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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
四章 新たなる栄冠

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72/125

第72話 斤量は翼か枷か

 レースの前には色々と、3歳の牡牝マイル王者ということで、注目は集まっていた。

 だが実際のレースになると、5歳馬ウエストレインボーが、実績からしても1番人気になっている。

 馬券親父の強かなところと言えるだろうか。

 しかし実際にこの時期の3歳馬は、まだ成長途中であったりする。


 理屈だけで言うならば、ファムダンサントは一番有利である。

 人間だけではなく馬も、実は牝馬の方が成熟が早い。

 そのためファムダンサントは、もう完成形に近い。

 それなのに3歳馬で、さらに牝馬ということもあって、古馬の牡馬より6kgも軽く乗れるのだ。

 ただ一つだけ、不安材料もある。

 鞍上が代わっている、ということだ。


 安田記念は普通、古馬が58kg、3歳馬が54kgの斤量を課せられる。

 だが3歳牝馬の場合、ここからさらに2kgも軽く乗れるのだ。

 52kgで1600mのマイルを走る。

 馬にとっては確かに、ありがたいことであろう。

 しかし騎乗するジョッキーは、ちょっと無理があるのだ。


 現在の鞍やヘルメットなど、装備品の重さを考えると、いくら軽量の品を使っても1.5kg相当にはなる。

 ファムダンサントの主戦騎手は、日常の体重を52kgでキープしている。

 やろうと思えばもう少し減量も出来るのだが、実際のところジョッキーは、体重を一定にキープするのが常識なのだ。

 優姫にしても体重の前後は、1kgまでが限度である。


 主戦ジョッキーが52kgという場合、他の装備品を加えると、53kgはどうしても超えてしまう。

 実は軽い場合はともかく重い場合は、1kgまでは裁定委員の判断で、許可がされることもある。

 だがそれは正当な理由が必要で、単純に53kgでも乗れる、というわけではない。

 ジョッキーも人間であるので、水分を補給して100gや200g重くなる程度ならば認められることが普通だ。

 だがジョッキーが減量してどうにか53kgまでに抑えた場合は、最初からもっと軽いジョッキーを用意しておけ、という話になる。


 今回の場合はまさに、その軽いジョッキーに乗り替わっている。

 調教などでは何度か乗っているのだろうが、レースでは初めて。

 そこが弱点だ、と考える人間は少なくない。

 52kgの場合など、それこそ優姫にでも任せたかっただろう。

 しかしこういう時のために、ジョッキーのエージェント・ラインは存在する。

 エージェントの抱えているジョッキーの中で、体重が50kgをキープしているジョッキーに乗ってもらえばいいだけである。




 慣れの問題もあって、これまでのように完璧なパフォーマンスは出せないかもしれない。

 だが出せるかもしれないのが、二番手のジョッキーだ。

 優姫もこれまでに何度か、対決したことはある。

 トップジョッキーの中では、最低レベルの実力。

 しかしまだ成長途上、というのが優姫の評価である。


 自分を基準にして考える。

 今の日本において、警戒するほどのジョッキーは、一人だけか。

 アイルランド人ながら、日本の騎手免許を取った、ショーン・リード。

 この10年の中で半分ほどは、リーディングジョッキーとなった。

 やや勝ち鞍の数が落ちたのは、年齢による体力の衰えと聞く。

 あとは代謝の問題で、体重が落ちにくくなったとか。

 本来ならばファムダンサントは、彼が乗っていたはずだ。


 軽く乗れる3歳牝馬は他に任せて、自分は古馬に乗っている。

 おおよその実力は、全馬把握している。

 ウエストレインボーが一応は、実績では圧倒している。

 だが無敗の3歳牝馬には、期待も集まっている。

 おおよその馬の実力に従えば、ヴァリアントロアでも勝ち負け。

「古馬とは初めての対戦だが、どうなんだい?」

「自滅だけが怖いかな」

「おいおい、頼むよ」

 パドックにおいて千草と、社長と一緒に話している。

 

