第85話 君の物語
なぜ忘れていたのだろう。
アイドルはいつも、地方からやってきていたではないか。
(私は主人公じゃなかった)
優姫は冷静に比較してみた。
自分はシンボリルドルフではあっても、オグリキャップではないのだと。
そう考えるのが、一番自然であるだろう。
主人公にしてはあまりに順調すぎる。
シュガーホワイトとの別れはあったが、それでもこの人生は傲慢すぎる。
競馬村の外からやってきた。
異なる競技からの転向。
元エリートの怪我による強烈な挫折。
あえてJRAではなく地方競馬から。
だが地方から来たからこそ、JRAのジョッキーには不可能な、重賞の記録更新などということが出来てしまっている。
まるで完全に用意されていたような。
(神はいる)
そう思った。
(だけどまだ、こんなものじゃ足りない)
そうも思った。
よくよく考えてみれば、なんとも面白い物語になっている。
こういうのをまさに、ナラティブと言うのだろう。
物語ではなく幻想性。
(私は踏み台か)
だが踏み台が高く、反発が激しいほど、演技者はより高く跳ぶことが出来るだろう。
そう思ったのは体操の知識から、連想したものである。
優姫がやってきた、女性騎手の道を作るということ。
女でも勝てるのだ、ということを示したと言える。
(私は出来るだけ早く、生産者になりたいわけだし)
ただ天音にしても、普通の女の幸せ、とでも言うようなものを手に入れたいのではないか。
(ああ、なるほど)
彼女の前では、巨大な女王として振舞えばいい。
優姫に対する、よく分からないが確かに存在する、天音の敵愾心。
それを強く持っている間に、何をやらせればいいのだろう。
優姫は将棋が好きだ。
そしてロードマップ作りも好きなのである。
(まずは重賞を勝たせた)
勝たれてしまった、と言うべきなのであろうが。
優姫はあのあるはずのない記憶で、オグリキャップを知っている。
だがまさかいまだに、わずか一行のオグリキャップの名前が、あそこまで実況を熱くさせるとは。
(あれも演技かな?)
そうではあってもおそらく、マンガとアニメの影響により、オグリキャップの生涯は再び再構成されている。
人は復活の物語が好きなのだ。
オグリキャップの残した神話は、今もまだ熱を失っていない。
失われたように見えても、そこを掘ればまた生み出される。
(ああ、なるほど)
優姫の認識ではオグリキャップは、既に形而上の存在であった。
だがそれがはるかな子孫として、肉体をもって戻ってきたのだ。
キリストの復活だ。
オグリキャップの産駒は走らなかった。
だからこそ逆に、オグリキャップ単体が神となった。
今はその神が、再び世界に降り立っている。
しかしまだ足りないだろう。
ステイヤーの怪物を倒した、3歳馬の伝説。
過去のオグリキャップもこの時点では、連勝を続けていた。
敗北が必要なのだ。
最高の存在は、常勝である必要はない。
むしろ敗北すらもが、物語においては必要であろう。
(どうやって潰していこうかな)
勇者の像は、傷だらけである方が美しい。
優姫は己の手の内にある、カードを確認していくのであった。
なんだかとんでもないことになっちゃったぞ。
後検量も終わり、口取りと表彰式も終わり、今日の天音の予定は終わった。
だがJRAの職員が特別に、取材の場などを作ってきたのだ。
一応はこちらに確認を取っていた。
もっとも天音はこういう機会に、自分をしっかりとアピールしなければいけないと、既に教育されている。
フィギュアスケートは採点される競技。
その採点を行うのは、人間なのである。
常に好ましいもの、という姿を見せておかないといけない。
子供が子供であることを、許さない世界とも言えた。
審判は人間であるから、間違えるし好みがある。
そういった場所でも天音は、結果を残してきたのだ。
道営という地方の出身。
だが元は東京育ちのお嬢様。
このギャップがまた、天音を特別なものにしていく。
優姫と違ってしっかりと、質問などにも答えるのだ。
『おめでとうございます。これでJRA重賞の勝利騎手、最年少記録の更新となりましたが』
「え、そうなんですか? レースに必死で気づいていませんでした」
どこかぶっきらぼうな優姫と違い、とても好印象なのである。
言葉を必要としない馬を相手にしていれば、自然と言葉足らずにもなってくる。
『最後はものすごい追い比べになりましたが』
「はい、とても強い馬だと分かっていたので、とにかくあそこより前に行けば勝てると考えていました」
正確には優姫にだけは、負けたくなかったのだ。
3歳四月デビューで、4戦4勝。
八月の札幌記念で、重賞初勝利。
遅れてきた主役になりうるのか。
少なくともその血統の中には、日本の歴史を変えた名前が含まれている。
もっともモーダショーも「五冠馬」と「天馬」の血を引いているのだが。
とても古い、だが伝説の血統の対決であった。
それだけでも古い競馬ファンは、魂を震わせたであろう。
オグリキャップが帰ってきた。
父としても母父としても、その血を残すことは出来なかった。
