3 再会
「陛下、神殿からの抗議文が届いております」
補佐官ヨエルは国王に書面を手渡した。
「何だ?」
格式張った文章を読むのが面倒だったのだろう、目を通さずに王が内容を尋ねてくる。
「ガーデルト山に無断で入山したことと、野生の竜を捕縛しようとしていることに対しての、強い抗議と非難を示されています」
「何だと? なぜ神殿にバレたのだ」
ヨエルは困ったように答える。
「それは……ガーデルト山は神殿の所有地ですから」
なぜバレないと思えたのだろうとヨエルは不思議に思ったが、それを口にすることはできない。
「ふん。しかしガーデルト山のことはともかく、竜のことについては、神殿に止める権利などないだろう」
「しかし……神殿は元々この国が創世記にある国だということは認めていますが、竜を囲っていることについては、抗議している一派がいます。最近はその一派の数がかなり多くなり、とても無視できる状況ではありません」
ヨエルは誰もが心配していることを言った。
神殿と国は別の組織だ。神殿は周辺諸国や民にも強い影響力を持つ。絶対に敵に回していい存在ではないのに、王はそのことを軽んじている気配がある。
「なぜだ。我が王家は竜の加護を受けている。竜を天の使いと崇める神殿が、なぜ私に抗議などする」
尊大な態度で、心底わからないという顔をする王に、ヨエルはすっと心が冷めた。
あなた竜に嫌われているじゃないですか。
胸のうちで呟く。
王家の地竜は元々近づける人間が少なかったが、それでも数年前から、金の髪の娘であるトゥーリ以外を寄せ付けようとしない。
国王は二度、警戒心を顕にして唸られてから、会おうとしなくなった。それなのに加護を受けていると言えるなんて。
ヨエルは長年王家に敬意を抱いてきたはずなのだが、それは今や、崩れ去ろうとしていた。
金の髪の娘が言っていた、竜の加護に頼りすぎては国が滅びるという言葉は、今現在、突き進んでいる未来なのだろう。なぜ王はそれがわからないのか。
「まあ、よい。今度はもっと気づかれないようにやれと言え。それと、婚儀の準備も急ぐそうにな」
「…………はい」
まだ竜を探そうとするのか。抗議したくても、身分の低い一介の補佐官であるヨエルにそれはできなかった。
晴れやかな青い空に、人々の歓声が響き渡る。
祝福の言葉が何万回と紡がれ、町中に笑顔が溢れ、美しい花が至るところに飾られた。
今日はお伽噺のような、姫と王子の結婚式だ。
発表からこの日を迎えるまで、随分と短かったが、おめでたい日が早くに来て、何も悪いことはない。
竜にとって特別な金の髪の姫は、今日から王子様に幸せにしてもらって、最高の人生を送るのだ。誰もがそう思っていた。
「お母さん、あたし金の髪の姫様に、結婚式にお花を持っていってあげるって約束したんだよ!」
小さな女の子が、母親の手を引っ張り、もう片方の手には花束を握りながら訴える。
「今日はお会いできないのよ。遠くから見守って、手を振るだけにしましょうね」
優しく諭しながら、母親は姫と王子の姿を一目見ようとしている人の群れに混ざった。
衣装が重い。
朝からずっと、トゥーリはそのことばかりが気になった。
実際には、そこまで重くはないのだろう。何枚も重ね着はしているものの、女性の負担になる程の重さではないはずだ。
しかしトゥーリには、この色とりどりの美しい花嫁衣装がとても重かった。枷がまた一つ増えてしまう、その重さだ。
この結婚が上手くいかないのは、目に見えている。
相手の王子は本当は別の人と結婚したかったらしく、このところ無理やり会わせられても、ずっと不機嫌なままだった。
それならもっと強く父親に反対してくれればいいのにと思う。トゥーリとは違い、相手は公言できる人物だろうに。
それも、今更考えたところで詮無いことだが。
「お加減が優れないのですか?」
馬車に乗り込む前に、スレヴィが尋ねてきた。
「いいえ。そう見えますか?」
「少し顔色が……いえ、何でもありません」
余計なことを言ってしまったとばかりに口を噤む。彼はトゥーリが本当の出自を口にして以来、小言を言わなくなり、よく気遣うような素振りを見せるようになった。
正直なところ助かった。あの小言は、疲れているトゥーリの心を更に疲弊させていた。トゥーリのために言ってくれていたのだとしても。
今のは体調を気遣ったものの、顔色が悪い理由が、結婚したくないからだと気付いて何も言えなくなったのだろう。スレヴィにはどうすることもできないのだから、当たり前だ。トゥーリにだってどうすることもできない。
