第110話 世界をつなぐ
ドバイミーティングのような、一日に複数のGⅠが行われるレースでは、優姫は香港に乗った。
しかしあれはモーダショーで、香港ヴァーズに乗ったのみである。
終盤の3レースに全て乗る。
しかもどのレースも、相手は超強豪。
シーマクラシックには、日本馬も2頭参戦。
ボーンクラッシャーとマジックマイスター。
グランプリ馬と、ダービー馬の出場である。
マジックマイスターは、ヴァリアントロアが回避したからこそ、ダービーを勝てた、などと言われている。
だがその後のGⅠレースでも、全く凡走はしていない。
ただヴァリアントロアに、アシュレイリンクという、極めて逸脱した存在が、同じ世代にいたのは不運であったろう。
被害者の会代表になるには、取ったダービーというタイトルが巨大すぎるが。
ボーンクラッシャーも、故障に泣いたクラシックシーズン。
古馬になってようやく、宝塚記念を勝った馬。
だがやはり秋のGⅠ戦線は苦しかった。
この二年ほどの日本競馬は、明らかにレベルの高い馬が数頭、突出していたと言えるであろう。
それを一人で抱えている、優姫の存在はおかしい。
ただ過去を見てみれば、平成三強の全てに乗った若手などというのもいるのだ。
ボーンクラッシャーもマジックマイスターも、本当は松川のお手馬である。
このように超有力馬を、一人のジョッキーが独占しているのはおかしくはない。
ただ今回の場合は、オーナーの意向が強く働いて、両方をシーマクラシックに出している。
1800mの距離でヴァリアントロアと戦うよりは、ずっとマシという判断なのだ。
ところがこの層が厚い2400mの距離に、優姫が参戦してきた。
ソーラードーンという、4歳の牝馬。
だが英愛オークスを勝っていて、ヨークシャーオークスも勝っているというのは、欧州の2400m牝馬では最強ということである。
さらに凱旋門賞で3着し、これがヨーロッパ外2走目。
一番厄介な馬に、王族連中は優姫を乗せたのだ。
牝馬だから、と甘く見ることは出来ない。
2kg減量の恩典はあるからだ。
54.5kgというのは、かなり軽く乗れるGⅠ。
対してボーンクラッシャーは57kgで、マジックマイスターは56.5kg。
わずかではあるが、この差がどう影響してくるか。
同じ日本人だから、という甘い観測は出来ないであろう。
それに他にも、強い馬はしっかりと出てきている。
勝っているGⅠの数が、三つはあって当たり前。
アメリカの芝馬も出走しているのだ。
もっともGⅠの数に関しては、日本が少なすぎる、とも言える。
オーストラリアのように無秩序に増やすよりは、よほどマシだとも思えるが。
ソーラードーンはブリーダーズカップに出走してから、このドバイで調整を行っていた。
そんな地の利まで考えて、圧倒的な有利とも言える。
それでも完全にダントツ1番人気にならないのは、やはり牡馬との混合戦で勝っていないから。
もっとも日本のオッズでは、1番人気になってしまった。
優姫が乗ることが決まったことで。
豪華なイルミネーションに彩られた、夜のメイダン。
レースが進むごとに、その祭りは進んでいく。
シーマクラシックはレースレーティングだけならば、ワールドカップよりも出やすい傾向がある。
そのレースにおいて、1番人気となってしまうこと。
ただ優姫には有利なこともある。
海外の人間はまだ、優姫の異常さをしっかり認識していないのだ。
優姫からするとむしろ、日本馬2頭が強敵だと分かっている。
ただ比較的長くこちらで調整できたことで、有力馬は他にもマーク出来ている。
それこそ同じ中東王族が、送り込んできている馬がいるのだ。
ヨーロッパの馬と違って、それらはしっかりと、ここの芝への適性を確認してある。
UAEの公用語はアラビア語だが、基本的に英語も通じる。
ヨーロッパのホースマンは、およそが英語で通じるのだ。