繁殖入りした牝馬の数さえ、とても少ないものであったのだ。
しかしそれが海外から、スピードを持ち帰ってくるとは。
『今後の予定について、何かもう決まっていますか?』
「いえ、けれど先生とオーナーさんが話し合って、決めてくれるはずです」
中央の重賞を勝ってしまった。
ここから先はもう、地方の馬が走る領域ではないのかもしれない。
だがまだここからが本当の、物語は紡がれていく。
GⅡにしては異例の記者会見。
それが終わって調整ルームに、帰る天音である。
夢のような中央の重賞は終わった。
明日からはまた、調教の日々。
ただこれで、未来が拡大してきた。
選択肢が広くなっていく。
この感覚はフィギュアスケーター時代にも感じたものだ。
勲章を手に入れるたびに、世界が広くなっていく。
大井のジャパンダートクラシックに出るか。
あるいは菊花賞に出るのか。
もしくは秋天に出るという選択肢もあるだろう。
祖先の無念(※1)を晴らすなら、菊花賞であるのだろうが。
調整ルームの中でも、女性区画に入ってようやく、落ち着くことが出来た。
他の誰もいない、やっと訪れた静寂。
「……やった!」
やっと喜びを、自分のものとして味わうことが出来る。
これで今日の出番は終了。
あとは調整ルームを出て、アシュレイリンクの調子なども確認しないといけない。
荷物をまとめていると、ドアがノックされる。
ここまで来れるのはJRA職員のみで、調教師でさえ入れない。
まだ何かと考えて開けると、そこには優姫がいた。
「今後の選択肢」
そう言ってルーズリーフを一枚渡してくる。
「関東の育成牧場の連絡先とかも書いてる。それとこの名刺に連絡したら、育成牧場の他に、JRAの馬も回してくれるかもしれない」
書かれていたのは今後、アシュレイリンクが挑むべきルートだけではない。
天音の選択肢までも、そこには書いてあったのだ。
レースに勝ったのは天音とアシュレイリンクである。
GⅠ馬に乗って、1番人気だった優姫は、15番人気に負けた。
「あの……」
「何?」
「……悔しくないんですか?」
「悔しいけど、それとこれは別」
はっきりと言ってくる。
「フィギュアスケートにも、スポーツマンシップはあるのでは?」
「それはそうですけど、これは……」
親切すぎる。
「そうかな?」
優姫は必要なことをしているだけだ。
オグリキャップがなぜ、あれだけの人気を博し、最後にはアイドルでさえなく神格化までされたのか。
その人気の段階は、多層構造によってなされる。
まず最初は地方から出た怪物、というハイセイコーをなぞるライン。
この時にハイセイコーと違い、クラシックに出られなかったということが、オグリキャップを再現不可能なものにした。
「今は追加登録制度があり、その価値はなくなっている」
オグリキャップが、後の馬のために、切り開いた道とも言える。
アシュレイリンクは今からでも、菊花賞なら間に合う。
「でもこれはあまりお勧めしない」
ダービーならば選択したであろう。
「まずは世代最強を証明するべきだと思うけど、菊花賞はそれにはあまり適していない」
「……そうなんですか?」
「悲しいことにそうなっている」
単体の菊花賞馬にはあまり、種牡馬的な価値がない。
2000mも勝てる菊花賞馬なら、価値があるのだが。
ここからの選択は、かなり難しい。
「まずダート3歳最強を目指すという路線がある」
「ジャパンダートクラシック……」
「ここに私の、ダート二冠馬ソウルハンターが出てくる」
3歳ダート最強を名乗るなら、ソウルハンターに勝つべきだ。
果たして勝てるかどうか、それはまた話は別だが。
優姫の見るところ、勝算はそれなりにあると思う。
自分の愛馬の負けを、素直に計算してしまっているのだが。
「アシュレイリンクはハツラツと違ってそこまで頑丈じゃないから、前哨戦を他に使うのは難しい……」
そう言いながら優姫が示したのは、国内最高峰の格。
「今日の勝ち方から考えて、レーティング(※2)は高く出るはず」
ジャパンカップ。
この10年間では半分以上、世界トップ5のレーティングになっている。
天音が震えたのは、そのジャパンカップという言葉の重さではない。
このレースを平然と提示してくる、優姫の態度に震えたのだ。
「400mの距離延長を克服しても、他に強い馬が出てくる」
「……2400mならモーダショーも?」
「モーちゃんは海外遠征の予定」
メルボルンカップに出るかどうか、そこはまだ決まっていない。
ただ香港ヴァーズは強く推している。
「私はロア君で秋天に勝つ」
3歳馬ながら2000では、既に実績を残している。
「そしてジャパンカップで、こちらも距離の限界を超える」
能力自体はヴァリアントロアは、2400でもこなせるはずなのだ。
3歳で安田記念と秋天を勝つ。
そしてジャパンカップまで勝ってしまえば、それは間違いなく年度代表馬である。
「まあそちらがどういう選択をするかは、そちらが決めること」
だがどうせなら、一番分かりやすいジャパンカップで対戦し、共に限界を引き上げられるならその方がいいのだが。
「4歳には他にも、強い馬はいるけどね」
