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于吉仙歌  作者: 厠 達三
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12話

 周平が黒飛蝗を退治した泰山の戦いからひと月、干毒黄巾党はやっと戦後処理も目処が立ち、再び活動を開始した。とはいえ、明確な目標や目的地があるわけではない。彼らは中華に居場所をなくした流民であり、国家に反逆した犯罪者集団でもある。歩みを止めることは許されなかった。毎日のように夥しい数の信者がバタバタと倒れた。それを弔うことさえできなかった。皆が疲れきっていた。飢えていた。ひもじかった。絶望していた。干禁、周平も同様に、重い足を引き摺りながらも、民を守るために殿を務めていた。このときに官軍の攻撃を受ければひとたまりもなかっただろうが、それがなかったのは幸運という他ない。しかし、その幸運に気付くほどの余裕もなかった。その日を生き延びるだけで精一杯だったのだ。死にゆく者と同じくらい、落伍者も大勢いた。日、一日と兵士の数も減っていった。沈伸、朗郎も行方知れずとなった。あるいは逃げたのかもしれないが、むしろその方が良かったのではと周平は思った。

 ある夜のことであった。焚き火を中心に兵士が皆、横になっていた。周平以外は皆、疲れ果て、眠っている。周平だけがただ一人、眠るでもなく、なにか考えるでもなく、じっと火を見ていた。火の傍には干毒が座っていた。干毒は髪も髭も伸び放題に伸び、白い物も混じり、黄巾を頭に巻き、一人、火の番をしているその姿は仙人のようであった。

「なにも信じるな」

 干毒は独り言のように呟いた。それとも、周平の目が開いていることに気付いていたのだろうか。

「決して、何者も信じるな。張角も、太平道も、天子も、儂も、決して信じるな」

 再び干毒が言った。干毒は儂と言った。

「信じられるのは自分だけだ。自分以外の者に己の判断を委ねるな。決して自分以外の者に信など置くな」

 今度は言って聞かせるように言った。周平はただじっと火と、その傍に座る干毒を見ていた。いつの頃から干毒は自分を儂と言うようになったのか。昔は私と言っていたように思う。

 その夜のことを、周平はよく覚えてはいたが、それが夢か現だったかは判然としない。ただ、干毒はなにも信じるなと、周平に言い聞かせていたような気がするのだ。

 やがて一行は青州、琅邪郡で悪名を轟かせることになる。彼らは食料を得るため、干毒の指揮の元、小さな城に狙いを定め、略奪を働くようになったからだ。その方法はまず、昼の間に密偵を忍び込ませ、城内の構造を把握。更に城の戦力、守備隊のスケジュールまで綿密に調べ上げる。そして計画を練り、予め忍び込ませていた密偵が内側から火を放ち、そのドサクサに紛れて実働部隊が突入し、穀物倉から運べるだけ食料を運び出す。と、まあ、火事場泥棒に毛の生えた程度の悪行ではあったが、久方ぶりの大戦果に干毒黄巾党は大いに沸いた。これを勝利と呼ぶのなら、まさしく彼らは連戦連勝といえた。調査から作戦立案まで時間をかけ、失敗の可能性を事前に摘む。干毒が積極的に計画を立ててくれるのでまず間違いがない。なまじ武装した商隊や輸送隊を襲うよりもずっと安全、確実だった。こんなことを二年も続けると小さな城を襲うだけでは追いつかなくなり、略奪の規模と頻度は自然、増してゆき、干毒黄巾党は巨大化した。こうして、青州の干毒。河西の郭太。益州の馬相。白波の楊奉。南陽の劉辟、龔都ら、各地で活動する黄巾党の頭目は黄巾六頭目と呼ばれ、恐怖の対象となった。更に干毒はやはり北海で活動していた別の黄巾党と合流し、中平五年、軍事行動を起こしたのだ。その黄巾党を率いる男は名を、

 黒雷雲。

 と、いった。

「干毒先生も張角様が死なれてから随分変ったねえ」

 信者の女がそんなことを言った。確かに、干毒は官軍を撃退する以外、軍を動かそうとはしなかったし、略奪行為は尚更ご法度だった。しかし、あの黒飛蝗の襲撃以来、干毒は近隣の県城を襲い、その悪名は青州全土に轟いている。しかもその青州で今度は軍事行動まで起こそうというのだ。黄巾の乱が起こった当初では考えられない豹変ぶりだ。が、周平は干毒が豹変したのは張角が死んでからではなく、皇甫嵩が更迭されてからではなかったかと思い起こした。

