レイの戦いを見抜いた少女。
「三年ぶりかな。」
レイは穏やかに笑う。
「随分と綺麗になった。」
「そういう言葉を、皆さんに掛けているのですか?」
「必要であれば。」
「……軽薄ですね。」
レイは肩をすくめる。
「否定はしない。」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
昔の彼は、もっと真っ直ぐだった。
そう思っていた。
◇◇◇
沈黙が流れる。
やがてエリシアが口を開く。
「叔父様は、今でも貴方を高く評価しています。」
「それは、ありがたい話だね。」
「私は……。」
少し迷う。
「私は、貴方が叔父様のような英雄になるのだと思っていました。」
レイは微笑みを崩さない。
「そうは見えませんか?」
「でも。」
エリシアは真っ直ぐ見つめる。
「最近聞こえてくる噂は、違います。」
「敵の補給を断つために、卑怯な方法を使った。敵対した商会を潰す。邪魔になった貴族を失脚させる。目的のためなら手段を選ばない。そんな話ばかり。」
レイは静かに月を見る。
「全部、本当だ。」
エリシアの胸が痛む。
否定してほしかった。
何かの誤解だと言ってほしかった。
「どうして……。」
その問いに。
レイは少しだけ笑った。
「君は、昔のトワイライト家に何があったを知っている?」
「……知っています。」
「では、愚かな剣士の話は?正しいことを言って、この家は救われた?」
言葉が詰まる。
「……。」
「そう、誰も助けてくれなかった。だから、俺は決めた。」
その笑顔は、どこか寂しかった。
「正しいだけでは守れない。なら、守れる人間になる。綺麗じゃなくても。嫌われても悪人と呼ばれても。」
「俺が守りたいものが残るなら、それでいい。」
月明かりの下。
エリシアは初めて気付く。
この人は、英雄になれなかった人ではない。
英雄になることを、自ら捨てた人なのだと。
◇◇◇
「……私は。」
エリシアは拳を握る。
「その考え方は、好きになれません。」
「そうだろうね。」
「人を騙すなんて、卑怯です。」
「そう思う。」
「でも。」
レイは穏やかだった。
怒らない。
言い返さない。
ただ受け入れる。
「守るもののためなら、俺は汚れる。」
その言葉が。
エリシアの心を大きく揺らした。
(違う。この人は、悪人になりたいんじゃない。全部、一人で背負おうとしている。)
だからこそ。
腹が立った。
「馬鹿です。」
思わず口にしていた。
レイは目を丸くする。
「え?」
「一人で全部抱え込むなんて。そんなの……。」
少しだけ声が震える。
レイは苦笑した。
「そうかもしれない。でも、俺にはこのやり方しか思いつかなかった。」
再び沈黙が流れる。
夜風が二人の間を通り抜ける。
エリシアは胸の奥の感情に戸惑っていた。
失望した。憧れていた英雄とは違った。
正しい人ではなかった。
誰かが、この人に「汚れなくてもいい」と言わなければならない。
そんな思いが、静かに芽生えていた。
レイはそんな彼女の心を知る由もなく、夜空を見上げる。
「今日は話せてよかった。君は昔と変わらない。」
「……そうでしょうか。」
「うん。」
レイは笑う。
「だから安心した。」
その笑顔は。
舞踏会で見せていた社交用の笑みではなかった。
ほんの少しだけ。
十八歳の青年らしい、だけど少し疲れたような笑顔だった。
その表情を見た瞬間。
エリシアは確信する。
(この人は。誰よりも苦しんでいる。月明かりの下で笑っていても、ずっと一人で戦っている。)
その夜。
英雄を目指していた少女は、初めて知る。
英雄には二種類いることを。
光の中で称えられる英雄と。
闇の中で誰にも知られず、ただただ大切なものを守る英雄がいることを。