竜が唯一、心を許す存在であることだけを武器に、いろんなことを勉強して地位を固めてきたが、まだ十七歳の少女ではこれが限界だろう。
一人で豪華な馬車に乗り、トゥーリはいつも竜のお披露目を行う場所へ向かっていた。
そこに花婿がいて、結婚式が行われる。
通常は神殿で行うものだが、式に欠かすことのできない神殿側の人間が、竜が見ている場所でなければ結婚式を執り行わないと言ったのだ。金の髪の娘の結婚には、竜の許可がいるという理由で。
そんなことは今までなかったはずだが、王はその方が国民に好印象を与えると思ったのだろう。あっさりと受け入れた。
見たこともないくらいの人数の軍人が、毅然とした様子で、馬車の通り道を塞ぎ、押し掛ける民衆を留めている。
トゥーリは笑顔で、歓声に向かって手を振った。より一層、歓声が大きくなり、祝福が紡がれる。
他人事のようにトゥーリはそれを聞いていた。現実のこととしっかり認識しているはずなのに、これから行われることが、どこか自分のことではないような感覚がある。
トゥーリは手を振り続けて、馬車が止まると、軍人の手を借りて降りた。
少し先に花婿と神官がいる。ここからでは表情は見えないが、花婿はきっと不機嫌そうな顔をしているのだろう。そのことに辛さは微塵もなかった。ただ早く終わらせたいと思う。
トゥーリが一人で歩き出そうとした時だった。
いくつもの羽ばたき音が聞こえてきた。目を向けると何十羽もの白い鳩が、どこからともなく飛び立っている。
幸福の白い鳩だ。
演出の一つだろう。トゥーリの視界を半分埋めつくし、空へと一斉に飛んで行く。自由を手に入れて。
目でトゥーリは白い鳩の行方を追った。
行ってしまう。
寂寥と悲しみが、どうしようもなく胸を襲った。ずっと押さえつけていた感情が傍流のように溢れ出してしまう。
トゥーリの自由が一緒に、行ってしまう。子供の頃に一度だけ手に入れた自由が、永遠になくなろうとしていた。少年と笑い、手を繋いで走り、家族と食事をして、子供たちと一緒に眠った、あの驚きと感動に満ちた時間。
たった二日。たった二日だけだった。トゥーリが自分のためだけに、生きていることができた時間は。
空に向かって手を伸ばす。
──行かないで。
その心の声に呼応するように。叫びが空気を震動させた。
グアァァァァァァ
誰も聞いたことのない鳴き声に、歓声がかき消され、人々は驚き固まった。それでも鳴き声は止まない。
トゥーリは森の方を見た。
いつもはトゥーリが呼ばなければ、人前に姿を現さないはずのラウナ=レーラが、小高い丘の上にいて、空に向かって吼えている。
どうしたというのか。彼女の異変に、トゥーリは慌てて駆け寄ろうとする。
常に平常心を保っていなければいけないはずの軍人すら固まって、トゥーリを止めることはない。それほどにその鳴き声は迫力があった。
しかし、この隙をついてもう一人動く者がいた。
民衆の中にいたその人物は、フードの付いた長い上着を着て、音もなく走り、あっという間に軍人たちの前に出て、彼らを蹴り倒した。
「ぐあっ!」
「うわぁっ!」
ラウナ=レーラに気を取られていたとはいえ、銃を持った軍人が呆気なく地に臥せていく。
トゥーリはもう一つの異常事態に気づき振り返った。
倒れていく軍人と、長いコートから覗く褐色の肌が一瞬見えた。
「え」
言葉に出せたのはそれだけだった。
更に驚くべきことが起きていた。
本来ならもっと早くから聞こえていたであろう、風を切る音と共に迫って来る大きなものがある。
竜だ。ラウナ=レーラとほぼ同じシルエットの竜が、長いコートを着た人物の後ろの上空にいる。
その事実を疑う暇はなかった。
トゥーリが認識できたのはそこまでで、瞬きの間に何かが当たった衝撃をお腹に受ける。風を強く感じた。
目を開けたトゥーリが見たものは、眼下にある森とラウナ=レーラだった。
彼女は鳴くのを止めて、トゥーリを優しい目で見つめている。いつもと少し違う瞳の意味が気になったが、トゥーリもそれどころではなかった。
だって空にいるのだ。お腹を何かに鷲掴みにされて。
いや、何か、ではない。確か見たはずだ。竜を。
飛んでいる竜──飛竜。
「大丈夫か? トゥーリ」
急に声を掛けられて、トゥーリは心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。その時ようやくもう一人、一緒に竜に掴まれている人物がいることに気がついた。
「だ、誰?」