 この頃になると干毒黄巾党の兵力もかなりの規模となり、黒雷雲と合流を果たすと万に届く数となった。しかしこの黒雷雲が曲者で、干毒を弟と呼ぶ一方で、抱える兵力に色気を出すような男である。更に北海での軍事行動に繋がる主張をしたのも、この黒雷雲であった。本名とも思われず、黒雲のように蓄えた髪と髭からきた通り名であろう。その大男は弁舌滑らかに言った。

「我ら黄巾の民は大賢良師の遺志を継ぎ、各地で活動しておるものの、散発的な破壊活動に終始し、展望もなければ民を養う術もない。毒師よ。ここは共に手を取り合い、この中華に我らの理想郷を打ち立てようではないか。権力におもねり、私腹を肥やす執政官を打倒し、そこを黄巾の約束の地とするのだ」

 要はどこぞの国でも攻め取って自分の物にしようという話ではないか。それをよくもまあ、ここまで美辞麗句で飾れるものだと周平達は呆れたが、意外にも干毒はその話に乗った。黒雷雲の舌鋒に打たれた訳ではない。拠って立つ地の必要性は干毒も認識しており、北海国には黄巾の入り込む余地がまだあったのである。また、都洛陽では宦官と外戚勢力が熾烈な権力闘争を繰り広げ、官軍に黄巾党の鎮圧命令が出ることはなかった。その隙を突き、干毒は北海国の執政官、

 孔融。

 という男の治める領地を乗っ取るべしと黒雷雲に吹き込んだ。孔融は孔子二十代の子孫にあたるという名士であり、民衆の人気もそれなりにあったが、文学肌の人物である。政策はどこか現実離れしており、軍事に関してはなお、凡庸だった。それでも民の不満が出ないのは先祖のご遺徳というところか。これなら短期間で勝負を決する可能性は高く、周囲の郡県も治まっているとは言い難い。実現可能な乗っ取り作戦に黒雷雲は身震いして干毒の手を取った。

 が、出足から躓くことになる。序列は黒雷雲が大将。干毒が副将で落ち着いた。これは黒雷雲が干毒より位が上の渠帥だったためなのだが、兵力は干毒黄巾党の方が大きく、また、黒雷雲の用兵の不味さは青州でも有名であった。にもかかわらず黒雷雲は軍の指揮権を頑なに主張し、結局双方の指揮権を維持する形で決着したが、全体の方針は黒雷雲が決めるという、訳の分からぬ指揮系統になってしまった。これが後に軋轢を生む。かくして彼らは青州黄巾党として旗揚げしたものの、やはりその軍事行動はちぐはぐだった。猪突する黒雷雲が孔融軍に押し込まれ、堪らず退却すると、そこを周平の伏兵部隊が痛撃し、辛くも勝利を得た。

「みどもの偽りの退却に見事、引っ掛かりおった。毒師よ、礼は要らぬぞ」

 黒雷雲は舌だけは滑らかだ。

 対陣する孔融軍を攻撃するべきか黒雷雲が逡巡している間に干禁がさっさと攻め込み勝負を決めてしまえば、

「対岸で敵を釘付けにすれば、拙速も奇策となる。これぞ兵法の妙の妙なり」

 妙なのはお前の頭だ、と、干禁、周平らは完全に辟易していた。つまりはこういう人物だったのである。しかし干毒はそんな黒雷雲もそれなりに利用して、三歩進んで二歩下がりながら、北海国を侵攻してゆき、孔融を青州の東端、臨城にまで追い込んだものの、さすがにここまで来ると孔融も必死の抵抗を見せ、籠城戦は半年にも及んだ。双方には疲れが、そして青州黄巾党には焦りが募り、黒雷雲も苛立ちを隠さなかったが、干毒が宥め、何とか士気を維持していた。中山国と同様、ここでも干毒になびく黒雷雲の配下が多くいたため、両者には微妙な空気が流れ始めていたのだ。

