第1話 また《悪役令嬢》ですの?
空中に浮かんだ文字を見て、九条凛花は一瞬、息の仕方を忘れた。
職業:《悪役令嬢》
講堂が静まり返る。
それは祝福の沈黙ではなかった。
全員が同時に「何それ」と思い、理解が追いつかずに止まった時の沈黙だった。
「……は?」 「悪役?」 「令嬢って職業名なの?」 「いや、冗談だろ」 「よりによって九条さんが?」 「終わったな」
最後のひと言は小さかったが、よく通った。
ああ、失礼。名乗っておこう。
私はこの世界の創造者にして管理者、ついでに案内役だ。神と呼んでくれて構わない。正式な神名は長くて厳めしいので省略する。人類はどうせ略す。最初から神で十分である。
さて、目の前の少女――九条凛花。
彼女は今、現代日本の職業授与式で《悪役令嬢》を授かっている。
なかなか珍しい。
なにせ彼女、前世で本当に悪役令嬢をやって、一度きっちり間違えているのだから。
都立第一ダンジョン総合学院、中央講堂。壇上には認証水晶。左右には保護者席。後方には学院関係者、そのさらに後ろには国家認可ギルドと企業系クランの見学担当。
現代日本にダンジョンが現れて三十年。職業は、進学、就職、探索者ライセンス、将来設計のすべてに関わる。夢を測る儀式というより、人生の査定会場に近い。
だからこそ、沈黙のあとに起きたざわめきは、祝いではなく評価だった。
「データベースにある?」 「聞いたことない」 「“悪役”って時点で印象最悪だろ」 「探索適性あんのか、それ」 「企業側、取らないでしょ」 「縁起悪すぎる……」
後方のスカウト席で、名簿を見ていた男が露骨に視線を外した。別の若手は端末で検索を始めたが、当然ながら何も出ない。私が初めて作ったからだ。
凛花の顔から、すっと血の気が引く。
悪役令嬢。
その四文字は、前世の名より深く刺さった。
エレオノーラ・ヴァレンティア。
それが一度目の彼女の名前だった。
異世界の高位貴族令嬢。王太子の婚約者候補。生まれながらに多くを持ち、それを持っていることすら意識せず、他人を見下すことを誇りだと勘違いしていた娘。
愚かだった。
傲慢だった。
親切を侮辱と取り違え、忠告を無礼と決めつけ、差し出された手を踏みにじった。
そして、失いかけてようやく知ったのだ。
誇りとは、人を見下すための飾りではない。
自分が醜く崩れないための、最後の骨なのだと。
だからこそ凛花は、職業名を見た瞬間、本気で青ざめた。
また、それなの。
司会役の教師が、ひどく慎重な声で言う。
「九条さん、ええと……おめでとうございます。前例は確認できませんでしたが」 「つまり、誰にも価値が分かりませんのね」
凛花の声は静かだった。だが、その静けさがかえって痛々しかったのか、前列の生徒が目を逸らした。
九条家の娘。
成績優秀。
ダンジョン理論は学年上位。
探索向きの有望株。
そう思われていた少女が、“何の役に立つか分からない珍職”を引いた。
現代社会は、分からないものにあまり優しくない。とりわけ、将来性に直結する場ではなおさらだ。
壇を下りる途中、凛花は聞いてしまった。
「九条でも外れることあるんだな」 「外れっていうか、もう事故じゃん」 「推薦とか無理だろ、これ」
背筋は伸ばしたまま。歩幅も乱さない。けれど胸の奥では、何かが軋んでいた。
講堂を出て、人気のない非常階段へ入る。扉が閉まった瞬間、凛花はコンクリート壁に手をついた。
「最悪ですわ……」
絞り出した声は、上品だが本気だった。
「よりによって、また《悪役令嬢》……?」
呼吸が浅い。指先が震える。泣きたいわけではない。叫びたいわけでもない。ただ、前世の後悔が嫌なくらい鮮明に蘇ってきただけだ。
