第69話 樫の木の玉座
クラシック競走の中で、一番古く成立したのはセントレジャーである。
ダービーは人の名前、正確には爵位から名づけられたが、同じくセントレジャーもそうだ。
こちらは軍人であり、政治家でもあった人物である。
オークスもそうなのかと思われるが、実はこれは違う。
しかも意外かもしれないが、ダービーよりも早く出来ているのだ。
まあダービーの名前の由来などは、調べればいいだけの話。
ダービー伯爵がエプソム近郊に借りていたカントリー・ハウスの名称がジ・オークス。
この屋敷の周りにあった樫の木にちなんで名付けられた地名だ。
だから今でもオークスを勝てば、樫の女王などと呼ばれる。
自身の屋敷で開催したパーティーの中で、3歳牝馬のレースを作ろうという話になり、そのまま屋敷の名前がレース名となる。
嘘のような本当の話。
だが逸話として有名すぎるので、どこかで監修が入ったりしたかもしれない。
日本の正式名称では優駿牝馬。
距離は牡馬と同じ2400mで行われる。
牝馬限定戦の中では、一番価値が高いであろう。
スピードは種牡馬が持っていることが、大前提の時代。
牝馬には2400mで勝つスタミナがあってほしい。
ただ馬自体は距離が短くても、産駒はスタミナ豊富に出る場合もある。
ヴァリアントロアなどは、まさにそういうタイプだ。
過去の種牡馬であったなら、サッカーボーイがそうである。
しかし今の世界的主流は、本当にマイルから2000に種牡馬実績が集中している。
なので2400のGⅠを勝てる牝馬は、本当に重要なのである。
日本の牝馬GⅠの2400mは、オークスしかない。
古馬のGⅠは牝馬限定自体が少ないが、エリザベス女王杯の2200mまでしかないのだ。
もっとも単に価値を高めるなら、ジャパンカップで5着以内にでも入ればいい。
普通の牝馬は斤量の有利があっても、ジャパンカップでは勝てない。
牝馬の繁殖入りは、条件が緩いのは間違いないのだ。
ここまで5戦2勝で、重賞は二回とも2着。
これだけでミニョンフルールは、充分に繁殖入り出来る。
サンデーのラインが1本しかない、北米血統多め。
(それにしてもミスプロの血は、代を重ねるごとにむしろ距離が伸びてる)
母系に入ってもしっかりとスピードを伝える。
この時代はもう、血統に備えていて当たり前のラインだ。
オークスのこの日、優姫は他のレースにも乗って、1勝している。
メインのために芝の様子を確認する、というのが普通の状態になっている。
この時期にもう、50勝をオーバーするペースで勝っている。
リーディングは2位と、去年の3位よりもさらに上。
エージェントが付いたが、やはりまだ村社会の慣習は残っている。
完全に実力主義なら、もうリーディングを取ってもおかしくないのではないか。
そういう質問をされても、優姫は否定的である。
「そんなに単純じゃない」
なんだかんだ言いながら、優姫のバックボーンは器械体操。
長い時間をかける競技ではなかった。
もちろん競馬も、短い時間を何度も集中する、というものではある。
だがやはり体力の使い方が違う。
ある程度は騎乗を、絞るしかないのだ。
そこは女の、生物学的限界と言える。
男に混じって、GⅠをもう勝ちまくっていても、フェミニストが喜ぶような存在ではない。
女性騎手が強いのではなく、天海優姫が強いだけなのだ。
そもそも馬が強くなければ、競馬には勝てないのだから。
そしていよいよオークスのレースが始まる。
負担重量は55kg。
優姫の現在の体重は49kgに増やしてある。
それでも男性騎手よりは、自前の筋肉を持てる量は少ないのだ。
CM撮影などで、肩などを出した衣装であると、その筋肉がはっきりと分かる。
体脂肪率が女性にしては、圧倒的に少ない。
美しい肉体ではあるが、女性的な美しさではなく、かといって男性的なものであるはずもなく、少年らしいなどと言われる。
牝馬限定戦は、重りの量が少ない。
なのでより、優姫のスペックが完全に出やすくなる。
(1番人気……)
オッズはそれなりに拮抗しているが、ミニョンフルールが一番人気である。
(最近は1番人気が多いような)
かつては結局女だから、でどうしてもオッズが弱く出ていた。
だが優姫の重賞成績は、誰がなんと言おうと、事実として存在する。
なので今は逆に、実力以上に賭けられる、という事態も発生しているのだ。
ジョッキーはオッズを意識して乗ってはいけない、などと言われる。
だがオッズを基準に、周囲の警戒度も考えていく必要があるのだ。
人気が低ければ、極端な逃げや追い込みが決まりやすい。
逆にオッズで人気になりすぎていると、他のジョッキーも自然と警戒してしまう。
そういう心理を計算に入れて、騎乗はしていくべきだろう。
