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葵の部屋は牡丹の宮の南端にあり、中庭がよく見える。
九天の話によると隣の部屋がニーナで、中庭に出入りしやすいから選んだとのことだ。戸口に近いため他の花嫁候補達から敬遠された一角で、辺りは非常に静かだった。
これならダリウスの訪問も目立たず、葵が目をつけられることもないだろう。
ニーナがいるという隣の部屋に視線を向けてみたが、扉から漏れる明かりはない。
朝が早かったから疲れて眠ってしまったのだろうか。
葵の部屋への訪問にまったく関心を示されていないようで少々寂しい。
「葵様、よろしいでしょうか? 陛下をお連れ致しました」
九天が扉を叩けば、すぐさま中からどうぞと澄んだ声が聞こえる。
扉が開き足を踏み入れれば、室内には明るい灯火が輝き、衝立や小さな文机など瑞らしい調度品が置かれていた。
かすかな白檀の香りが漂い、広い部屋の中央には葵が端座している。
太い柱を背にした葵は指をつき、ダリウスに向けて深々と平伏した。
「ようこそお越しくださいました、ダリウス陛下。この花嫁選考の初日にわたくしの部屋をお選び頂き、恐悦至極に存じます。昨夜はご挨拶も満足にできず、見苦しくわたくしの要求を押し付けるだけになってしまったことを深くお詫び申し上げます」
後宮で王を迎えるのだから夜着が通例だが、事前に話をしたいだけだと伝えていたため、葵は五枚重ねの美しい瑞の衣装をまとっていた。
整った卵形の小さな顔にきりりとした黒い眉、切れ長の瞳。
紅をさした唇は艶やかで衣も華やかだが、全体の雰囲気は不思議と控えめで慎ましい。
上げられた面は一目で心を奪われてもおかしくない美しさで、素直に国の誇りとなるような美少女だと感心した。
だが一瞬だけダリウスと視線を合わせたその顔は蒼白で、金紅眼から逃れるようにさっと目を伏せる。
それ以降は頑なに視線を合わせようとせず、床に置かれた指先は小刻みに震えていた。
どう見ても怖がられているが、これまでの見合いで慣れた反応なのでむしろダリウスの方が落ち着きを取り戻してしまった。
なるべく優しく、穏やかに、と心の中で唱え用意されていた座具に腰を下ろす。
「怯えなくてもいい。今夜は少しあなたと話がしたいと思い邪魔をさせてもらったのだ。九天を最後まで同席させるから安心して話をしてくれ」
「え?」
葵が弾かれたように顔を上げ、ダリウスはどうしようかと迷った末に微笑んだ。
ダリウスの微笑みは高確率で人に恐怖をもたらすのだが、予想どおり「ひっ!」と悲鳴を上げられ少々落ち込んでしまった。
なぜこんな反応をされてしまうのか。むしろ怒った顔をした方がいいのだろうかといつも悩んでしまう。
しかたないので笑みを引っ込め、ダリウスは真顔で切り出した。
「昨夜は騒がせてすまなかったな。あなたの優しさや心正しさでニーナは無事だったし、我々ラージャム王宮の者も何事もなく事件が収まり本当に感謝している」
「あ、は、はっ……」
こんなにたくさん人語をしゃべるのか、と言わんばかりの驚きも毎度のことだ。
相変わらずダリウスの眼を見ようとはしないが、少し緊張が解けたようで葵はほっと小さく息をつく。
「あ、あの、陛下。九天様がご同席なさるとのことですが、わたくし、今宵は陛下と二人だけでお話がしとうございます。お許し頂けますでしょうか?」
「……は?」
さて何を話そうかと考えた矢先に言われ、次の言葉が頭からすっ飛んでしまった。
葵の言葉の内容に理解が追いつかず、しばし沈黙が流れる。
誰も何も言わないまま数秒がたち、葵が意を決したように再度繰り返した。
「陛下と二人きりでお話しする時間を頂戴したく存じます。できれば一刻ほど」
「え!? 長っ!!」
うっかり本音を口走ってしまった。
だが実際に三十分も会話は続かない。葵と二人きりでは三分後には沈黙必至だ。
自分には無理だとこれ以上ないほど確信できるのに、何を思ったか九天が嬉々として立ち上がる。
「了解です! それではお邪魔虫は失礼させて頂きますね。葵様がお話ししてくださる覚悟をお持ちなら心配はしません! がんばってください、陛下!」
「なに!? ちょ、ちょっと待て九天!」
止めようにも「ごゆっくり~!」と走り去られ、部屋はあっという間に二人っきりになってしまった。
(絶ッ対無理だろう!?)