断罪の夜。冷えた大広間。誰よりも正しい顔でこちらを見ていた人々。泣きながら頭を下げた侍女の肩越しに、自分がどれほど醜かったかを知った、あの遅すぎる瞬間。
もう二度と、この名だけは背負いたくなかった。
非常階段には誰もいない。
だから凛花は、取り繕う相手もなく、自分の心と向き合うしかなかった。
悪役令嬢の何が最悪だったのか。断罪されることか。追放されることか。愛されないことか。
違う。
本当に最悪なのは、自分が間違っていると気づかないまま、誇りを履き違えることだ。
あのとき自分は、誇りを持っていたつもりだった。実際には、ただ怯えていただけだった。失うのが怖ろしくて、軽んじられるのが怖ろしくて、だから先に他人を傷つけていた。
そんなものは、誇りではない。
ならば今度は違う。
見下さない。
踏みにじらない。
けれど、折れもしない。
この名がまた与えられたのなら、今度こそ正しく使えばいい。
――ようやく、そこへ辿り着いたか。
前世でひとつ学んだ者は強い。ふたつ学んだ者は、もっと厄介だ。そして彼女は今、痛みごと誇りを握り直そうとしている。
その時だった。
階下の実技訓練場から、鋭い警告音が鳴った。
「おい森本! まだ入るな! 安全同期が終わってない!」 「《重戦士》だぞ俺は! 初級模擬通路くらい余裕――」
嫌なものが来る。
凛花の背筋を、氷みたいな感覚が這った。
見えた。
三歩先。右から二番目の床板。踏む。沈む。連動エラー。天井の射出口が開く。安全装置、停止。圧縮ゴム弾では済まない。非常用の鉄矢が混ざっている。首。肩。転倒。後ろの女子生徒も巻き込まれる。最悪なら、失明。もっと悪ければ――死ぬ。
訓練場の空気が、急に本物の事故の匂いを帯びた。
「止まりなさい!」
凛花の声が、訓練場じゅうに響いた。
男子生徒――森本遼が振り返る。そこで彼は、授与式で見た職業名を思い出したらしい。顔が妙な形に引きつった。
「は? 何だよ――いや待って、なんで《悪役令嬢》に止められてんの俺」 「知りませんわ。ですが、お止まりなさい!」 「説得力があるのかないのか分かんねえ!」
一歩。右から二番目の床板へ、足がかかる。
沈む。赤い警告灯が走った。
「だからお止まりなさいと!」
凛花は飛び込んでいた。
だが、その動きは焦っているはずなのに異様に綺麗だった。
「なんであんなに優雅なんだよ!?」 「足音まで上品なの意味分かんない!」
場違いな感想が聞こえるが、そんな余裕はない。
凛花の目には、踏んではいけない場所が鮮やかに見えていた。前世で叩き込まれた所作。今世で磨かれた礼法。そこへ職業が示す“破滅だけの道筋”が重なる。
右、半歩。左、壁際。そこは駄目。そこも駄目。安全な線だけが、最初から床に引かれていたように分かる。
凛花は遼の腕を掴み、後ろにいた女子生徒を強引に押し返した。
「え、ちょ――っ!」
次の瞬間、天井の射出口が一斉に開いた。
ギィン、と硬い音。鉄矢が通路の空気を裂く。一本は遼の髪を掠め、もう一本は凛花の袖先をかすめて石壁へ突き刺さった。
悲鳴が上がる。
「うそ、鉄!?」 「なんで訓練用に実弾混ざってんだよ!」 「制御卓! 制御卓止めろ!!」
教官が制御盤へ走り、別の職員が非常停止を叩く。だが一秒、遅い。もう二本、矢が来る。
凛花は身を沈めた。引き寄せた遼ごと倒れ込み、女子生徒を壁際へ押し込む。鉄矢が頭上を抜け、防護板に突き刺さる。
ようやく非常停止が効いた。
訓練場が静まり返る。
遼は尻もちをついたまま、顔を真っ青にしていた。女子生徒はへたり込み、肩で息をしている。
制御卓の前で、教官が怒鳴った。
「安全装置オフだけじゃない、メンテ交換前の非常用矢が残ってる!? 誰だ点検通したの!」 「僕です!」 「あとで来い!」 「はいぃ!」
遼が、ようやく凛花を見上げた。