あまり優姫は意識していないが、今の優姫を外から見ると、乗りに乗っている、という状態に思えるのだ。
重賞の好走が圧倒的に多く、そして1着も多い。
今年は既にGⅠ級競走を、皐月賞、羽田盃、天皇賞と三つも勝っている。
重賞で好走するが、特にGⅠ級競走では、好走の中でも1着を取っていることが多い。
むしろGⅠ級競走は、桜花賞とNHKマイルC以外、全て勝っていると言うべき成績なのだ。
晴れ舞台に強い、特殊能力持ち。
GⅠ女と呼ばれても不思議ではない。
特に今年のGⅠ勝率は、間違いなく異常だ。
そこまで技術的に突出しているのか、というと確かに折り合いの付け方と、馬の追い方は間違いなく一流。
あとは馬の邪魔のしないことも、一流と言っていい。
ただ場面における判断力。
またレース開始時点での戦法の選択。
そういったところまでも、確実に上手いと言えるだろう。
逃げで脚が止まって惨敗、追い込みで前に届かず惨敗、そんなレースがない。
勝ち負けは出来なくても、入着まではしている例が多いのだ。
勝てる馬かどうかというと、勝ってもおかしくはない馬である。
だがそれ以上にレースの勝敗において、重要な役割を果たすだろうと思われている。
マークされるというのは、それだけで不利なことなのだ。
「頼むで~、優姫ちゃん」
オーナーの言葉に、優姫としてはもちろん頼まれる。
「5着以内に堅実に入るのと、1着取れるかもしれないけど惨敗もあるとしたら、どちらがいい?」
周囲に聞こえないように、優姫はそう問いかける。
「そら……馬主やってたら、一か八かでも1着がほしいわな」
「了解」
そう言った瞬間の優姫の瞳を、果たして誰か見たものはいたのだろうか。
「でも惨敗も嫌やで」
オーナーの弱弱しい言葉に、珍しくも少し笑った優姫。
パドックでの騎乗から、ターフへと侵入していく。
返し馬で調子を確かめても、とても安定しているのだ。
大きく分ければサイアーラインはミスプロ系。
ただ代を重ねたため、純粋にスピードだけの馬ではなくなっている。
サンデーはハーツクライを通じて入っているが、そこまで気性の荒さは感じない。
母系のガリレオなどを考えると、この距離は得意なはずだ。
血統の深くに眠るトニービン。
それが伝わっているならば、まさに東京2400mは得意なはず。
もっともあまり期待しすぎるのもいけない。
結局は血統ではなく、その馬自体を見るのであるから。
(1番人気ではあるけれど、完全に集中マークでもないか)
輪乗りを行っている間、他のジョッキーの動向を探る。
この樫の女王の舞台で、1着を狙うのは誰か。
(半分ぐらいは可能性がありそうだからなあ)
優姫としても厄介なのだ。
3歳女王を決めるレース。
ファムダンサントは牝馬というよりは、マイル馬という印象が強い。
2000mあれば捕まえられる。
ただ安田記念参戦を宣言しているあちらが、果たして秋にはどう戦っていくか。
安田記念の結果次第だが、マイルCSに使ってくるのか。
あるいはクラブ馬であるから、香港に挑戦するのかもしれない。
ヴァリアントロアは果たしてどうなのか。
マイラーなのではなく、気性的にマイルが向いている、というのが本質である。
それでも皐月賞には勝てた。
秋は何を使っていくか。
(まあそれを決めるのは私じゃない)
そう思っている優姫であるが、優姫の意見はオーナーも調教師も、無視することは出来ないであろう。
ゲートに収まっていく18頭。
ミニョンフルールは4枠⑦番。
悪くはないが、特に良くもない。
(この状況なら、もう少し内が良かったかな)
だが競馬は競走ではあるが、競技ではないのだ。
枠の有利不利を覆してでも、勝つしかないのだ。
全ての馬が収まって、いよいよオークスのスタート。
ゲートが開いて優姫は、スムーズに馬を出すことに成功した。
1頭ほど出遅れた馬がいたが、それ以外は揃ったスタート。
ミニョンフルールは逃げ馬ではないので、スタートダッシュでわずかにリードすると、ポジションだけを少し内側にする。
そして他の馬が、かわしていくのを無理には止めない。
中団ぐらいで待って、脚を溜める。
かなりギャンブル要素の強い、囲まれた状態からの競馬となった。
一瞬でキレる脚。
それがあれば瞬時に、ポジションの空いたところを抜けていける。
ミニョンフルールの脚は、そこまでの瞬発力は持っていない。
だがトップスピードならば、この中でもトップクラス。
あとはそのスピードをどのタイミングで使い、さらにもたせるかが重要になる。
逃げ馬が1頭飛び出ているが、そこまで極端でもない。
今の位置は完全に、中団と言ってもいいだろう。
大歓声に送られて、牝馬たちが頂点を争う。
(我慢比べになるかな?)
