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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
六章 地方から来た怪物

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第99話 リスクと誘惑の裂けめ

 レース直後の馬は、アドレナリンの興奮作用により、故障に気づかなかったりする。

 ヴァリアントロアもその例であり、月曜にうつらうつらとしていた時は、特に何も問題はなさそうだったのだ。

 体重はしっかりと減っていたが。

 そして北川が軽く歩かせようとした時、右の前肢が不自然に動くのを発見した。

「裂蹄か……」

 千草はそれを聞いて、髪をかき上げる。

 競走能力喪失などという、深刻なものではない。

 また北川でなければ、気づかないほどの違和感であった。


 裂蹄とは蹄が、そのまま裂ける症状である。

 人間で言うなら爪が剥がれた程度で、痛くても死にはしない。

 だが馬にとっては程度問題だが、致命傷になることもある。

 蹄は第二の肺であり、心臓(※1)でもあるのだ。

 蹄の腐る蹄葉炎(※2)など、馬の死亡要因の大きな一つでもある。


 ヴァリアントロアの場合は、そこまで深刻ではない。

 ただ有馬記念に間に合うか、というとかなり難しい。

 治療法はあるが基本的には、損傷した部分を削蹄するまで、待ってから復帰させた方がいい。

 まずは蹄を清潔に消毒した後、裂け目が広がらないように、接着剤なりを使う。

 そして蹄鉄も接着式のものにするのだ。


 重要なのは次の一事である。

 有馬記念には出走できるのか否か。

「う~ん……歩様が乱れたってことは、炎症が起きて神経を刺激しているはずだしな」

 獣医師である千草は、このあたりの判断は適切なものである。

 ただこの程度であると、調教師の試験にも出てくるが。

「程度問題だな」

 もちろん来年を見据えて休ませてしまうのが、一番安全ではあるのだ。


 3歳の時点でGⅠを五つ。

 かなり血統にクセはあるが、日本の競馬において、これだけの実績を持つ馬は過去にもほぼ1頭だけ。

 なんならもう種牡馬にしてしまってもいいのだぞ、とさえ言える。

『だけど先生、有馬記念もファン投票1位は間違いないでしょ』

「それもそうなんですが……」

 出られるものなら出したい、というのが千草の本音でもあるのだ。

 調教師は賞金を稼ぐのが仕事なので。


 無理をせずに来年の春まで待てば、ほぼ間違いなく治癒される程度の症状である。

 だがこのスーパースターホースに、世間は期待している。

 特に中央代表として、地方代表とのライバル関係。

 もちろん千草としては、もっと大きな視野でも見ている。

 来年も現役を続行すれば、春のドバイに、宝塚記念など。

 そして欧州への海外遠征も、ヴァリアントロアには高い適性があると思うのだ。


「とりあえず今は保留で、経過を観察してから決めます」

『それもそうですね』

 有馬記念のファン投票は始まっている。

 11月末の、一度目の投票結果では、ヴァリアントロアは1位になっていた。

「優姫はどう思う?」

「程度問題」

「だよなあ」

 ため息をつく千草であった。




 裂蹄とは文字通り、蹄の破損である。

 この破損の度合いによっては、細菌感染で致命傷になったりもする。

 人間の深爪などと、同じように考えてはいけないものだ。

 幸いにもすぐに、樹脂固定で破損は修復してある。

 ただ走るだけならば、走れなくもないだろう。

 特に安田記念などの距離とコースなら、そこまでの危険もないと思うのだ。


 秋古馬三冠は達成すれば、特別な賞金のボーナスもある。

 JRAがなんと、三億円もくれるのである。

 ファン投票一位というのも、ちょっと裏切るのは厳しい。

 特に上位で選出されたなら、出走するだけでも奨励金(※3)が入ってくるのだ。

 この上位の奨励金だけでも、欧州の下手なGⅠより高額というのは、現実に存在する諧謔と言うべきか。


 すぐに判断することは出来ない。

 3歳の秋古馬三冠など、今までに達成した馬はないのだ。

 有馬記念の人気、三冠達成の奨励金、勝てば得られるものが大きすぎる。

 だがそれに目がくらんで、一番大事なものを忘れるわけにはいかない。

 それは馬にとって、いいか悪いかという部分である。


 よりにもよって有馬記念。

 6回のコーナーを回る、小回りのコースである。

 それだけ脚にかかる負担は大きく、当然ながら蹄も破損しやすい。

「テキ、そこは大丈夫。危ないと思ったら私が止める」

「それは……」

 止めようと思って止まるのか、あの暴走機関車は。

「いざとなれば落ちればいい」

「おい」

 確かにそうすれば、軽々とコースを回ってくるであろうが。


 落馬に対する恐怖がないのか。

 ないのだろうな、と千草は思う。

 ヴァリアントロアに振り落とされても、空中でしっかりと姿勢を制御できる。

(後方で落ちたなら確かに、他の馬に蹴られることもないのかもしれないけど)

 馬のためなら自分も命がけ。

 比喩ではなく本当に、馬と自分を同価値に見ている。


 騎乗技術や戦略、判断力だけではない。

 その精神性が何よりも、怪物と言っていいだろう。

「出走するかどうかは、獣医師として私が決める」

「もちろん」

 少しでも不安要素が残れば、出走はさせない。

(ぎりぎりまで待たないと……)