「お、おれ……今、ほんとに」 「死にかけましたわね」
凛花は静かに言った。遼の喉がひくりと鳴る。
「……助かった」 「ええ」 「ありが――」 「その前に謝罪ですわ」 「いや順番おかしくない!?」 「おかしくありません」
凛花の声はひどく冷えていた。
「止まれと忠告されて、それでも妙な自信で突っ込んだのでしょう? 重戦士であって、無敵ではありませんのよ」 「……はい」 「よろしい」
周囲がざわつく。
「悪役令嬢、強……」 「強いっていうか、肝が据わりすぎてる」 「助け方は完全に主人公だったのに」 「説教が悪役令嬢なんだよな」 「いやでも、あれ言われたら謝るしかないわ……」
凛花は自分の手を見る。もう震えていなかった。
見えた。破滅だけが、異様にはっきりと。
そして体は知っていた。背筋を折らず、足を乱さず、みっともなく慌てないことを。
前世の後悔。今世の職業。その二つが、ようやく噛み合った。
悪役令嬢とは何か。
人を見下す役ではない。破滅の気配を知りながら、それでも姿勢を崩さぬ者だ。
凛花はゆっくり立ち上がり、周囲の視線を正面から受け止めた。
さっきまでの失笑はない。代わりにあるのは、困惑と、警戒と、少しの畏れだ。
一度目の自分なら、ここで勝ち誇っていた。あるいは怒鳴り散らしていた。けれど今は違う。
見下すのなら結構。笑うのなら、お好きに。その代わり――結果はいただく。
「《悪役令嬢》が外れ職かどうか」
凛花は訓練場の全員を見渡した。
「誰も知らない職業なら、わたくしがその価値を示しますわ」
沈黙。
講堂でのものとは違う。“珍しい”で止まる沈黙ではなく、“何か始まる”と全員が察した時の沈黙だ。
うむ。たいへんよろしい。舞台の空気としては上々である。
その足で、凛花は学院内の探索者支援センターへ向かった。国家認可ギルドの仮登録窓口。白い受付台の向こうで、職員の女性が事務的な笑顔を向けてくる。
「本日はどのようなご用件で」 「探索者仮登録をお願いいたしますわ」 「承りました。職業名をどうぞ」
凛花は一瞬も迷わなかった。
「《悪役令嬢》です」
職員の笑顔が止まる。止まったまま、ゆっくり二度まばたきした。
「……ええと、もう一度お願いしても?」 「《悪役令嬢》ですわ」 「はい」 「はい」 「……はい?」
背後で書類を運んでいた職員が、ぽろっとファイルを落とした。
「山城くん」 「すみません先輩、でも今のは無理です」 「気持ちは分かるけど拾って」
凛花は淡々と続けた。
「なお、先ほど訓練場で安全装置不全による事故を回避いたしました」 「はい?」 「仮登録に必要な適性確認があるのでしたら、受けます」 「え、あ、はい。あります。明日の実地講習への参加が――」 「結構ですわ」
凛花は受付票を受け取る。
「出ます」
職員が目を見開いた。
「珍職だからといって、立ち止まるつもりはありませんの」 「い、いえ、こちらとしては助かりますが……」 「助かるだけでは困りますわね」
凛花は静かに言った。
「役に立つところまで、きちんと見ていただかなくては」
うつむかない。名に負ける者の作法は、もう終わりだ。
世界初の《悪役令嬢》が、現代ダンジョン社会へ足を踏み出す。前例はない。手本もない。だが幸い、中身は二周目である。
しかも一周目でちゃんと反省している。これはもう、だいぶ強い。
そして明日。彼女は最初の実地講習で、もう一度世界をざわつかせることになる。
さて。少々楽しくなってきた。
---
【主人公ステータス】
名前:九条凛花
前世名:エレオノーラ・ヴァレンティア
職業:悪役令嬢
確認済みスキル:破滅予見/優雅歩法
未解明スキル:瑕疵看破/格位威圧/悪名変換
称号:二度目の悪役令嬢




