第70話 サラブレッドの宿命
徹底的に選ばれて、配合されたもの。
サラブレッドという言葉の意味は、おおよそこのようなものである。
その中でサラブレッドは、ひたすら速さを追求してきた。
スタミナも必要だと言われるかもしれないが、それは速く走って勝つためのスタミナである。
そんなスピードだけを追求してきた結果、サラブレッドというのはひどく、脆い存在となった。
他の種類の馬と比べても、圧倒的に脆弱である。
それでも勝利を目指して、全力で駆けるしかない。
勝利こそが存在証明。
牝馬はまだ牡馬よりはハードルは低いが、それでも全てが繁殖に入るわけではない。
生き残るためには、走らなければいけないのだ。
だからこそジョッキーは、恐れがあっても全力で、馬を走らせる。
口取り式はなかった。
だが表彰式は行われる。
この表彰式にしても、オーナーと調教師は欠席して、代理人が賞状などを受け取るという形になった。
馬が最優先。
そのため馬はすぐにでも、診断を受けて治療に入る。
優姫の場合は調整ルームに戻る必要があるため、少しだけ時間がかかった。
だが本日の最終レースに、乗る馬はいない。
そのためまだ競馬場にいる間に、合流することが出来た。
「種子骨の亀裂骨折やわ……」
レントゲンでしっかりと、それは分かったのだ。
「すぐ止めてくれて良かった」
そう言う権田であるが、残念な気配は消せていなかった。
復帰まではどれだけ無理をしても、三カ月以上はかかる。
すると秋の最後の一冠は、もう間に合わない。
ただどうせ桜花賞を負けていたのだから、牝馬三冠の目もなくなっていたのだ。
ならばここから半年ぐらいをかけて、治療するのが現実的である。
もしくはこのまま引退し、繁殖入りをするか。
ミニョンフルールはここまで、6戦3勝2着2回。
だが桜花賞2着でスピードと早熟性を、オークス優勝でスタミナを証明している。
ここで現役復帰を考えるよりは、繁殖入りした方が、おそらく産駒の売却などで、金銭的にはプラスになるだろう。
惜しいと思って復帰を考えても、競走能力が完全に戻るとは限らない。
ジョッキーとしては、勝てる馬をまだ残してほしい。
ホースマンとしてならば、繁殖に入った方がいいとも思う。
それにしても去年はダービーで競走中止。
今年はオークスで優勝直後に骨折判明。
二年連続で、牡牝の最大の3歳証明戦で、こんなことになるとは。
馬運車に乗せられて、ミニョンフルールは療養牧場へ。
祝勝会の準備はされていたが、そんなものは開催される雰囲気ではなかった。
もっとも予約の取り消しも無理なので、比較的関係者の中でも、遠い人間たちがその料理などを食したが。
オーナーはかなり遅くなってから、そこに合流した。
優姫はもう栗東に向かって新幹線の中へ。
故障した馬の、最も近くにいた自分が、その集団の中に入るのは憚られる。
愛情をこめて世話をした、生産者や厩務員。
結果は出せたものの、その代償も大きかった。
初めてのGⅠ勝利である。
だがオーナーの鹿谷は決めたのだ。
「先生、俺は馬をやめるよ」
その吐露に対して、権田は返す言葉を持たない。
「こんなに嬉しいことと悲しいことが一気に来たら、心臓に悪い」
確かにそれはそうかもしれない。
しかしそう言って、本当に馬をやめられるのか。
実はやめられる。
単純に負けているだけならば、まだ続けるのだ。
多くの馬主というのは、確かに道楽でやっているところはある。
法人化することによる、税制上の優遇措置。
バブルが弾けて一時的に馬主が減っても、そこからまた参入する。
そういうシステムが出来ているのだ。
理屈では続けられるものなのだ。
だからやめるとしたら、感情の問題となる。
初めてのGⅠをもたらしてくれた牝馬。
しかしそれが故障して、馬運車で運ばれていく光景。
馬がどれだけ脆い存在か、改めて知らされたと言うべきか。
権田としてもその気持ちは分かる。
「今の持っている馬たちは」
「それは、まあ引退するまで持っとるよ。ハナちゃんに関しても、繁殖入りで引き受けてくれるところあるやろ」
「そうですか。ただフルールはまだ、復帰できるかもしれませんが」
「そやなあ……まあ一応まだ、怪我がちゃんと治るかどうかで」
これはやめないだろうな、と権田は思う。
愛馬が故障するということは、とてつもなくショックなことであるのだ。
特に長年やっていて、ようやく大きなところを勝った馬には、愛着がつくもの。
そこでこうやって、感情的になるのはおかしくはない。
(でも元気に戻ってきたら、また馬をやりたくなるんよなあ)
サラブレッドの魅力は、ある意味で麻薬よりも強烈なものだろう。
血統を追って何十年も、続ける人間もいるのだから。
レースは個数限定の合法ドラッグと言ってもいい。
春天を勝ってオークスを勝った。
これで八大競走のうち、四つ目を制覇である。
(あと六つ)
優姫が狙っているGⅠは基本的にマイル以上。
その中でもマイルCSよりは安田記念である。
八大競走に加えて、安田記念とジャパンカップ。
それ以外のGⅠに関しては、そこまで興味がない。