日本人は若く見られるが、優姫は実際に若い。
21歳であるが、まだ中学生ぐらいに見られる。
ちびっこの多い競馬の世界で、これはちょっと珍しいことかもしれないが。
競馬の世界は実力が全て。
年齢も性別も関係ない、というのが建前になっている。
だが実際のところは、かなり人間関係が重要になっている。
日本の競馬の世界など、親子三代がジョッキーなどということもある。
親が厩務員や調教師のジョッキーは、それよりもずっと多い。
その中ではやはり、優姫は異質であるが。
クラシックディスタンスのシーマクラシック。
ゲートに誘導されていくのも、ソーラードーンは落ち着いていた。
日本馬も松川などは、海外遠征の経験が多い。
そしてマジックマイスターの乗り替わりとなったリードなどは、日本をメインにしてはいるが、外国出身の騎手なのだ。
果たしてどの馬が、一番強いのか。
もしも負けたとしても、まだ日本馬はこの距離なら、ヴァリアントロアとアシュレイリンクが残っている。
ドバイワールドミーティングは、確かに巨大なイベントだ。
しかし日本で話題になるのは、相当の人気馬が遠征したか、それか勝った時である。
高額な日本の賞金より、さらに巨額の1着賞金。
ジャパンカップと有馬記念なら、おおよそはそれに近かったりするが。
今年の場合は馬もだが、ジョッキーが注目されていた。
ヴァリアントロアとアシュレイリンク。
おそらく今の日本の王道路線で、最強クラスのこの2頭。
これに優姫が乗るからである。
さらにシーマクラシックへの騎乗が、現地で決まったという。
こういった強い馬へは、中東の王族オーナーは、契約した騎手を乗せるのが一般的である。
この例外的な騎乗は、それだけにニュースにもなった。
「遠いなあ……」
「まあ仕方ないね」
大井の厩舎では、天音がこのレースを見ていた。
時差は五時間。
だが競馬中継は、専門チャンネルでリアルタイムで行っている。
中東も産業として育てているので、日本の巨大市場は、無視するわけにもいかない。
実際に日本にも、中東の巨大グループの、日本支場が存在するのだ。
日本人騎手が、しかも女性騎手が、この世界的な大レースで勝つということ。
それだけでも充分に、大きなニュースにはなる。
日本の数多くの名馬も勝ってきたシーマクラシック。
イクイノックスもまた、このレースの勝者であるのだ。
欧州の最強馬は、特に牡馬は3歳で引退し、この時期にはもう種牡馬として活動している。
逃げやがって、と思う気持ちは日本人の中にはある。
それがビジネスだと言われれば仕方がないのだが、虚業で人気が落ちるのを無視していれば、やがては崩壊するであろう。
モニターの中では、ゲートが開いてスタートする。
好スタートのマジックマイスターとボーンクラッシャー。
優姫の馬にはあまり、注目が集まってはいない。
日本語の実況も、やはり日本馬が中心。
だが優姫の乗っている馬も、2400の距離では欧州最強の牝馬なのだ。
中団の位置取りで、周囲を他の馬に囲まれている。
これはちょっとまずいのではないか、と天音は優姫の視点で見ていた。
道営をはじめ日本の地方競馬は、前で勝負することが多い。
比較的後ろからも届く、この大井競馬場でさえ、前に位置するのが基本とも言える。
この不安を、果たして優姫は消してくれるのか。
一方的にライバル視している相手でも、簡単に負けてくれたら困るのだ。
客観的に見ることが出来る。
調教師の千草としては、モーダショーなどの自分の厩舎以外の馬でも、優姫が乗っているだけというだけで、客観性からは遠くなっていた。
それでもさすがに外国馬に乗って、日本の代表2頭を相手にする。
これならばどうにか、客観的に見られるのだ。
SSRC関係者は、注目はしていた。
自分たちの馬でなくても、優姫にどれぐらいのレースが出来るのか。