この時点で何を話せばいいのかさっぱり分からない。
まだ同じ部屋に九天がいてくれると思えば言葉も出てくるが、完全な二人きりだ。夜の密室に美少女と二人きりだ。
「陛下」
葵の声にビクッとしてしまい、身を乗り出していたダリウスは慌てて座具の上にちゃんと座り直した。
「あ、ああ! えっと、その……、取り乱してしまって済まない。──ああそうだ! 大広間での挨拶で壁など蹴って申し訳なかった! あれは実は虫がいたんだが、後で九天に怒られて後宮の女性達を……」
「陛下。どうかわたくしの無礼をお許しくださいませ」
「え?」
唐突に会話を遮られ顔を上げると、なぜか葵の目線が高い。
衣擦れの音もなく、身じろぎする気配すらなく、いつの間にか葵が立ち上がっていたのだ。
「陛下のお優しさについて、ニーナからとくと伺いましたわ。とても素晴らしい方だと」
「え? あ、いや、その……」
ニーナにそう認識されているのは嬉しいが、目の前に立つ葵はどこから取り出したのか太い縄を手にしている。
彼女の細腕には扱いづらいのではないかと思うほど頑丈に縒り合された縄で、その片端を目で追えば葵の真後ろにあった木の柱に結びつけられていた。
「ニーナの話を全て真に受けるわけではありませんが、そのような陛下なら事情をお話すればお許し頂けるのではと思い、覚悟を決めました」
「え、は?」
「どのみち後はありません。罰ならば瑞国や父にではなくどうかわたくし一人に。わたくし、この件が成就されないならば命を絶つ覚悟でございますゆえ」
「は?」
なんか、話が、よく分からんが。
葵が手にしているこの縄は……。
「失礼致しますわ────────────ッ!!」
「私を縛る縄かあああああああああああっ!!」
叫んだ瞬間、「キェ──ッ!!」という到底葵の口から出たとは思えない武闘派な掛け声が響き、ダリウスの身体に衝撃が走った。
投げられた縄の端には分銅がつけられていたらしく、とんでもない速さで上半身に巻きついてくる。
力も反射神経も判断力も並外れて高いダリウスだが、これには対処できず無抵抗のままぐるぐる巻きにされてしまった。
さらに葵は隠し持っていたもう一本の縄でダリウスの両足首を縛り上げる。
身動きが取れず、床に転がされたダリウスは必死に顔を上げた。
「な、なんだこれは!? 葵、この縄はいったい!?」
「非力なわたくしが陛下を捕らえるためにご用意させて頂いたものでございます。陛下の立ち居振る舞い、広間で拝見した無駄のない足運び、お衣裳の上からでも察せられる筋肉の動き。どれをとっても一流の武人であらせられます。わたくしごときが陛下の動きを封じられるわけがございません」
先ほどまで青ざめて震えていた少女と同一人物とは思えない。
怖ろしいほどの無表情で淡々と語り、葵は部屋の柱にしっかりと綱を結び付けていく。
彼女は何かサバイバル術でも学んだのだろうかと思うほど素早く、簡単に外れない見事な結び目だ。
「葵、こんなことをしてどうするつもりだ! くっ、外れない……!」
「無駄な抵抗はおよしになって、陛下。この縄はわたくしの兄を縛るために作られた特注のものです。熊でも解けない代物ですので逃れることは不可能ですわ」
「君の兄は何者だ!?」
なぜそんな縄を特注しなければならないのだ。
何が起こっているのか全く分からない。
足まで縛られては芋虫のように逃げることしかできず、パニックになりながら九天を呪った。
(どういうことだ九天っ、葵は心優しい良家の子女で常識人ではなかったのか!?)
これが常識だと言うなら非常識はいったいどうなる。
もがくダリウスにかまわず、葵はすらりと纏っていた衣装を肩から落とした。
瑞の女性ならば、「あられもない」と叱咤されるであろう白の単衣に紅の袴姿だ。
「陛下。わたくし、あなた様の花嫁になりとうございます」
「なに!?」
「どうか今宵、わたくしと一夜をお過ごしくださいませ……! この一刻で済ませますわ!」
「短っ!!」
さっきの「長っ!!」は取り消させてもらおう。
もし葵が本気なら圧倒的に時間が足りない。そんなにさくっと終わっていいことではない。
「ま、待ちなさいっ葵! こんなことをしてはいけない、もっと自分を大事に……!」
「後悔はいたしません。お召し物を失礼いたしますわ」
「わ────ッ! やめなさい、失礼してはいけない! 九天、どこにいる!? 九天ッ、来い、九天──────────っっ!」
思いっきり絶叫した瞬間。
「陛下ッ!!」
「葵ッ!!」
硝子が砕ける派手な音と扉を叩き壊すような重い音が響き渡り、同時に叫び声で部屋が振動した。