だからこそ札幌記念で、GⅡとはいえ実績を残しておきたかった。
「フォーリアナイトにボーンクラッシャーは年度代表馬クラスだから」
そして故障さえしなかったら、シュガーホワイトがそれらを全て抑え、ゴールを通過していたであろう。
門別の厩舎に戻ってくる。
レース後にも確認していたが、再度アシュレイリンクの脚元を確認。
特に問題はなく、ほっと一息である。
「やっと化骨が終わったかな」
アシュレイリンクは晩成である、というのは関係者の共通認識。
だが天音は去り際に、優姫に言われていたのだ。
「先生、リンクって本当に、晩成なんでしょうか」
「う、う~ん……」
天音がアシュレイリンクに会ったのは、今年の四月のこと。
騎手デビューとほぼ同時に、デビューしたわけである。
それは痛い指摘なのである。
秋藤にとってと言うよりは、オーナーである富田林にとって。
「どうして、そんなことを?」
「天海優姫が、言ってたんですけど」
「あ~、これはちょっと、他には言えないことだけどな」
そして内緒話をする二人である。
アシュレイリンクは普通に、1歳の冬には馴致から育成を開始された。
だが特に2歳になってからは、元の富田林牧場に戻されている。
預託料を払うのが苦しく、充分な育成が出来なかったのだ。
「まあそのあたりも含めて、晩成と言うよりは発育不良の方が正しい」
「あ~……」
富田林のことを知っていれば、それも仕方のないことである。
馬が可哀想と言っても、無い袖は振れないのだ。
トラブルブレイカーは、比較的晩成が多いハーツクライ系。
ようやく重賞を勝ったのが5歳なのだから、これまた晩成である。
3歳のデビュー後から一気に、体重も増えていった。
自分の飼葉代を、まさに自分で賄えるようになったからだ。
さらにこの時にはもう、秋藤も素質を認めていたからである。
だが、まさか3歳で中央の古馬混合重賞を勝つとは。
これでもう完全に、預託料の問題はない。
さらに微小な必要栄養素まで、しっかりと補給していける。
「しかし天海騎手はそんなとこまで見抜いたのか……」
馬に乗る能力だけではない。
モーダショーやヴァリアントロアの逸話を聞いていれば、その調教に関しての知識や能力も、騎手の領分を超えているように思える。
アシュレイリンクは本当に、もう成長が終わったのか。
おそらくはまだ終わらず、ゆるやかであるが成長を続けている。
「ここからのキャリアはなあ……」
秋藤も悩むところなのだ。
とりあえず道営では、そこまで大きなレースがもうない。
どのみち冬場は休みになるのだから、早めに南関辺りに一時移籍して、まずダートのJpnⅠを狙うべきなのか。
菊花賞を狙う必要はない。
優姫の示したルートは、なんとも皮肉なものである。
(追加登録は、皐月賞の前ならなあ)
アシュレイリンクの適性距離は、血統的にも間違いなく、長距離ではない。
父親にはあまり似ていないが、それでもステイヤー体型でないのは間違いないのだ。
オグリキャップの血を残す。
それだけを目的とするなら、札幌記念にあと一つ、ダートGⅠでも種牡馬入りは出来るのではないか。
ただその血をしっかり残すためには、繁殖牝馬の質も上げなければいけない。
(母系がスピード血統だから、どうなのかな)
オーストラリアでは飽和しかけている血統である。
だが逆に日本では、かなり異系の血統なのだ。
トラブルブレイカーはサンデーのサイアーラインに、遠くにミスプロが二本。
あとはエーピーインディ系のタピットまで入っている。
だがストームキャットが入っておらず、サンデーが一本のみ。
これはそこそこ需要があるのではないか、と現時点で血統だけを見れば思う。
そして札幌記念のレコード決着。
2000をGⅠ馬を相手に勝利したこの内容は、GⅠのブランド価値こそないものの、能力がとても高いことを示す。
父のトラブルブレイカーは、兄ネバークライと同じで良血。
「次がダートを使うというのは、間違った選択じゃないな」
その後のジャパンカップも、ネバークライの実績を参考にすると、無理ではない。
年末の選択に、東京大賞典だけではなく、有馬記念もある。
有馬記念はその年の、人気投票で決まる。
おそらくアシュレイリンクも、登録すれば選ばれるだろう。
だが中山の2500mを、果たして天音が乗れるのか。
「よく分からん子だなあ」
天音の持つ、優姫への反発心は知っている。
しかしそれとは全く別の部分で、とんでもない記録を残し続けているのが、優姫であるのだ。
3歳の終わり、そして4歳の始まり。
この時点でのJRAへの移籍を、優姫は最後に書き残していた。
※1 祖先の無念
以前にも書いたが、オグリキャップはクラシック登録がなかったため、ダービーにも菊花賞にも出られなかった。
現在は追加登録制度が出来たが、これは別名オグリキャップ条項とも呼ばれている。
※2 レーティング
競走馬の能力を国際的な基準で数値化したもの。
日本ではJRAのハンデキャッパーが、レース内容を分析して数値を算出する。
単位はポンドで、おそらくこの勝ち方と相手なら、120ポンド以上にはなる。