今回はついに、府中のGⅠを勝つことが出来た。
(次は安田記念の前に、東京ダービーか)
東京優駿と、素人さんは普通に間違えるだろう、ダートのダービーである。
普通にダービーの方はスルーしているが、それは勝ち目の薄いことを悟っているからだ。
もしも勝てるとしたら、上位の3頭が牽制し合って潰れた時。
あちらが先行しすぎて脚を使うか、逆に全く脚を使わずに仕掛けが遅れた時。
クラシックは秋にもあるが、どちらかというと春の方が重要。
(秋華賞はまた、他の仔を探さないといけないか)
ミニョンフルールが復活するにしても、レースに戻すのに秋華賞は間に合わないだろう。
色々と裏技を使うこともあるが。
「ただいま~」
「おや、お帰り。パーティーには出なかったのかい」
「挨拶だけして帰ってきた」
「……まあ、そうか」
あれは優姫の責任ではない。
だが優姫が止めれば、骨折には至らなかっただろう。
そういう人間がパーティーの中にいるのは、確かに針の筵なのかもしれない。
優姫でもそれぐらいの感情はある。
次はいよいよダービーである。
そのために最後の調整を調教でつけて、万全の状態で送りだす。
またダービーは一つの区切りではあるが、その後もずっと競馬は続いていくのだ。
翌週には安田記念、その翌週には宝塚記念。
そしてローカル開催のシーズンに入る。
大レースではダービーにワカフリート、安田記念にヴァリアントロア、宝塚記念にはおそらくモーダショー。
この中で優姫が明確に1着を狙っているのは、安田記念のみである。
モーダショーの阪神適性は、それなりのものである。
だが距離以外にも、それなりに違うところは多い。
もっともどちらも、タフなレースになるという点では、同じことであろうが。
厩舎の中にはロアもいる。
上手く調教をつけるのが難しいため、優姫がかなりつきっきりになるのだ。
「なんだかんだ、お前も怪我とは無縁だね」
優姫のお手馬の中で、一番頑丈なのは間違いなく、モーダショーであろうが。
凶暴なロアは優姫相手でも、完全に心を許しているわけではない。
だが触れるのを許す程度には、親しい関係になっていた。
衝撃的なオークスは終わった。
おそらくこのままであれば、最優秀3歳牝馬は、ファムダンサントに取られるであろう。
優姫としても秋華賞や、それ以降に乗る馬を考えないといけない。
この故障をむしろ、チャンスと考える陣営はいるだろう。
優姫もおそらく調教などに乗って、どの馬をメインで乗るか考えないといけない。
今回のオークスはほぼ実力差がなかった。
だからこそ限界を超えて、追わなければいけなかったのだ。
結果として骨折という故障に至っている。
もっとも強い馬ほど、ある程度は壊れやすいものなのだが。
スピードが最優先の選別要素で、スタミナや頑丈さなどは二の次。
さすがに今は近親交配などがどの程度か、などということも計算に入れるようになってきているが。
昔の馬は頑丈だった、と優姫は感じることがある。
ただ昔の場合は、調教などの仕上げが、ぎりぎりまで追い込んだものでなかった、という理由もあるのだ。
その頑丈な昔の馬が、今のタイムで走れるのか、と比べてみれば分かること。
(でもモーちゃんの血は上手く使わないといけないかな)
スプラッシュヒット産駒は、特別に丈夫というデータがあるわけではない。
だが同配合の姉なども、全く故障はしていないのだ。
ただこの配合が、頑丈さを保証するものではない。
なぜならサンデーやノーザンダンサー、またミスプロもしっかりと入っているからだ。
血統全体に対する割合は、ナスルーラが一番高いかもしれない。
つまりネアルコが一番濃いのだ。
血統の閉塞ははるか前から、色々と言われてきた。
それがただの妄想ではないと分かったのは、21世紀に入ったあたりである。
ゲノム解析にスーパーコンピューターが使われ、その危険性が具体的に明らかになった。
近交係数(※)という言葉がある。
これがおおいに問題になったのは、種付け管理の発達で、皮肉にも1頭の種牡馬が、200頭以上に種付け出来るようになってからだ。
シュガーホワイトの種付けを、100頭までと制限した理由。
それはもちろん、故障による負担を、考えてのものである。
だが遠い未来を考えると、あえて少なく交配した方が、サラブレッドの致命的な血の閉塞を遠ざけることになる。
たった一人がそんなことをして、どうにかなるものでもないが。
ビジネス的な条件が、どうしても優先されてしまう日本の競馬。
下手をするとあと30年以内に、サラブレッドは種としての限界を迎える。
突然変異を期待するのだ。
それも1頭や2頭ではなく、複数頭の突然変異。
たった1頭のサンデーサイレンスが、日本の競馬を変えたことを考えると、これはおかしな話ではない。
(どうしたらいいのかな)
これはダービーに勝つよりも、テシオの名前を継ぐよりも、はるかに難しいことである。
今年の種付けは、シュガーホワイトは全て終わったという。
100頭分の種付けが終わり、92頭が受胎。