あり得ないほどに密着している人物の声が、低い男性のものだったことで、トゥーリは警戒した。
「何だよ、忘れたのかよ」
風の音に負けないように大声で拗ねる、彼の声に聞き覚えはない。でもその口調はとても懐かしいものだった。
体が動かせなくて、確認できないことがもどかしいが、褐色の肌だけは目に入った。
「……ユッカ?」
「そう! でもおしゃべりはここまで。目ぇ瞑って口閉じてろよ! 辛いからな!」
とても楽しそうにユッカは言う。市場に行ったことがないと言ったトゥーリの、手を引いて駆け出した時のように。
風の強さと冷たさに限界だったトゥーリは、とにかくユッカの言う通りにした。それでも自分が遥か上空にいることには、不思議と恐ろしさを感じなかった。
その一方、地上ではラウナ=レーラが鳴くのを止めて、辺りが静まり返った後、しばらくしてざわざわと呟きが漏れてきていた。
「……飛竜?」
「まさか絶滅したんじゃ」
「いや、あれが飛竜じゃないなら、何なんだ」
「飛竜だったな」
「何か掴んでなかったか?」
「あそこにいたのって……」
「まさか……」
非常事態で軍人たちが大勢動いているせいで、少し離れた場所にいる彼らは状況を理解できない。
しかしあの場所で飛竜が何かを掴んだのを見ている人はいた。
誰かが一際大きな声で叫ぶ。
「飛竜が金の髪の姫様を天に連れて行ったんだ!」
確信を得ているような声がざわめきを呼び、その言葉が隣から隣へと伝言されていく。そして集団心理によって、あたかもそれが真実かのように伝わり、肯定されていった。
「なんで飛竜が姫様を……」
「でも、こんな時に現れて連れて行かれたんだ、何か意味が……」
「天に連れて行く意味って何だ」
そんな声を聞きながら、始めに叫んだ人物が踵を返した。
彼女は肌を隠すように長いコートを着て、青年と手を繋いでいる。
しばらく歩き人混みを抜けると、彼女は青年と顔を見合わせた。
「まさかあそこで、王家の竜が呼んでくれるとは思わなかったね。上手くいってよかった」
「大丈夫、言ったよ」
「そうだね。パウリはそう言ってた。あたしはまだ早いと思ってたけど。でもトゥーリの結婚が決まって、それをトゥーリが嫌がっているって聞いたら、じっとしてるわけにはいかないもんね」
アイラはコートを脱ぐと、清々しい顔でパウリと手を取り合って、その場を走り去っていった。
何のために飛竜が金の髪の娘を連れて行ったのか。
それは王家の列席場所でも囁かれていた。
国王は状況がまるで理解できなかった。だから少し離れた場所に立っていた、自分の補佐官の言葉を敏感に拾ってしまう。
「竜が金の髪の娘を連れて行ってしまった」
ヨエルは絶望したように続ける。
「あの方以外、誰も竜の言葉を聞かなかったからだ……」
国王は息を飲んだ。トゥーリが言っていた言葉を思い出す。
『竜に頼りすぎては、この国は滅びます』
そんなはずはないと思っていた。だから竜の捜索を続けるように指示していた。
しかし本当に彼女の──いや、竜の言葉を信じなかったせいで、創世記のように、竜が金の髪の娘を天に連れて行ったのだとしたら。
この先に起きることを予想して、王の心臓は破裂しそうなほどに激しく脈打ちだした。
森を越えた山の中腹で、飛竜は着地した。
その直前に、ぽいっと前足から離されて、地面に激突するかと思ったが、ユッカはトゥーリを抱えて難なく降り立った。
「大丈夫か?」
トゥーリは地面に下ろされたが、ふらふらしてしまう。それにかなり寒かったせいで両腕を抱える。するとユッカが上着を被せてくれた。彼は平然としている。
「トゥーリか弱いもんな。厚着しててくれて助かったよ」
別にトゥーリはか弱いわけではない。それに花嫁衣装を竜と飛ぶのにちょうどよかったと言う人間は、ユッカぐらいだろう。
「……ユッカ?」
さっき確認したはずなのに、信じられなくてトゥーリはもう一度名前を呼んだ。
同じくらいだった身長は、トゥーリよりもずっと高くなっていて、体つきも全然違う。目付きが少し鋭くなったような気がするし、声だって低い。でも彼は間違いなくユッカだった。
「そうだよ。あんまり遅いから、迎えに来たんだろ」
「え……あっ」
トゥーリが最後にパウリに伝えた言葉を思い出した。
先に行っていてと。
彼らと過ごした時のことは、頭の中で何度も繰り返し思い出していたから、ユッカが何を言ったのかすぐにわかる。
あの時の気持ちを思い出した。何年かかっても、トゥーリは本当にそうするつもりだった。
「……待っていてくれたの?」
「当たり前だろ。トゥーリは家族なんだから」