 そしてその間に、優姫は香港に行くことになる。




 12月に入った。

 来週は香港というその日、優姫は初めての中京競馬場に来ている。

 主要4場とは言いながら、実は中京競馬場も、GⅠは行われているのだ。

 それが中央競馬では、二つしかないダートGⅠの一つ、チャンピオンズカップ。

 かつてはジャパンカップダートなどとも呼ばれていたが、あまりにアメリカのダート馬へ需要がなかった。


 ダート三冠レースで、最後の一冠を逃したソウルハンター。

 今ならば相手が悪かった、と言えるのだ。

 それでも立て直しに、少し時間がかかった。

 JBCクラシックは回避して、このチャンピオンズカップを目標としている。

 日本のダート馬の特徴は、砂のためにスピードが出にくく、脚部への負担が少ないこと。

 そのため比較的多く走らせることが出来るので、年末の東京大賞典も、体調を見ながら走らせる予定である。


 ただよく考えてみなくても、ダートの古馬戦は初めてである。

 タフな4歳以上を相手に、最後の直線で抜かれる。

 それでも2着に入ったのが、アシュレイリンクさえいなければ、といった矜持か。

 本当にアシュレイリンクがいなければ、ダート三冠は余裕であったのだ。

 しかしデビューが遅れてくれて、しかも芝に行ってくれたおかげで、他の二冠は取れたとも言える。


 東京大賞典に勝てれば、相手次第だが最優秀ダート馬に選ばれるのか。

 残念ながらそうはいかず、海外のダートを勝っている馬が、おそらくは選ばれるであろう。

 しかしまだ3歳なのだから、成長曲線が上向いている。

 父ハートハントはリアルスティール産駒で、芝の馬も出したが、ソウルハンターはダート向きである。

 海外ダートに挑戦するかというと、それはまた別の話。

 スピードタイプのダート馬と、パワータイプのダート馬がいるのだ。


 この開催の中で優姫は、持ち込まれたスポーツ新聞を発見する。

 そこにはヴァリアントロアが有馬記念を回避か、という見出しがされていた。

 あながち嘘でもないが、簡単に洩れるものだ。

 もっとも今回の場合は、むしろ洩らしておいた方がいい。

 ファン投票が1位のままであると、出走の圧力が高まるからだ。


 この調整ルームに隔離されている間にも、ヴァリアントロアはプールでの運動はしているらしい。

 あとはゆっくりとした曳き運動を、毎日やっているのだとか。

 運動をさせないのもむしろ、体調不良につながるのがサラブレッドである。

 中京競馬場に集まっているのは、いつもとは面子が少し違う。

 重賞が行われると言っても、ダートの重賞であるからだ。

 いまだに日本では、ダートは芝の二軍という扱いがある。

 それも仕方がない、という理由はないではないのだが。




 アメリカや中東のダートは、土か粉。

 それを固めて、スピードが出るようにしている。

 日本のダートは砂で、脚部を保護するのが目的。

 それだけに引き抜くのに力がかかり、タイムはあまり出ない。

 雨が降って重馬場になった方が、むしろ脚抜けが良くてスピードが出る。


 日本のダートのGⅠ級は、距離は2000まで。

 今回のレースも左回りの1800mであった。

 アシュレイリンクが怪物だっただけで、普通は追い込みは届きにくいのがダート。

 前でレースをして、最後に抜かれたしまったが、古馬が強かった。

 ハートハント産駒は、晩成寄りが多いのだ。


 そして栗東へ帰還。

 すぐさま準備をして、香港に飛ばなければいけない。

 オーストラリアに香港と、今年は遠距離移動が多かった。

 モーダショーの調子は、曳き運動を中心に、弱い負荷が多いらしい。

 どのみち他のジョッキーでは、なかなか本気で走らないのだ。