 本日は奥方と二人、そして娘さんが一人、府中にやってきた。

「3歳牝馬の戴冠となったら、大きなニュースになるだろうね」

「皐月賞馬がダービーじゃなく安田記念を勝ってもニュースになる」

 3歳馬が古馬を相手にGⅠを勝つこと。

 それも春の安田記念であれば、価値はかなり大きくなる。


 今でもクラシックディスタンスの勝ち馬には、最高の権威が与えられる。

 だが種牡馬として成功するのは、マイルから中距離の馬が多い、というのが海外の常識である。

 スタミナがある馬など、むしろ敬遠されることすらあるのだ。

 そのあたり日本だけは本当に例外だ。

 しかし3200を勝っているディープインパクトやキタサンブラックが成功している時点で、何かがおかしいと向こうが気づくべきであろう。


「勝てそうだって聞いているけど、ライバルはどんな調子なの?」

 そう言ったのは社長の娘で、天才少女として有名なゴルフ選手である。

 普段は見たことがなかったのは、彼女がまだ学生であるからで、土日などは練習をしていたり、大会に出ているから。

 なお女子プロゴルファーは、強ければほとんどの週に試合が入っている。

 怪我などで休むか、あるいは予選落ちしない限りは、ほぼ日曜日は空いていない。


 日曜日に行われるスポーツということで、優姫は少し見たことがある。

 またジョッキーは社交のために、馬主などに誘われることも多い。

 もっとも土日がメインのお仕事の、ジョッキーがラウンドするにあたっては、色々と制限があるのも確かだ。

「ライバルはやはりファムダンサントとウエスト――」

「ちょっと待ちなさい」

 優姫の言葉を千草が止める。

「予想行為」

「……然り。世間一般ではヴァリアントロア、ファムダンサントに注目しているけれど、オッズはウエストレインボーが一番になっている」

「なんか言いかけたけど」

「ああ、それはまあ、後で説明してやるよ」

 娘に対して社長はとどめ、お口にバッテンを作る優姫である。




 優姫はどうしても感覚が、現在の競馬とは狂っているところがある。

 今のも危うく、説明ではなく予想行為(※1)になるところであった。

 昔はそのあたり、騎手や調教師と馬主であれば、かなりナアナアなところもあったのであるが。

 最近は馬主の馬券を買う行為でさえ、うるさく言われることがある。

 優姫はどうにも、歪に正直者なところはあるのだ。


 馬たちがパドックから返し馬に入り、輪乗りをしていく。

「天海、お前迂闊なことするところだったな」

 盤外戦術的に、そう言ってくるジョッキーがいる。

「昔はけっこうアバウトだったから、基準を間違えるところだった」

 ただ優姫のこの返答の意味が分からず、続いてのツッコミが入れられない。


 今は一億総配信者時代。

 証拠がいくらでも作られる時代であるのだ。

 だが2000年ごろはまだ、スマートフォンすら存在しない。

 もちろん当時としても、録音機械などはあったが、日常的に誰もが録音機械を持っている今とは違ったのだ。

 なおこれが70年代ごろまで遡ると、よほどひどいものでない限り、騎手や調教師が予想し合って、それを馬主が知るというのも日常であった。

 八百長の発覚というものが、そのあたりの締め付けを厳しくしていく。


 優姫の、存在しないはずの記憶。

 80年代から残るそれは、競馬が完全に、大衆文化に浸透していく過程である。

(締め付けが厳しくなった)

 もちろんそれは競馬としては、健全なことでもあるのだが。

(昔は札束で馬券を買っていた馬主もいたのに)

