第73話 マイルの疾風
スプリント戦はスタートが命。
一気に走り切るため、一度でもミスが出たら、もう取り返す術はない。
マイルに関してもおおよそ、ミスをすればほぼ勝算はなくなる。
しかし完全になくなるわけではない。
本来ならウエストレインボーの単勝が当然の条件。
2着に何が来るか、を予想すべきものであろう。
かなり後ろの方から行っている、ヴァリアントロアの位置。
常識的に考えれば、さすがにもう少し前から行って、差した方がいいと思えるであろう。
優姫もそう思っていたが、ヴァリアントロアがこの位置に入った。
東京の長い直線、ヴァリアントロアの末脚で、一気に抜き去ることが出来るのか。
これまでに走ったコースは、京都と阪神、そして中山。
(阪神のコースのつもりで、乗ればいいのか)
直線の距離や坂など、ある程度の違いはあるにしても。
ヴァリアントロアはパドックで、強そうな馬にガンをつけていた。
その中でもウエストレインボーには、やはり注意がいっていたのだ。
馬が馬を見る、というだけではない。
パドックの人間が全員、ウエストレインボーこそ王者、という気配を察していた。
優姫はこれまでの実績で見れば、確かにそれもそうだな、と納得していた。
海外GⅠの勝ち鞍もある、歴代でもトップレベルのマイラー。
同時代にテラスミュージックがいたため、勝ち鞍を分け合った、とも言われている。
そのテラスミュージックは故障で、このまま引退との噂も流れている。
年齢的にも5歳なので、それでもおかしくはないだろう。
現在の日本競馬は、4歳の時点でGⅠ5勝もしていれば、牡馬ならばまず引退してしまう。
そこから得られる賞金よりも、種牡馬としての価値の方が、高いと思われるからだ。
テラスミュージックもウエストレインボーも、お互いに勝ち鞍を食い合って、そこまで圧倒的な存在とはならなかった。
それでもある程度の故障があれば、やはり引退していたであろうが。
ウエストレインボーがまさに、今はその状態にある。
そしてここでヴァリアントロアに負けたとしたら、ウエストレインボーも6歳まで走らせることはない。
そもそも今の時点でも、マイルで走るスピードがあれば、やや晩成気味でも需要がある。
対するヴァリアントロアは、今はまだ3歳。
5戦4勝3着1回。
皐月賞を勝っていて、マイルの距離では無敗。
果たしてどちらが、種牡馬としての価値があるだろうか。
コーナーに向けてやや、前に進出しておく。
ただインに入るのではなく、外にちゃんと出せるようにしておくのだ。
府中の直線は長く、そして坂がある。
その坂で脚が止まらなかったら、坂の終わりからは一気にまた伸ばしていける。
逃げた馬を視界に入れて、ウエストレインボーが二番手。
ファムダンサントも先団の前めに、位置を移している。
それに比べるとヴァリアントロアは、いくらなんでもまだ後ろすぎる。
そう思って悲嘆の罵声を上げる人間もいるだろう。
(ロア、お前は今まで、本気で走る条件が整わなかったね)
少しでも距離を伸ばすため、優姫はそういう展開にしてきたのだ。
(だけどこのレース、最後の直線は全力で走ればいい)
そのためにここまで、充分に脚を溜めてきた。
4コーナーを曲がっていく。
さっと外に出して、前方の空間を確認する。
内の馬たちの方が、当然ながらずっと前にいる。
だが最後の直線、そこにかかったヴァリアントロア。
荒々しく咆哮すべく、パワーに満ちた脚が大地を蹴る。
坂でスピードが落ちるのではない。
むしろそんな坂に腹を立てて、闘争心が湧きあがってくる。
本来ならばダートで発揮するようなパワー。
しかしそれがバネにスピードを、ちゃんと兼ね備えているのだ。
他の馬が維持するところで、むしろヴァリアントロアは前に出る。
優姫はここでは、上手くハミを噛ませているのみ。
直線に入ってウエストレインボーは、早々に先頭に立った。
ここから突き放していくのが、ライバルのいないレースでのスタイル。
後ろから抜けてくる馬もいるが、そうそう簡単には追いつけない。
3歳2頭を除けば、既に格付けは済んでいる。
そう思っての必勝パターン。
だから甘いところが出てくるのだ。
集団の中から、ファムダンサントが突き抜けてくる。
6戦6勝のマイルの女王。
鋭くキレるスピードは、まさに牝馬らしいと言えるであろうか。
彼女もまた軽々と、坂を駆け上ってくる。
だがこの坂の攻略は、ヴァリアントロアの方が速い。
NHKマイルCで、勝った時と完全に同じ。
乗り替わった時の常と言うべきか、同じように乗っている。
違った乗り方をして負ければ、言い訳のしようがないからだろう。
(甘いな)
坂を上り切ったところで、ヴァリアントロアが先頭に立つ。
2歳馬の牡牝両マイルチャンプが、3歳の安田記念で先頭を争う。
中と外で2頭は、しっかりとお互いを見ていた。
斤量差は2kg有利であるが、そこまでのものでもない。
優姫は小柄なヴァリアントロアの、本当のパワーを知っている。
(ドバイを勝ったお父さんの、世界最強の血があるでしょ!)