「囲まれちゃったな」
「鳴神先生、これじゃあ厳しいのでは?」
「いえ、この距離で直線も長いですし……」
とは思っても、どうやって勝つかは聞いていない。
競馬というのはなんだかんだ言いながら、先行して強い馬をマークし、最後にそっと差すのが一番安定している。
大外一気や追い込みなどは、確かにパフォーマンスとしては派手であるが。
絶対能力が高いなら、逃げてしまっていい。
進路がクリアなのだから、なんらかの紛れもなくなる。
最近のモーダショーは、比較的最初からやる気を出してくれている。
だから先行や逃げという戦法も取れている。
スタミナの塊であるから、他の馬の脚を削って、自分は最後まで粘り込む。
そんな戦法で勝つためには、トップスピードもある程度必要であるし、距離が長い方がいい。
春天の連覇が、果たしてなるか。
SSRCに関係があるのは、これから走るアシュレイリンクだ。
だがシーマクラシックでは、普通に日本馬を応援する。
日本の馬産全体のレベルが高くなれば、本来なら世界をリードする立場になりうる。
ただ競馬という世界は、極めて閉鎖的なもの。
日本も閉鎖的であるが、最初に作られた構造が、それを超えて閉鎖的であるのだ。
などと考えている間に、馬群を縫ってソーラードーンがやってきた。
牝馬らしい一瞬のキレを、この最後の直線で使ったわけだ。
平坦なメイダンでは、前の馬が残る展開が多くなるはず。
しかしソーラードーンは、その予想を上回ってきた。
「うわ……」
日本の2頭のみならず、5頭ぐらいの接戦となった最後の直線。
クビの上げ下げで、勝敗は決まったのであろう。
「どれが勝った?」
ゆっくりとした映像による判定。
頭半分ほど、ソーラードーンが先にゴールを切っていた。
相手が日本馬であろうが、自分の馬が最優先。
当たり前のことを、優姫はやっただけである。
かくして表彰式では、記念品の時計(※)なども送られる。
一日でGⅠを2勝目。
これぞGⅠレースが集まった日のある、海外でしか出来ないことだ。
そしてワールドカップがやってくる。
アメリカの本当の一流馬は、3歳で引退する。
結果がちゃんと出ていれば、それでもう種牡馬入りさせてしまうのだ。
だがドバイワールドカップに出てくるのが、全て二流馬かというと、それも違う。
晩成馬と騙馬は、ここでも能力を証明するか、賞金を稼ぐ必要があるのだ。
現在の馬産は、巨大なグループにおいては、種牡馬ビジネスが最大のものとなっている。
強い馬を作るのではなく、いかに金を儲けるかが重要となる。
ある程度であればそれは、間違いでもないのだ。
ヨーロッパと違ってアメリカでは、スピードの絶対値とブランドの比較が、誤っている割合は小さい。
だが4歳になってようやくしたような晩成馬は、早熟志向の現代馬産では嫌われる。
そういった馬が種牡馬入りするには、今度は成長性を見せなければいけなかったりする。
ファイナルチャプター。
3歳はせいせいがGⅡを勝ち負けしていた馬である。
それが4歳になってから覚醒し、GⅠをいくつも勝った。
ただ晩成であるというのは、現代競馬では明確なマイナス。
そのためさらなるタイトルを取って、種牡馬入りを狙っているというわけだ。
5歳となって完全に、充実したパフォーマンスを発揮する。
他にも騙馬が2頭出ている。
地元の王族の出している馬もいて、今年は合計で14頭での出走。
中東ダート適性が高いと思われれば、ヨーロッパの芝馬も出ていたりする。
こんな怪物の中を、アシュレイリンクが勝てるものなのか。
それを言えば香港のドリームナイトも、圧倒的な怪物のはずであるのだが。
おそらくあのレースで、ヴァリアントロアのレーティングはさらに上がった。
もしかしたら世界でも、トップかその次ぐらいに。
血統的に微妙な配合で、種牡馬になっても扱いは微妙。