 今も一応馬主が、馬券を買えないわけではない。

 だが買う馬主は確かに減ったし、記念馬券を買うぐらいであったりする。


 優姫はそういった記憶を、また箱の中に封じ込める。

 始まるのはマイル戦。

 息をつく間もなく決まるスプリントに比べ、一息で終わるマイル、などとも言われる。

 基本的にスプリントは、息を入れる暇がない。

 だがマイル戦はどこかで、わずかに息を入れないといけない。

 かのフランケルはマイルのレースで、1200m通過時点のタイムが、スプリント戦のレコードであった、などという話もある。

 しかしそれでも、スプリントとマイルは違うのだ。




 馬主席にオーナーと共に千草も上がる。

「お父さん、さっきのあれ、どういう話だったの?」

 千草が優姫の言葉を遮り、優姫も言葉の調子を変えていた。

「あれは……ええと、鳴神先生、説明をお願いします」

 私かい、と思いながらも千草は説明する。

「私たち調教師やジョッキー、厩務員や職員もそうですが、レースがどのようになるのかを、予想して外部に発言してはいけないんです」

「……ああ、八百長とかにつながるから? でも馬の調子はいいとか言ってなかったっけ?」

「それはあくまでも、自分の馬の調子がどうか、ということですから。でも他の馬と絡めて、どういうレースになるかというと、また話が変わってくるんです」

 そう言われても首を傾げる。

 気持ちは分かる千草である。

 実際にそのあたり、境界線は曖昧なところがあるのだ。


 テレビなどの番組で、一般論としてこれまでの成績、またレースの傾向、馬の対戦成績などを語るのは問題なし。

 だが実際にどう展開して、どう決着しそうになるかまでは、間違いなく予想行為。

 これをやってしまうと程度にもよるが、ジョッキーなら騎乗停止、調教師なら調教停止など、厄介な処分を受ける。

 優姫があそこからどう言いかけたのかは、千草としても分かっていなかったが。


 日本の競馬の公正性は、そのあたりもかなり厳しい。

「じゃあ記念に馬券買ってこようかな」

「いや、馬券は20歳から(※2)じゃないと買えないし」

「言わなきゃばれないでしょ」

「ばれた時に俺の馬主資格が停止になったりするんだよ!」

 なかなか面白いやり取りであったが、けっこう重要なことを言っている。

 競馬は国が同元のギャンブルなため、八百長疑いの罰則に関しては、大変に厳しいのである。

 あくまでも日本の話で、海外ならジョッキーが、自分の乗る馬に限っては馬券が買えたりもする。


「つまんないの」

「いや、予想してレースを見るとか、そういう楽しみ方もあるだろ」

「そんなの分かってるよ。うちの馬が勝つよ」

「そりゃまた随分と確信的だな」

「お父さんも分かってるでしょ?」

「……正直昔は、かなり分かったレースもある。だけど引退してからこっち、勝負勘が鈍ってなあ」

「そうかもねえ」

 また大胆な予想であるが、一流のアスリートであると、直感で分かるところがあるというのか。


 千草としてはむしろ、そこが気になった。

「そんなに分かりますか?」

「分かるよ。馬とジョッキー見たら、普通に勝ちそうだし。まあゴルフと一緒で、競馬も野球もある程度は、偶然性が絡んでくるだろうけど」

 ゴルフは確かにそうらしいな、とは千草も聞いている。

 野球もそういえばそうかな、と北海道ファンの千草は普通に考える。


 スポーツというものは、実力差がちゃんと出るから面白いものと、実力差が勝敗につながらないから面白いもの、この二つがある。

 逆にそのあたりの実力差の結果がどうかで、スポーツの魅力はかなり決まるのではないか。

 競馬はある程度の予想が可能で、だからギャンブルとして成立している。

 しかしたまに、去年の有馬のようなことがあるので、そこがギャンブルとして面白いのだろう。


 それにしても一流アスリートの勘。

 優姫なども自分の乗るレースがどうなるか、かなりの確率で予想が当たる。

 このレースにしても、道中に不利がなければ、勝てると言っていた。

 だからこそダービーを諦めて、安田記念を許可したのであるが。

 結局レースに出るのは、調教師の決めることなのだから。




 危ういところをやってしまった優姫だが、既に切り替えている。

 そして今日も相棒は、レースの前からやる気充分で、他の馬についてオラついている。

 ……君はまだ3歳馬なんだよ?

(まあファムとレインボーが、やっぱり要注意かな)

 さすがにマイルの帝王だけあって、ウエストレインボーは警戒しないといけない。

 5歳でGⅠも充分に取っているし、間違いなく今年で引退のはずだ。

 だがどうせなら花道を行くのではなく、次世代の噛ませ犬になってほしい。


 引退レースを勝つというのは、美しい幕引きではある。

 しかしそんな幕引きを許されるほど、競馬は甘くはない。

 まあオルフェーヴルやキタサンブラックのような、圧勝の引退レースもあったりはするが。

 ディープインパクトも含め、あのあたりの馬はもう一年ぐらい、現役をしていても良かっただろう。

 走らせるという観点だけなら、そういう考えもなくはない。

 特にオルフェーヴルは、引退時にまだ成長中であった、などという説もある。


 ヴァリアントロアはどうであるのか。

 優姫が考えるにロアは、気性に問題があるため、長い距離を走れない。

 だがこの気性があるため、競走能力は高いと思うのだ。

 上手く抑えが利くようになれば、むしろ走らなくなってしまうのではないか。

 それでも絶対的な瞬発力があるので、能力が高いのは間違いないが。


 ゲートに入っていって、さてどう決着するか。

 マイル戦は一瞬の判断で、勝負がほぼ決まってしまう。

 だが完全に追っていくだけのスプリントとも、やはり違うのだ。

 特に日本の場合は、GⅠレースならスプリント戦でも、カーブがある。

 そこをどう攻略するか、ジョッキーの作戦と腕によるものだ。


 有力馬がそれほど、極端な枠にいない。

 おおよそ実力が出る、そういうレースになるはずだ。

(斤量の有利を、どうやって活かしていくかな)

 マイルのレースであれば、そこまで大きな差にはならない、とも言われるであろう。

 だがマイルは普通、そこまでの大差がつかないのだ。

 だからわずかな斤量差で、ほんのわずかな勝敗が決まる、というのも間違いない。


 ゲートが開く。

 多くの馬がスムーズなスタートをする中、優姫はわざと一呼吸遅らせる。

 これだけの古馬のマイラーを相手にしても、まだヴァリアントロアの作戦は同じ。

 前に壁を作って、最初にペースを早めないようにする。

 コーナーの位置取りと、最後の直線へのポジション。

 それをどうするかで、レースの結果は決まるだろう。

(歴史を刻ませたりはしないよ)

 優姫は相棒をしっかりと、内側に持って来ていた。

 ウエストレインボーが先団前、ファムダンサントが先団の中。

 ヴァリアントロアはほぼ、最後方からの競馬になった。

 ※1 予想行為

 競馬関係者が、自身の管理・騎乗する馬以外も含め、レースの結果を具体的に予想したり、買い目を公表したりすること。

 競馬関係者とは調教師・騎手・厩務員・JRA職員を示す。

 これが「公正確保についての注意義務」に違反する行為として禁止されている。

「勝機がある」「状態が良い」といった、自身の担当馬に関する作戦や手応えをインタビュー等で話すことは、ファンへの情報提供として認められて問題ない。


 ※2 馬券は20歳から

 実はそうなのである。煙草や酒と同じである。

 昔は20歳であっても学生であれば馬券は買えなかった。

 しかし定時制に通う30歳以上の、働きながら勉強している学生はどうなのか、などといった現実との乖離があったため、現在では年齢でのみ制限されている。

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