 オーストラリアもそうであったが、季節感がぐちゃぐちゃになる。

 香港は沖縄よりも、さらに南にある土地だ。

 つまり冬がないわけで、馬よりもむしろ優姫の方が、環境変化に翻弄される。

 それでも温かい場所から、寒い場所に行くよりは、ずっと楽なことであろう。

 オーストラリアも香港も、寒い日本から向かった先なのだ。


 そして想像通り、モーダショーは太っていた。

 強い追い切りだけではなく、長く弱い運動で、しっかり体重を落とさないといけない。

 三ツ木もやってきていて、かなり自分でも手綱を曳く。

 だがやはり優姫が、馬なりで走らせるのが、一番体を絞るのにはいい。

 そして木曜日には、しっかりと強く追い切った。


 考えることが多い。

 香港のレースは日本と違い、調整ルームなどの管理はない。

 当日に集合して、さすがに通信機などは検量室で使えない、という程度のものだ。

 このあたり日本でも、少しは環境を変えようという動きはあったのだ。

 だがその途上で、スマートフォンの不正使用。

 あれでまた、流れが逆になっていった。


 優姫としてはあまり、不便も感じていなかった。

 だが二日間を隔離されるのは、現代人にはかなり厳しいのだろう。

(実際に、精神集中には雑音が入ってくる)

 そう考えると日本の方が、強制的に集中も出来て、悪くないとすら思うのだ。




 香港ヴァーズは2400m。

 これは日本産の日本調教馬が、初めて制した海外GⅠでもある。

 サンデーサイレンスに、最も気性は似ていたと言われるステイゴールド。

 黄金旅程とも香港では記された、この50走もした馬は、ラストランとなったこのレースで、初めてのGⅠを勝利したのだ。


 モーダショーからすると、四代前の祖父にあたる。

 サイアーラインのつながりとは、本当に面白いものだ。

 あれからもう四半世紀以上が経過し、日本の馬が世界で勝つのは、珍しくなくなってきた。

 むしろドバイに香港は、普通に選択肢に挙がってくる。

 実際にそこで勝って、世界的なレーティングを上げている馬もいるのだ。


 平坦な2400mのコース。

 カーブもあまりきつくなく、モーダショーに向いたはずのコース。

 だがレースの結果は、ハナ差の2着であった。

 ステイゴールドとは、まるで逆の展開。

 最後のストレートで、しっかりと先頭に立っていた。

 そこを外から来た他の馬に、差されるという展開であった。


 モーダショーは今年、6戦3勝2着2回。

 4着になった宝塚記念を除けば、抜群の安定感である。

「最優秀4歳以上牡馬に選ばれるかねえ」

 負けたとはいえ、三ツ木としては充分。

 春天とメルボルンカップ、二つのGⅠを勝っているのだ。

 他の4歳以上の牡馬には、GⅠを2勝している馬はいない。

 傑出した馬がいないのではなく、全体のレベルが高い。

 それはジャパンカップの走破タイムで、しっかりと証明されている。


 なるほど確かに、これはモーダショーが4歳以上の牡馬として、一番の活躍を見せたと言えるだろう。

 掲示板に乗らなかったレースはないし、負けた相手も強い馬ばかり。

 札幌記念ではアシュレイリンク、そしてこの香港では遠征してきたヨーロッパの騙馬。

 それもハナ差という決着であったのだから。


 なお遠征してきた日本馬は、香港カップのパワーズスターが勝利し、初めてのGⅠを海外で獲得。

 ファムダンサントから逃げたのではなく、香港でマイル最強を示すはずだったウエストレインボーは、惜しくも地元の最強馬に負けて2着。

 日本馬が1着と、2着に2頭という存在感を示して終わった。

(ロア君がスプリントにでも出てたら、勝ってたかな)