そういう評価であったが、圧倒的な実力とGⅠのブランドは、それを覆す。
(ロアのパワーなら……)
千草は計算するのだ。
ヨーロッパの重い馬場でも、充分に勝てるのではないか。
距離の計算は問題になるだろうが。
初期はマイラーかとも思われたヴァリアントロア。
今はヨーロッパでも、マイルから中距離の価値が高くなっている。
種牡馬として成功するために、そのあたりのブランドがほしい。
実際にはGⅠを1勝だけでも、充分な大成功種牡馬になったりするのだが。
そしてワールドカップが始まる。
去年のブリーダーズカップ優勝馬に、それと肉薄する馬が2頭。
本来は芝馬であるが、充分に強いと思われる馬が何頭もいる。
国際GⅠに限っては、2勝しかしていないアシュレイリンクは、むしろ弱いとさえ評価される。
だが評価軸は様々だ。
東京大賞典で勝利したソウルハンターを、フェブラリーSで撃破。
ドバイターフで完勝したヴァリアントロアと、ジャパンカップではハナ差の勝負。
まだタイトルの数は多くない。
だが実力は間違いなく、とんでもないものがある。
4歳馬が8戦7勝なのだから、弱いはずもない。
また実は、成長途中の馬なのだ。
しかしここで勝てるのかどうか。
それは未知数のものである。
日本のダートでは勝った。
だが日米の、あるいは中東とのダートとは、全く別のものである。
馬を長く、しかも短い間隔で使うため、クッションの利いた砂を使う。
それが日本のダートであり、実際に年に10回以上走る馬など、地方ならばいくらでもいるのだ。
このドバイのダートは、芝に近い。
故障を恐れたクッション性はあるが、それよりは日本の芝に近い。
そんな注目の中で、レースはスタートした。
スタートダッシュは良かったが、無理に先頭に立つことはない。
それでも三番手で、高速のラップについていく。
先頭は地元の馬がいて、二番手にはファイナルチャプター。
このレースにおいても、さすがに1番人気のブリーダーズカップ・クラシックの王。
おそらく現役では、最強のダート馬と言ってもいいだろう。
しかもダートの2000mという距離の。
アメリカタイプの競馬は、最初から飛ばしていくことが多い。
スプリント戦に近いというのはさすがに言いすぎだが、平坦なために最後で脚が止まらない。
なので前の位置を占めて、コーナーをしっかりと回っていかないといけない。
「よし、左回りはいい」
思わず千草は声に出している。
ハイペースによって、スタミナを削り合う。
そのくせ最後に脚を残していても、追いつけるとは限らないのだ。
最後の直線、ファイナルチャプターは上手く、先頭の馬を利用していた。
三番手のアシュレイリンクの、進路をわずかに塞ぐようにする。
ただここまで既に、四番手との差がある。
優姫は迷わずに、外に出していたのだ。
そこからは圧巻であった。
ほんの数歩で、一気にファイナルチャプターを抜き去る。
そして逃げていた馬もあっさりと抜き、単独の先頭へ。
「おいおい……」
「ええ……」
脚が止まってしまうこともない。
ゴールを過ぎた段階では、2着まで上がってきていたファイナルチャプターと、5馬身もの差がついていたのであった。
アシュレイリンク、ドバイワールドカップを圧勝。
いまだに極東の島国の、有力馬の中の1頭。
その印象を覆す、圧倒的な勝利。
実力が世界一なのかどうかは、まだ分からない。
だがこの日アシュレイリンクは、世界に自分の名を刻み付けた。
※ 記念品の時計
スイスの時計メーカーであるロンジンが、シーマクラシックには特に名前をつけている。ロンジン・シーマクラシックというように。
ここで配られる時計は100万円以上の高級モデルだが、単に高いというだけならもっと上の時計はある。
しかし優勝記念の刻印がある時計は、当然ながら世界に数本。
ある意味でははるかに貴重な時計となる。