もう何年も前に、二日間だけ一緒に過ごした少女のことなど、彼らは忘れているだろうと思っていた。
でもずっと夢見ていたのだ。トゥーリが突然「ただいま」と言って帰ったら、ユッカたちが笑顔で「お帰り」と迎えてくれる。そんな光景を。
トゥーリの目から涙が零れた。
「えっ、トゥーリ!?」
ユッカが慌ててトゥーリの顔を覗き込む。
「いやだって、トゥーリだって結婚嫌がってるって聞いていたから、違ったのか!?」
トゥーリは首を振る。
「どっち?!」
思わずトゥーリは吹き出した。確かにこれではどっちの否定だかわからない。涙を拭ってユッカを見る。
「嫌だった。結婚なんてしたくなかった」
ユッカはほっと息を吐いた。
「そうだよな。だってトゥーリは俺の嫁さんになるんだし」
「えっ?」
「えっ……? いやだって、俺が面倒見るって親父に言ったじゃん」
トゥーリは唖然とする。
まさかそういう意味だとは思わなかった。もしかしてソアニの仲間になるというのは、そういうことだったのか。だとしたら、アイラとパウリが特に仲が良かったのも頷ける。
「別に強制じゃねぇけど」
トゥーリの反応が予想外だったのか、ユッカは拗ねてそっぽを向いた。
嫌なわけがない。でもトゥーリの問題はそれだけでは済まされなかった。
「わたし、義務があるって言われたの。金の髪の娘で、王族だから……本当は違うけどそういうことになっているから、結婚してこの国の人たちを安心させなきゃいけない義務があるって」
ユッカは目を瞬かせた。
「それって、トゥーリがしなくちゃいけないこと?」
素朴な疑問だった。でもそれはずっとトゥーリだけが思っていて、他の誰も口にしてくれなかった疑問だった。
「しなくていいのかな……」
いいと言ってほしくて呟いた。しかしユッカは不満そうな顔をする。
「なんか、らしくないなぁ。トゥーリはさ、トゥーリの行きたい場所に行っていいんだろ?」
発破をかけるような言い方だった。それで思い出す。それはトゥーリ自身が言った言葉だった。
──わたしはわたしの行きたい場所に行っていいはずです。
アイラにはっきりと言った時の気持ちを、もうずっと忘れていた。あの時は、あんなにも強い意思を持っていたはずなのに。
「うん、そうだね」
トゥーリはまったく変わっていないユッカを見た。
「わたしはユッカと一緒に行きたい」
地竜たちを置いていく罪悪感もある。しかしこれはきっと彼らが望んだことでもあるのだろう。六年前にトゥーリが城に戻って来た時、彼らはトゥーリだけにわかるように不満を表していた。
さっきだって、初めてあんなに吼えたかと思えば、トゥーリが飛竜に連れ去られた瞬間、吼えるのを止めている。そして優しい目で見送られた。
子供のように大切にしてくれた。だからもう、帰ってはいけないのだ。
ユッカはとても嬉しそうに笑っていた。
彼の笑顔はいつもトゥーリを温かい気持ちにさせる。
「大丈夫だ。飛竜がしたことに、この国の奴らは文句なんか言わねぇよ」
「あっ、飛竜! ユッカどうして飛竜がいるの?」
忘れていたわけではないが、知りたいことが多すぎたのだ。飛竜は少し離れた場所で、疲れたとばかりに寝そべっている。
「ガーデルト山で見つけた。友達」
「生き残ってたの?」
「んー、それはちょっと違うな。飛竜も地竜も同じだし」
意味がわからなくて、トゥーリは首を傾げた。
「でもラウナ=レーラたちは空を飛べないよ」
「あいつだって何もしなけりゃ飛べねぇよ。ガーデルト山に特別な鉱石があるんだ。それを食べた竜が、石の不思議な力で空を飛べるようになるんだよ。あんな大きな生き物が翼の力だけで飛べるわけねぇだろ」
「そう、なの?」
それを言えば、石の力で飛べるというのも変な話だが、それはもう、そういうものと思うしかないのだろう。実際に飛んでいる竜を見てしまえば。
「よし、じゃあもう何の心配もいらねぇよな」
「……うん」
「じゃあ、皆のところに帰ろう」
帰るという言葉に胸が温かくなる。
皆は六年経った今も、トゥーリをあの頃のように迎えてくれるだろうか。
そんなトゥーリの一抹の不安を見透かしたわけではないだろうが、ユッカは悪戯っぽく笑った。
「ちゃんと『ただいま』って言えよ」
トゥーリがそうであったように、ユッカはトゥーリとの思い出をいくつも覚えてくれている。
トゥーリは六年ぶりに心から笑った。
「うん」
ユッカが差し出した手を、トゥーリが取る。
二人は手を繋いで歩き出した。
読んでくださって、ありがとうございます。