 そうも思うが、おそらくマイルでは勝てていたであろう。




 優姫は本当に忙しい。

 次の朝日杯にも、有力馬で参戦の予定なのだ。

 だがまず日本に戻ってくれば、ヴァリアントロアの様子の確認。

 こちらに来た時は、関西国際空港を利用した。

 しかし帰国には成田へ向かい、そこからSBCファームへ。

 相棒の様子を直接、確認する必要があったのだ。


 空港で勝った新聞以外にも、ネットでファン投票の動向は分かっている。

 ヴァリアントロアはまだ、出走が確定していない。

 少なくとも悪化はしていない、との連絡はあった。

 だがやはり最終的に、追い切りが出来るかどうかで、出走は決めると千草も言っている。

「大丈夫そう」

「悪化はしていませんね」

 付きっきりの北川と、エージェントの城崎が、SBCファームでは待っていた。


 蹄の炎症は、一週間で問題なく収まっていた。

 運動はプールを中心に、曳き運動だけを行う。

 経過が順調であるだけに、使いたいという欲求には駆られる。

 だがヴァリアントロアは、残した実績が大きすぎる。

 血統的に見れば、かなり微妙なところであるのだ。

 サンデーのラインが三本あり、母系の活躍馬も地味。

 それでも馬自身の競走能力は、圧倒的な実績を残している。


 ジョッキーではなく、ホースマンとして考えてしまう。

 種牡馬として繁殖入りしたら、どんな馬を出してくれるのだろうかと。

 小柄ながら持っている、そのパワー。

 また瞬発力もあるため、芝ダート双方への適応が期待される。

 この血を残す、と優姫は決めているのだ。


 最終的な締め切りは、まだ先になっている。

 ただ諦めるだけならば、当日であっても構わない。

 だがそれで出走できる馬が1頭減る、というのは外聞が良くない。

 出走の締め切りぎりぎりで、判断しなければいけない。

 ヴァリアントロアがでないのであれば、出られる馬が1頭増えて、そこはちゃんと準備をしているのだから。


 最終的にはこれからまた美浦へ移動し、そこでの追い切りで決める。

 少なくとも今のところは、出られなくもないといった状態なのだ。

「テキはどう考えてるんですかねえ」

 城崎はそう言うが、これはオーナーの意向も関係してくるだろう。

 だが優姫は絶対に、馬が大丈夫でない限り、走らせることなどはない。

(けれど、アシュレイリンクとは勝負させたい)

 もっとも万全でなければ、おそらくは勝てないだろうが。

 決戦の日は近づいていたが、挑むことが出来るかどうか、それさえもまだ決まっていなかった。


 ※1 蹄は第二の肺であり心臓 

 馬の足元には人間のような太い筋肉がほとんどない。そのため蹄機作用がある。

 馬が地面を蹴るたびに蹄は数ミリ単位で広がり地面から離れると収縮し、この伸縮運動が蹄の中にある複雑な血管網を圧迫・解放し血液を上へと押し上る。

 歩くこと自体が全身の血液循環を助けているため、蹄は心臓と同じと言える。

 また蹄は空気を通すため、これを完全に樹脂で固めてしまうと、皮膚呼吸が出来なくなるのと近い症状になる。


 ※2 蹄葉炎

 血流が滞ると蹄の内部組織が壊死し、激痛を伴う蹄葉炎を引き起こす。これは第二の心臓が止まるに等しく、馬にとって死を意味するほどの重病。


 ※3 奨励金(特別出走奨励金)

 有馬記念は「ファンが作るレース」という性質上、ファン投票で上位に選ばれた馬には非常に手厚い特別出走奨励金などのボーナスが設定されている。

 ファン投票順位1~3位には2000万、4~5位には1000万、6~10位には500万という金額である。

 ただし、その年の重賞勝利またはGⅠで3着以内の実績がある馬に限られる。

 

 なお秋古馬三冠達成は現在、二億円のボーナスである。

 三億円は近未来設定のためである。

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