タイミングを合わせて、しっかりとムチを入れていく。
だが坂が終わったところで、ファムダンサントはもう一度伸びてきた。
ここからまた伸びてくるのか。
優姫が考えていたより、ファムダンサントは強そうだ。
考えてみれば負けていないというのは、限界をまだ見せていないということ。
やはりギアがさらにあったのか。
しかしマイルの距離ならば、ヴァリアントロアもまだ、充分に脚を残している。
坂が終わってからの直線。
3歳馬2頭が、他よりも2馬身ほどは飛び出した。
斤量の有利はあるが、それでもこれは世代交代の波を感じさせる。
ほぼ互角の、首の上げ下げになるのか。
だが残り50mを切ったところで、ヴァリアントロアは少し、跳びが大きくなる。
それはむしろ血統的には、母方から伝わったものなのだろう。
飛ぶように駆けろ。
それでいて低く。
柔軟な体を活かして、大きく踏み込む。
半馬身ほど差を広げたところが、栄光のゴールであった。
『3歳馬2頭! 2歳チャンピオン2頭のワンツーフィニッシュ!
府中のターフに、高々と轟く咆哮!
ヴァリアントロア! 皐月賞を制した優駿が、マイル王者も戴冠!
鞍上の天海も小さくガッツ――ああ!
ヴァリアントロア! 天海を振り落としました!
これは大丈夫……ですね、すぐに起き上がった天海優姫。
問題はなさそうですが、そんなところまでお爺さんに似なくてもいいんだぞ、ヴァリアントロア!
あっと、天海から逃げて、これは2着のファムダンサントのところに向かうが!
大丈夫か! 空馬は脚が速い!
……ああ、大丈夫のようです。これは……あ~……なんなんでしょうか?』
2着とは言いながら、マイルでは負けたことのないヴァリアントロアと、ここまで競った勝負をしたファムダンサント。
彼女はヴァリアントロアにとって「おもしれー女」と見なされた。
まあジョッキーも調教助手も振り落とす、乱暴なヤンキー牡馬にはあることか。
あちらは外国産のお嬢様なのだが、まあ身分違いの関係と言おうか。
優姫としては気持ちは分かる。
「ダイタクヘリオスじゃないんだから、ちょっとまだ勲章が足りないよ」
頭の中ではさっと、両者の血統表を比較していた。
ヴァリアントロアはサンデー濃いめで、世界的な血統ならキングマンボとストームキャットが4代前に入っている。
対するファムダンサントは、ミスプロがドバウィから少し入った欧州血統。
「血統的には、悪くない配合だよ」
ただGⅠ3勝のマイラー牝馬に、マイラー牡馬を付けるかどうか。
「私は応援するけど、そのためにはクラシックディスタンスのGⅠが一つはほしいね」
完全にお見合いおばさんの心持の優姫。
手綱を曳きながらゆっくりと、ウィナーズサークルへ向かうのであった。
2歳チャンピオンであった、3歳牡馬と3歳牝馬のワンツー。
それだけでも充分に衝撃であったのに、ゴールした後ジョッキーを振り落とす。
まあ祖父は、三冠を達成したレースでそれをやったのだから、それに比べればまだマシと言おうか。
ただヴァリアントロアの内心など、優姫以外には分かるはずもない。
祖父母が全て内国産のヴァリアントロア。
対してヨーロッパの外国産馬ファムダンサント。
サラブレッド同士にも、恋愛というものは成立するのだ。
本当にそれが恋愛なのかは、実のところ分からないはずだが。
振り落とした割にはおとなしく、ウィナーズサークルへ連れられてきたヴァリアントロア。
ゴールして減速したところだったので、優姫にも衝撃は小さかった。
しかしターフに落ちるというのは、生まれて初めてではないか。
振り落としたヴァリアントロアの方も、たいしたタマではある。
