第17章 影に生きるもの
薄暗い部屋だった。
窓はあるが、厚いカーテンで閉ざされている。
光は、ほとんど入らない。
代わりに、机の上のランプが、静かに揺れていた。
その光の中に、一人の男がいる。
――カルロス・アーロッソ。
⸻
「……やはり、動いたか」
低く、呟く。
その声は、生者のものだった。
彼の前には、いくつかの紙。
報告書。
簡潔にまとめられた、邸宅の動き。
エミリーの行動。
そして――
昨夜の侵入。
カルロスは、ゆっくりと紙をめくる。
表情は変わらない。
だが。
指先が、わずかに止まる。
「地下に……入ったのか」
静かに読む。
足跡。
白い花。
隠し通路。
すべてが、記されている。
「……そこまで、辿り着くとはな」
小さく息を吐く。
想定外だった。
彼女は。
もっと、守られる側だと思っていた。
⸻
(巻き込まないつもりだった)
カルロスは目を閉じる。
ほんの一瞬。
「……甘かったな」
自嘲に近い声。
⸻
彼は立ち上がる。
窓の方へ歩く。
カーテンをわずかに開く。
外は、まだ薄暗い。
森の奥。
この場所は、邸宅から離れている。
だが――
繋がっている。
地下の通路で。
「伯爵は、動いている」
低く言う。
「当然か」
指輪。
あれを求めている以上、止まるはずがない。
⸻
カルロスの視線が、机の上に戻る。
そこには、小さな箱。
古びている。
だが、丁寧に扱われているのがわかる。
彼はそれを開ける。
中には――
何もない。
空。
だが。
その形は、明確だった。
「……ここにあるべきものは」
低く呟く。
「まだ、渡していない」
指輪。
アーロッソ家の当主のみが持つもの。
すべての鍵。
そして――
「すべての“真実”へ繋がるもの」
⸻
カルロスは箱を閉じる。
その目が、わずかに細くなる。
「渡すつもりもなかった」
本来は。
このまま終わるはずだった。
自分が死んだことにして。
すべてを片付けて。
彼女を、遠ざけたまま。
⸻
だが。
「……あの女は」
思い出す。
窓辺で見た、あの表情。
結婚の日。
そして。
最近の報告。
地下に踏み込んだこと。
伯爵に対峙したこと。
すべて。
「……想定外だ」
だが。
その声に、否定はなかった。
むしろ――
わずかに、熱がある。
⸻
「宝石箱、か」
ふと、呟く。
彼女が言っていた言葉。
――宝物みたいだと。
カルロスの口元が、ほんのわずかに動く。
「……そう見えるのか」
自分が。
そんな風に。
⸻
沈黙。
そして。
静かに言う。
「……なら」
一歩、踏み出す。
「最後まで、見せてやる」
その声は、低く。
確かだった。
⸻
机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは、一つの布。
それを解く。
中にあるのは――
指輪。
アーロッソ家の紋章が刻まれた、重厚な指輪。
鈍く光る。
それは、ただの装飾ではない。
鍵。
そして。
証。
⸻
カルロスは、それを見つめる。
しばし。
そして。
再び、包む。
「まだだ」
今ではない。
渡す時ではない。
⸻
そのとき。
ノック。
低い音。
「……入れ」
扉が開く。
現れたのは、一人の男。
影の中に生きる者。
カルロスの“手”となる存在。
「報告です」
短く言う。
「奥方が、伯爵と接触しました」
カルロスの視線が、わずかに鋭くなる。
「……内容は」
「互いに腹の内を見せぬままの探り合いでした――決定打は出ておりませんが」
一拍。
「完全に、疑っております」
沈黙。
そして。
「……そうか」
短く答える。
だが。
その目は、遠くを見ていた。
⸻
(あの女は、止まらない)
守られるだけの存在ではない。
⸻
「監視は続けろ」
「だが――」
一瞬、言葉を切る。
「近づきすぎるな」
低く言う。
「気づかれる」
影の男は頷く。
「承知」
⸻
扉が閉まる。
再び、静寂。
⸻
カルロスは、ゆっくりと息を吐く。
そして。
窓の外を見る。
遠く。
邸宅の方向。
見えるはずもない。
だが。
確かに、そこにいる。
⸻
「……エミリー」
初めて、名前を呼ぶ。
小さく。
だが、はっきりと。
⸻
「もう少しだ」
その声は、静かで。
どこか、優しかった。
⸻
影に生きる男。
死んだはずの当主。
だが。
すべてを握っている。
そして。
すべてが終わるとき。
彼は、再び“現れる”。
その時が、近づいている。




