第一話「春の風が来た日」
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春の風が、山を越えてきた。
杉の梢が揺れた。
その揺れの中に、一羽の鳥が降りてきた。
茶色の羽に、喉元だけが白かった。目が、黒く、丸かった。羽の先が、少しだけ傷んでいた。長い距離を飛んできた者の羽だった。
降りた枝は、山の中腹の杉の木だった。
鳥は枝の上で羽を畳んだ。
息をした。
山の空気は、飛んできた場所の空気と違った。湿っていた。草の匂いがした。川の音がした。遠くではなく、近くに川があった。
ここにしよう、と鳥は思った。
思った、というのは正確ではないかもしれない。鳥が言葉で考えるわけではないから。しかし体が、ここにしよう、と言っていた。羽が、ここにしよう、と言っていた。
だから降りた。
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もう一羽が、近くにいた。
最初から気づいていた。
三本隣の枝に、別の鳥がいた。
小さかった。同じ茶色だったが、喉元が白くなかった。目が、黒く、丸く、しかし最初の鳥より少し大きかった。
その鳥は、降りてきた鳥を見ていた。
じっと見ていた。
逃げなかった。
降りてきた鳥も、その鳥を見た。
しばらく、二羽は互いを見ていた。
「知っている」と降りてきた鳥は思った。
正確には思っていない。しかし体が知っていた。羽が知っていた。この鳥を知っている、という感覚が、胸の奥から来ていた。
初めて来た山だった。
初めて見る鳥のはずだった。
しかし知っていた。
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もう一羽の鳥も、同じだった。
知っている、という感覚が来ていた。
どこで知っているかは、分からなかった。鳥に記憶はない。昨日のことも、去年のことも、鳥は細かく覚えていない。ただ、体が知っていることがある。危険な場所を体が知っている。安全な方向を羽が知っている。
そのように、この鳥を知っていた。
体が知っていた。
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風が吹いた。
杉の梢が揺れた。
二羽の間を、風が通り抜けた。
その風の中に、春の匂いがあった。
土が溶ける匂い。草が芽吹く匂い。川の水が増える匂い。
二羽は同時に、その匂いを嗅いだ。
同じ方向を向いた。
山の上の方を見た。
そこに何があるわけではなかった。空があっただけだった。
しかし二羽は、同じ方向を向いて、同じ空を見ていた。
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降りてきた鳥が、枝を移動した。
一本。また一本。
もう一羽のいる枝の、隣まで来た。
もう一羽は動かなかった。
逃げなかった。
二羽は、同じ枝に並んだ。
体が触れるほどではなかった。しかし、近かった。羽と羽の間に、少しだけ空気があった。
その空気が温かかった。
春の風よりも温かかった。
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川の音がした。
遠くで鳥が鳴いた。
杉の木が、また揺れた。
二羽は並んで、山の空気を吸っていた。
夕方になった。
空が橙に染まった。
その色の中で、二羽は並んでいた。
降りてきた鳥が、もう一羽の鳥を見た。
もう一羽の鳥も、降りてきた鳥を見た。
それだけだった。
言葉はなかった。鳥に言葉はないから。
しかし、それで十分だった。
山に、夜が来た。
二羽は枝の上で、羽を膨らませた。
並んで、眠った。
初めて来た山で。
初めて並んだ枝の上で。
しかし、初めてとは思えないまま。
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夜の山に、星が出た。
川が流れていた。
どこかの梢で、梟が一声鳴いた。
それだけだった。
それだけで、春が始まっていた。
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(第一話 了)