「優姫、怪我は?」
「大丈V」
Vサインを作っている優姫に、呆れる千草である。
オーナー一家もその様子に、ほっと安堵したものだ。
後検量が終われば、口取りと表彰式。
3歳牡馬が3歳牝馬を連れての優勝など、もう今後二度とないかもしれないことだ。
話題的にはここで、ファムダンサントが勝った方が、面白かったのだろうが。
だがこれでGⅠの数は、ヴァリアントロアも並んだ。
朝日杯、皐月賞、安田記念。
(秋はどこから始まるべきかな)
そう考えるぐらいに、この時点では未来は明るい。
「それにしても、落馬なんて珍しかったな」
熟練の調教助手でさえ、振り落とされていたヴァリアントロア。
だが優姫にはそんなことはない、というのが千草の評価だったのだ。
「ちょっと意外なことをされた」
「そういえばファムの方に向かっていったけど、あれはなんだったんだ?」
「関心を持ったらしい」
「はあ。なんだそれは」
千草もそれなりに、恋愛の機微には疎いところがある。
ともかくこれで、残る春のGⅠは宝塚記念のみ。
春と言っても気温的には、もう夏と言ってもいいであろうが。
3歳で安田記念を勝った。
これはもうマイラーであり、中距離までももつ、という馬であるのか。
だが優姫は2400を勝つことを諦めていない。
都内のホテルで祝勝会が行われる。
それにしても優姫は、今年GⅠ級競争だけで、もう6勝もしている。
JRAだけに限っても、4勝という計算。
リーディング順位も首位との差がほぼなく、充分に逆転は可能。
「うちの馬で何度も勝ってくれて、本当にありがたい! こんなことならもっと前から乗っていてもらったら良かったな!」
社長はご機嫌であるが、当の優姫は冷静であった。
「もっと前にはまだデビューしていない」
「そうだった!」
そうなのである。
優姫はまだ、デビューして三年目の騎手である。
ちょっと歴史的に見ても、ほぼトップというぐらいに、勝ち鞍を稼いで大レースにも勝っているが。
「なんか特別ボーナスを、払ってあげたいんだけど、何かある?」
「社長、それはダメです」
「そうなんだっけ?」
「けっこうややこしいですけど、とりあえず現金はアウトです」
「それはさすがに知ってるけど……」
現金はアウトだが、高額なプレゼントなども、かなりの制限が入っている。
なぜならそういったものを得ると、他のレースでオーナーと対立する馬主の馬に乗った時、わざと負けるのではなどという邪推も出来るからだ。
あくまで常識的な範囲で。
もっともこの常識なども、馬主に対してはある程度、融通が利くところがある。
馬主はJRAにとっても、お客さんであるからだ。
しかしジョッキーへの規制は厳しい。
「お願いは一応ある」
千草は止めたが、優姫がこういうことを言うのは、かなり珍しいことだ。
「ほうほう?」
「ファムダンサントを買い取ってほしい」
「ん?」
「ん?」
「ん?」
「「「ん?」」」
ちょっと意味が分からない、一同である。
それでも千草は解釈が出来る。
「オーナーを代えて、自分を乗せてほしいってことかい?」
「違う。引退してからの話」
「ん?」
「ん?」
「ん?」
「「「ん?」」」
ちょっとこれは分からない。
「繁殖入りしてから、ということか?」
これも一応千草は推測して、それに優姫は頷いた。
GⅠを3勝している牝馬。
その繁殖価値は、とんでもないものがある。
五代の馬であるので、そもそも売ってくれるかどうか、その時点で問題があるのだ。
あちらとしては当然、繁殖入りまで考えて、今は使っているのだろうし。
「それは無理だろ」
千草はあっさりと計算するが、社長は少し気になった。