発情した繁殖に、不受胎があっても何度か繰り返すことが、シュガーホワイトの場合は少なくなる。
受胎条件で種付け料を取っているため、一度か二度試してダメだった場合、他の種牡馬を付ける場合もある。
なぜならせっかく発情していても、シュガーホワイトは怪我のこともあり、一日当たりの種付けも制限していたからだ。
遺伝子プールという点の、合理ではあるが市場を無視した考えは、やはり他の理由をつけなくてはいけない。
優姫の場合は五代血統ではなく、八代血統まで遡ることも珍しくはない。
自分で作る、というわけでもないのに。
(テシオは正しかった)
アウトブリードを基本にしていたというテシオ。
しかし奇跡の血量などという、オカルトが流行っていた時代がある。
あるいは当時の事情を考えれば、ある程度の合理性もあったのだ。
だが今ではインブリードは、4×3でさえもう危険だ。
基本的には5×4ぐらいまで、インブリードは薄くしなければいけない。
(難しくなった)
父系は3頭まで遡れてしまう。
血を継承するということが、昔よりも切実になってきている。
自分が生産をするまでに、果たして閉塞は完全なものにならないか。
優姫はそれを心配している。
競馬が貴族の娯楽であった時代は、むしろこの点では健全であったのだ。
だが今では伝統の守護が、サラブレッドという種の存続を、脅かしてしまっている。
シュガーホワイトの血統の、世界的な貴重さ。
それは五代内がアウトブリードなことである。
サンデーはサイアーラインに一本のみ。
またノーザンダンサーは六代までまで遡らなけば、インブリードにならない。
この薄まった血統で、どうにか閉塞を遅らせることは出来ないか。
ミスプロのラインも一本のみ。
サドラーもあるがガリレオを経由していない。
だが血統プールが貴重であることと、実際に産駒が走るかは別のこと。
市場経済が、趣味の世界に入ってしまった現在。
技術の発達がむしろ、破滅を近づけてしまったという皮肉がある。
ミニョンフルールは一応ミスプロ系だ。
もっともミスプロ系も分岐が多くなり、一言では説明できないが。
サイアーライン以外にも、三本入ってしまっている。
そしてノーザンダンサーとダンジグが、五代内ではクロスしている。
今はアメリカ、日本、欧州で馬産を分担している。
だが日本は欧州やアメリカから、いまだに輸入することを止めていない。
サンデーを薄めなければいけなかった。
当初の目的はそうだったのだろう。
だが欧米からそれを持ってきたことで、むしろ血統の多様性は、欧米よりも優れていたりする。
逆にまずいのがオーストラリア。
なぜならば南半球のオーストラリアは、シャトル種牡馬という手段によって、ヨーロッパ、アメリカ、日本の種牡馬を集めてこれるからだ。
普通ならそれは、血統の多様性になると思うかもしれない。
実際はデインヒルを基調に、成功したシャトル種牡馬の血が重なって、遺伝子プールが崩壊しかけている。
日本は種牡馬の墓場、とかつては揶揄されていた。
だが改良という点では、それは正しかったのだ。
牝馬は古くからの牝系で、それにどんどんと欧米の、走る種牡馬をかけていく。
もっともプリンスリーギフト系、ネヴァーセイダイ系、ニジンスキー系と偏ってしまった時代もあったのだが。
サンデーという、母系は完全に雑草、父系もそこまで極端な一流ではない。
そんな血統をメインに据えたことで、日本は今や逆に成功。
種牡馬ではなく繁殖牝馬で、強い馬を作れるようになっている。
この事態に対して、果たして何が出来るのか。
一時的に欧米より、遺伝子プールが充実した日本。
ただ北海道に馬産が集まっているのが、また危険性を増す。
システム的な問題で、これを打破するのは難しい。
むしろ血統の多様性というのは、市場経済とは完全に逆方向のものなのだ。
しかしこれは日本のように、中央と地方で二重のレースが成立していると、より存続の可能性が高くなる。
100年後のイギリスの競馬は、もはや競走ではなく、伝統文化になっているであろう、という予測もあったりするのだ。
※ 近交係数
ある個体の両親がどの程度共通の祖先を持っているかを示す数値。その馬が、父からも母からも同じ遺伝子を受け継いでいる確率を表す。
サラブレッドの血統において、近親交配が行われる目的は、優れた祖先の能力を固定し、強く引き出すことにある。
しかしその数値が高まると副作用も顕著になり、虚弱体質、気性の難しさ、繁殖能力の低下、生存率の低下などが起こりやすくなる。
現在の日本のサンデーは、もうノーザンダンサー的な立場になっている。
特定の馬のサイアーラインは発達しているが、他のサンデー産駒も母系に入り強い影響力を持っていたりする。
たとえばスペシャルウィークなどは顕著。
ノーザンダンサー系でもかつて、主流であったニジンスキーやリファールなどは父系はかなり衰えて母系に入っている。これに比べればまだ強いが、ヌレイエフなどもそうである。
またデピュティミニスターなどは完全に、母系に入っている傾向が強い。




