第63話 登校日の朝、一つ目の約束
登校日の朝。
久しぶりに制服を身に纏い、ネクタイを締め終えたところで、インターホンが来客を告げる。少し遅れて、リビングから母さんの声が響いてきた。
「涼ー! 栞ちゃん来たみたいだけど、支度できてるのー?」
「できてるー! すぐ出るから!」
返事をしながら、昨夜のうちに中身を準備しておいたカバンを手に取り、部屋を出る。
急いで玄関に向かい、ドアを開けると──
「おはよっ、涼!」
また一段と笑顔が眩しくなった栞が立っていた。つられて、俺も頬が緩む。ただでさえ、栞は大好きで大事な彼女なのだから。
「おはよう、栞」
「へへ。約束通り、お迎えに来たよ」
「うん、ありがと。じゃあ──もう行く?」
「あ、その前にね──」
そう言って、栞は少しだけ視線を落とし、スカートの端をちょこんと掴んだ。
「制服久しぶりだけど……変じゃないかな?」
問われて、改めて栞をじっと見つめてみる。
ここ最近は私服姿ばかりだったからか、制服姿がどこか新鮮に見える。
下手に着崩したりせず、ブラウスのボタンは全部留めて、赤いリボンタイも緩んだりしていない。スカートだって、校則を守って膝丈だ。
このあたりは、やっぱり栞らしい。
制服に余計なアレンジを加えなくても、学校中の誰よりも栞が一番可愛いと俺は思う。
これは俺の好みの問題かもしれないが──
きっちり着こなしている分、清楚な魅力がいっそう引き立っている。
「変じゃない、というか──今日もすごく可愛いよ、栞」
そっと手を取りながら答えると、栞の頬が嬉しそうにほんのりと赤く染まった。
栞はもう一歩だけ俺に身を寄せてくる。その背後で、ドアがぱたんと音を立てて閉まった。
しかし……よくも恥ずかしげもなくこんなことが言えるようになったものだ。半分無意識で口にしていたわけだが、これも俺の成長なのかもしれない。
でも──
「えへへ……よかったぁ。涼も、制服かっこいいよ。髪型にも似合ってるし、一学期とは別人みたいだね」
「それはまぁ、栞のおかげっていうか……。でも、ありがと。嬉しいよ」
言われる方は、まだまだ慣れないらしい。胸の奥がふわふわとくすぐったくなって、なんだか顔も熱い。
なのに、じっと見上げてくる栞しか目に映らない。ほんのりと潤みを帯びた瞳が、なにかを訴えているみたいで。
「あのね、涼。その……」
「……うん、なに?」
「えっと、えっとね──」
栞の視線が、照れくさそうに左右に泳ぐ。
けれど、すぐにまた真っ直ぐに俺を見上げてきた。
今度はその中に、期待と不安が揺れている気がして──
とんっ、と俺の胸に栞の手が置かれた。それから、栞はすっと背伸びをして目を閉じ、少しだけ顎を上げた。俺に唇を差し出すような形で。
さすがの俺でも、ここまでされれば栞がなにを望んでいるのかわかってしまう。思わず見惚れてしまうほどの、キス待ち顔だったから。
ごくりと、喉が鳴った。
つまり栞は、『おはようのキス』をねだっている。
少しだけ、迷う。
でも、そんなふうに可愛らしくおねだりなんてされたら、俺も弱い。柔らかそうな唇に視線が釘付けになる。
俺は片手をそっと栞の背中に回して抱き寄せて、もう片手で頬に触れる。そして、吸い込まれるように唇を重ねた。
「……んっ」
嬉しそうに、栞の喉が鳴る。
触れたのは、ほんの一瞬。
それでも、触れ合ったところがじんわりと熱をもつ。
目を開けた栞も、幸せそうにうっとりと表情を蕩けさせた。そんな顔を見せられると、ますます栞に引き込まれてしまう。
「ねぇ、涼……私からも、していいかな?」
「うん。俺も……してほしい」
「んふっ。涼、大好き」
「好きだよ、栞」
今度は俺が、栞に唇を塞がれた。
もうすでに、最初のぎこちなさはどこにもなかった。
二度のキスを終えて、俺たちは静かに見つめ合う。
こんなに幸せなら、今日はこのまま栞と二人きりで……。
熱に浮かされた頭が、そんなことを考え始めた矢先のことだった。
「涼、栞ちゃん、まだいるの? そろそろ出ないと電車に遅れるわよー!」
俺たちは弾かれるように離れた。
心臓が跳ね上がるのを感じながら振り返ると、母さんが廊下にひょこりと顔を出していた。
「……どうしたのよ、そんなに慌てて?」
ジトッとした視線が痛い。
それから逃れようと、俺は玄関を開けた。
「……な、なんでもないっ! 今、行こうと思ってたところだから。ね、栞?」
「う、うん……。そうだね」
「そう? ならいいけど……。あ、そうだ。出る前に一つだけ」
やけに真面目な顔をして、母さんが言った。
「……急かしたくせに、なに?」
「ちょっとね。二人に相談したいことがあるから、学校が終わったら栞ちゃんもうちに来てほしいのよ」
「それは構いませんけど……相談って、なんですか?」
「それは長くなるかもしれないから、帰ってきてからゆっくりね。今日は午前で終わりでしょ? お昼ごはん、栞ちゃんの分も用意しておくから、お母様に伝えておいてね。というわけで──ほら、もう行った行った」
俺と栞は、顔を見合わせて首を傾げた。
相談の内容は気になるところだけど──
スマホの時計を見ると、電車の時間は迫ってきていた。走る必要はなさそうだが、そろそろ出ないと本格的に間に合わなくなりそうだ。
「わかった、帰ったら聞かせてもらうよ。じゃあ、行ってくるから」
「水希さん、いってきますね」
「はいはーい、いってらっしゃい」
母さんに見送られて家を出ると、どちらからともなく手を取り合う。自然と指が絡み合って、栞がするりと左腕に抱きついてくる。
そして、二人してくすりと笑い出した。
「ふふっ、びっくりしたね?」
「……本当にねぇ。母さん、急に出てくるんだから……」
「なら、これからは気を付けないとだね?」
「うん──って、栞がしてほしそうにするからでしょ?! 玄関だったのにさぁ……」
「そんなの知らないもーんっ! 私は別に、水希さんになら見られちゃっても平気だしっ。そんなことより、ちょっと急ご? もうすぐ電車来ちゃうよ」
「え、ちょっ?! えぇっ……?」
突然、栞は俺の腕を引いて駆け出した。
弾むような足取りで、楽しそうに笑いながら。
俺は小さく息を吐いて、栞に続く。
学校でも、この笑顔を曇らせないために──
……俺が、ちゃんと支えないと。
しっかりと、栞の手を握り直す。
やがて、ホームへと入ってきた電車に二人で乗り込んだ。
もちろん、繋いだ手はそのままで。