「どうしてそんなことを?」
「ロア君のお嫁さんとして確保したい」
「え?」
「え?」
「え?」
「「「え?」」」
これこそまさに理解不能である。
ただ年配の人間には、分かるところもある。
「そんなダイタクヘリオスとダイイチルビーじゃないんだから……」
「ういぽじゃないんだから……」
「あ、でも振り落とした後、確かにファムに近寄っていったよね」
「あの2頭って、会ったのは今回が初めてだっけ?」
実はその通りである。
むしろ馬産に近いところよりも、オーナーサイドの方がこれは分かる。
馬を一種のペット感覚と考えていれば、自分のところの男の子に、いいお嫁さんを用意してあげたいというのは、確かに一般的な感覚だ。
まさに過去の2頭においても、ファンの間ではそういう声はあったのだから。
もっともダイイチルビーの当時の評価として、ダイタクヘリオスが配合相手になることは、間違ってもありえなかった。
今でもそれはそう、とは言えなくなっているのだが。
現在は高額種牡馬は、ほぼ全てが内国産となっている。
輸入種牡馬で評価が高いのは、スプラッシュヒットぐらいである。
そのスプラッシュヒットは、日高の協会の馬であるため、逆にそこまで極端に高くはない。
だが種付け料は少しずつ、しっかりと上がってはいるのだ。
それこそモーダショーが、長距離といえGⅠを二つも勝ったことも大きい。
あれでスプラッシュヒットは、短い距離の専門種牡馬だ、という評価が覆ったのであるから。
「それは、けっこう面白そうだね」
だから社長がこんなことを言ってしまうのも、むしろ一般人の感覚としては、充分にありえることなのだ。
「いや、無理ですよ社長。五代が自分のところで持っている、繁殖を見込んで買ってきたGⅠ3勝馬ですよ。それこそソングオブアースとかネバークライとか、お婿さんはあのあたりになる……あれ?」
そこまで言って、千草も気づいた。
ソングオブアースやネバークライは、確かにトップクラスの種牡馬だ。
だが現役時代の成績というのなら、これからヴァリアントロアが上回る可能性は充分にある。
血統的にもソングオブアースやネバークライはむしろ、ヴァリアントロアに比べればほんの少し、近親になってしまう。
サンデーサイレンス系が濃いヴァリアントロア。
ノーザンダンサーの中でもサドラーとダンジグ系が濃いファムダンサント。
単純に血統だけを考えれば、配合は充分にありうる。
あとはヴァリアントロアが、競走能力を示せば、といったところか。
「ロア君でジャパンカップかドバイを勝って、購入資金を稼ぐ」
何を言っているんだこいつは、という目で優姫を見る千草。
だが条件的には絶対に不可能というわけでもないと、理性では分かっていたのであった。
※ ダイタクヘリオスとダイイチルビー
90年代初頭の「華麗なる一族」の令嬢と「新聞が読める爆笑王」と呼ばれた馬の恋物語を指す、競馬ファンの定番ネタ。
実際に2頭は同路線の距離が得意だったので、何度も対戦しているというのは本当。
そしてダイタクヘリオスは充分に名馬だったが、ダイイチルビーの配合相手は既に実績の出ているトップ種牡馬ばかりとなった。
サンデー、トニービン、ブライアンズタイムに問題なく配合できる血統だったのである。
現在のように内国産種牡馬主流の時代であれば、もうちょっとGⅠを勝っていれば充分に可能性はあった。
繁殖牝馬としての後期には、主に持ち込みの競走実績馬と配合されているのだ。
なお設定の齟齬が発覚したため、当該部分は修正してある。
ファムダンサントは外国産馬で、日本の内国産種牡馬とは付けやすくなっている。