それぞれの馬の位置を、少しずつ確認する。
だがあまりに頻繁にやっていると、馬の方が心配してしまうのだ。
流れに任せる。
ジョッキーの騎乗が確かであれば、確実に勝てるというレベルの馬ではない。
それでもやはり最後には、脚を残して勝負する。
(このあたりから上がっていくか)
向こう正面の終わり、3コーナーあたりから。
ほんの少しだけペースを上げるが、重要なのは進路を確保することだ。
どの馬が勝つのか。
それは見ていても分かるものではなかったろう。
優姫の馬の動きは、珍しくも一般的な範囲で動いている。
ただそれは他のジョッキーからすると、存在感が薄くなってきているのだ。
あえてマークする必要はない。
普通に勝負をして、それで勝敗が決まるだろう。
馬主席から見ても、その動きははっきりしない。
解説するアナウンサーも、あまり言及しない。
ただカメラで追っていれば、普通に中団で包まれているように見える。
もちろんそれは承知の上で、優姫は乗っているのだ。
そこまで一瞬でキレる脚はない。
それは調教師の権田も分かっている。
どこまで我慢するつもりなのか、と内心ではハラハラとする。
だが4コーナーを回った時、ミニョンフルールは二番手にまで上がっていた。
真ん中からわずかな間を、するりと抜けてきたのだ。
コーナーの終わったところで、少し馬が膨らんだ瞬間。
そのスペースをしっかりと、見逃さずに抜けてくる。
逃げ馬を捉えて、直線に入ったところでかわす。
だが内からも外からも、同じように抜けてきた馬がいた。
そして大外から、まくってきている馬も1頭。
ただし東京の直線は長い。
まだ集団の中にいる馬が、ここからやってくるかもしれない。
「行け、行け、行け」
自分の声なのか、それともオーナーの声なのか。
あるいはそれ以外、他の馬主の絶叫なのか。
普段は取り繕った社会的な名士たち。
だがこの直線の数十秒に、感情を解放する。
競馬というのはそういうものなのだ。
あまりにも面白すぎて、破産者を続出させるためのもの。
他のギャンブルに比べても、その面白さには別格のものがある。
馬が駆けっこで競走しているだけである。
どうしてそれが、こんなにも面白いのか。
原始的な、ただ走るというだけのもの。
あるいはそれが原始的であるがゆえに、分かりやすい力の証明であるからか。
そんなものが簡単に説明できるなら、ここまで面白いものではないだろう。
全身を使って馬を追う。
腕力も必要であるが、実際のところはそれは、支えるための力である。
脚から腰、腹から肩へと、全身で馬に推進力を与えるのだ。
直線の半ばで先頭に立った。
だがまだ1頭、追い込んでくる馬がいる。
他の馬はどうにか、置いてくることが出来るか。
だが内側からも、差そうとしてくる馬がいるのだ。
計算でどうにか出来るのは、結局最後の直前まで。
あとは馬の持つ、走ることへの欲求。
それをどれだけ、発揮させることが出来るか。
優姫はミニョンフルールの中に、そういった闘争心を見つけている。
限界を超えろ。
3歳女王の場所に立て。
追いかけてくる馬を、振り切って進め。
(あと少し!)
残り50m、勝負はまず3頭に絞られたか。
無酸素運動の全身運動で、優姫は馬を追っていく。
自分も苦しまなければ、馬を苦しめる資格はない。
そう思いながら馬を追う。
ゴール。
内と中と外。
3頭がほぼ同時のゴールであったが、ハナ差ほどの微妙さではない。
画面に表示されたスローの映像で、はっきりと分かる。
クビ差でミニョンフルールが、最初にゴールを通過していた。
『花の女王! 樫の玉座に戴冠!』
アナウンサーが絶叫する。
フルールというのは花というフランス語である。
いちいちどの馬が勝つか、調べて用意しているのだろうな、と思うとちょっと大変だ。
だがこれで優姫は、五月に二つ目のGⅠを勝利したのである。
ただ、このレースはそれでは終わらなかった。
優姫は気づいて、馬を止める。
ミニョンフルールは乱れた歩様で、少してくてくと歩いていく。
「止まって」
ゆっくり止まった愛馬から降りて、その足元を見る。
その様子に、歓声がざわめきに変わっていった。
手を当てればしっかりと、そこは熱を持っていた。
しっかりと立っているので、致命的なものではないのだろうが。
(やっちゃったか……)
サラブレッドの脚というのは、ガラスに例えられるほど脆い。
だが優姫はちゃんと気づいて、すぐにそれを止めたのだ。
馬運車がやってきて、ミニョンフルールを運んでいく。
だがしっかりと自分の脚で、歩くことは出来ている。
「骨か? 腱か?」
「多分骨」
優姫の見立ては間違っていなかった。
オークス馬ミニョンフルールは、この後骨折からの休養に入る。
ただし競争能力喪失、とまでは言われない、種子骨(※)の亀裂骨折であった。
※ 種子骨
馬の球節(手首にあたる部分)の後ろにある小さな骨。非常に負担がかかりやすい部位。