 周平が部隊を率いて何度か臨城の城門に攻撃を仕掛けるが孔融は守りを固め、突破できる隙は見当たらない。どうやら、したたかな軍人が籠城戦を指揮しているようである。この日もたいした戦果はなく、日が暮れていった。周平は憮然として本営に戻った。すると珍しく、その晩は干禁隊も休息していた。二人は久方ぶりの同宿で、酒などを酌み交わした。

「珍しいよな。俺達が揃って戦場に出ない日ってのは」

 周平が酌をしながら干禁に言った。

「そうだな。ここのところ、ずっと干毒先生の軍が出ずっぱりだからな」

「そのことだ。なんで黒雷雲の野郎は自分の軍を出さず、俺達ばかりに城攻めを押し付けてる」

「言わずもがなだ。自分の軍は温存して、北海を手に入れた後の主導権を握りたいんだろう」

「糞。先生が下手に出るのをいいことに、貧乏クジばかり引かせやがって。戦下手のくせに、そういう知恵はよく回りやがる」

 周平は管を巻きつつ酒を呷った。干禁も冷静ではあったが、鬱憤は溜まっているようだった。

その夜は不味い酒も手伝って、二人は深酒してしまい、眠りについた。すると夜も明けきらぬ内に騒ぎが起こった。

「伝令だ」

 二人は慌てて飛び起きた。援軍を請う孔融の伝令は何度かあった。それを厳重な包囲網で潰していたのだが、籠城戦が長引くと綻びも出てくる。黄巾の疲弊を突き伝令を出したのである。

 二人は押っ取り刀で野営地から飛び出し、騎乗して騒ぎのある方に駆けつけると、そこは黒雷雲の陣営であった。辺りには打撃痕のある兵士が複数地面に転がっている。二人が何があったのか、まだ息のある兵士に問いかけると、二本角の兜の武将にやられたのだという。二本角はそのまま包囲を突破。黒雷雲の兵士も阻止しようとしたが恐ろしい腕前で、悉く返り討ちに遭ったという。

 干禁、周平は直ちに追跡を開始。遅れて筑も配下と共に駆けつけたが二人の馬術についていけなかった。二本角が駆け抜けたと思しい場所には黒雷雲の兵士が点々と倒れている。頭を割られ絶命した者、うずくまって悶絶している者などがいる。一体、二本角とは何者だろうか。二人は馬を飛ばした。暫く走ると黒雷雲の追っ手を振り切る騎兵が見えた。頭に角が二本生えた兜。あの騎兵に間違いあるまい。干禁は槍を構えて二本角の左側面につけ、突きを放った。が、二本角は馬を巧みに操りこれを躱す。干禁は攻撃の手を緩めなかったが、不用意に放った突きの一発を二本角は見逃さなかった。穂先の根元をはっしと掴むと、そのまま力比べに持ち込んだ。干禁は両の手で槍を引き抜こうとするも二本角はびくともしない。すると不意に、干禁の槍がばきりと折れた。一体どんな手を使ったのか分からないが、干禁は無手となり、距離をおいた。

「糞。周平、頼む」

 応と周平が叫び、入れ替わりに二本角に剣を叩き込む。が、金属音と共に暗闇に火花散り、周平の剣は弾き飛ばされた。唖然として二本角の手元を見ると左手に鉄鞭を握っていた。剣ほどの長さの鉄棍だが、表面に凹凸があり、打撃力が増す工夫がなされている。これだ。この武器に兵士達はやられ、干禁の槍も叩き折られたのだ。しかも楊白狐と同じ左利き。ただの伝令と思って侮っていたがとんでもない。ひとかどの武人だ。その武人を前に二人は無手となり、途方に暮れながら二本角の後を追う。せめて筑らが追いついてくれれば、そう思っていると前方に断崖が見えてきた。この断崖なら二人もよく知っている。臨城の北西にある数キロにも及ぶ崖だ。ここを越えるには大きく迂回しなければならない。なんとかなるかと二人が安堵しかけたその時だった。二本角は速度を上げ、断崖に飛び込んだ。自殺行為だと二人は思ったが、二本角は急な斜面を見事な手綱捌きで駆け下り、その姿は正に人馬一体。とうとう底の沢に辿り着いた。二本角は崖の上で呆気に取られる干禁、周平をちらと見やると、軽く手を振り闇の中に消えて行った。二人にはまるで現実感がなかった。この二本角、名を太史慈という、歴史に名を残すほどの武人なのだが、二人は当然知る由もなかった。

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