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于吉仙歌  作者: 厠 達三
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13話

 本営に戻った二人は案の定、黒雷雲の叱責を受けた。別に二人だけが責められる筋合いもないのだが、この男にそんな理屈は通じない。ここぞとばかりに干禁、周平と共に干毒も槍玉に挙げた。

「なんたることだ。ここにきて孔融の伝令を許すとは。これでこの北海には中華十三州から続々と援軍がやって来るぞ。そうなれば今までの艱難辛苦も水の泡だ。この失策は大きいぞ。毒師よ、一体どう責任を取るおつもりか」

 何おっ。と、周平が掴みかかろうとしたが干禁の指示で筑らが押さえ込んだ。それを見た黒雷雲がふんと鼻を鳴す。

「ほれ見たことか。伝令を取り逃がしておきながら、反省するどころか内輪揉めさえ起こすような信徒に一軍の将を任せておいでだ。毒師は余程、人を見る目がおありと見える。鶏を飼うのなら、きちんと籠に入れておかれよ」

 筑らの下敷きになった周平がなおも喚くが、干毒は理詰めで黒雷雲の矛先を躱す。その根拠は現時点で青州に援軍を出せる余裕のある勢力が近隣にないこと。援軍が来たとしてもその規模は大きくはなかろうというものだった。それで納得する黒雷雲ではなかったが、ひとしきり干毒への恨みつらみを言いあげると、やがて言うこともなくなって退席した。

 その後も籠城戦は続いたが、黄巾の足並みは揃わず、戦局が膠着したままひと月が過ぎ、ついに孔融の援軍が到着してしまった。その援軍は干毒の読みどおり、規模は三千になるかならないかというものであった。そのお粗末な陣容に黒雷雲は破顔したが、その軍の素性はさすがに干毒も予想できていなかった。

 中規模の軍でも兵士は精強。統率はお世辞にも取れているとは言い難いが、率いる将がでたらめに強く、青州黄巾党は各個撃破されていった。その援軍が掲げた旗には劉の一字。あの大興山の戦いで相見えた劉備三兄弟、劉備玄徳の軍であった。青州黄巾党に劉備軍との戦いを経験した者は殆ど残っていなかったが、その評判は天下に鳴り響いている。情に篤く義を重んじる、漢王室の傍流。もっとも、評判に尾鰭が付いていると見る向きもあったが、多くの者が劉備軍に恐れをなしていた。が、干禁、周平は武者震いした。大興山の戦いからおよそ五年。その間、自分達も成長したとの自負がある。己の実力を試すときがきたと。

 青州黄巾党は二手に分かれて劉備軍を迎え撃つべく布陣。双翼部隊は関羽に当たることとなった。序盤戦は数に勝る黄巾党が有利に進める。長期戦で疲弊してはいたが、昼夜兼行で北海に駆けつけた劉備軍も同様である。双翼の運動戦には劉備軍も対応できず、次第に数を減らしていったが、あの狂信的な強さは健在。黄巾党の被害もまた小さくはなかった。戦端が切られてから五日あまり、ついに関羽が動く。自ら前線に出て味方を鼓舞すると共に黄巾党を血祭りに上げた。この報せを聞いた双翼も関羽を迎え撃つべく出撃。ついに戦場で対峙すると、二人は自分達の甘さを思い知った。戦場の中で一騎、敵、味方を睥睨する関羽の姿は山の如し。その武威に耐え切れず歯向かう者は容赦なく青龍刀で両断された。実際にその目で見れば、自分の力を試そうなど、若気の至りである。だが、戦場で会ってしまえばそんな泣き言は通用しない。劉備三兄弟に対抗できるのは黄巾党では双翼以外、ないという空気が漂っていたのだ。

 関羽の迫力に二人は完全に呑まれていたが、先に動いたのは意外にも干禁だった。

「関羽ッ。干毒黄巾党の禁鷲翼を知っているか」

 干禁が名乗りを上げて関羽に打ち掛かった。周平はといえば足が竦んで動けない。それだけに危ういと思った。普段冷静な干禁が明らかに浮き足立っている。なんの勝算もないままに向かって行ったようにしか見えず、事実、そうであった。

 干禁は一撃必殺を狙い、槍を構えたが突然関羽の青龍刀が轟音と共に飛んできた。すかさず干禁、構えを切り替え防御体勢をとり、間一髪、青龍刀を防いだものの、その強烈な一撃に干禁の体は馬の背から投げ出された。地面に落ち、干禁が立ち上がるよりも先に、関羽が眼前に馬を止めた。

 神。

 遥か昔、天地、自然、生き物の全てを神は創ったが、それを残酷に破壊し、命を奪うのもまた、神の仕業である。そんな話が、太平道の教義にあっただろうかと、干禁は記憶を辿った。そして今、関羽は干禁の命を刈り取るべく、馬上で断罪でも下すかのように、青龍刀を上段に構えた。干禁は死を覚悟した。が、次の瞬間、周平が干禁の名を叫びながら、鬼の形相で突っ込んできた。

よせと干禁は思ったが、時すでに遅く、周平は関羽の射程圏に踏み込んでいた。その不遜な闖入者の首を撥ねるべく関羽はどん、と青龍刀をそのまま水平に薙いだ。周平は馬の背に体を預け、剣で迎撃。甲高い音と共に周平の剣が弾き飛ばされた。だが、それは織り込み済みのことだ。あまりに軽い手応えに関羽の表情が一瞬、曇る。もとより周平に関羽と打ち合う気など毛頭ない。予め剣の握りを甘くして関羽の打ち込みに合わせたに過ぎない。そのまま周平、関羽の脇をすり抜け、空いた右手で干禁の腰紐を掴むと一気に離脱。遁走した。

 関羽は追っては来なかった。それが余裕か、武士の情けかは知らないが、兎に角二人は九死に一生を得た。干禁を引き摺る周平の腕にまだ関羽の一撃の余韻が残る。剣を軽く握っていなければ、干禁を助けることも適わなかったかもしれない。その一撃を防いだ干禁もたいしたものなのだ。干禁の敗北を目の当たりにしたからこその機転だった。もう周平はなにもかも嫌になった。戦争も革命も、命の取り合いも、武人の夢も、全ての争い事に嫌気が差した。自分ごときがどれほど戦場を駆け回ったとしても、関羽の武には到底届かないだろう。このとき、周平の武は関羽に殺されてしまった。そして干禁もまた、関羽によって心の奥底に楔を打ち込まれていた。

 双翼が関羽を前に逃げ出したという噂はたちまち陣中に知れ渡り、士気の低下は著しく、青州黄巾党はズルズルと勝てない戦を強いられた。このとき、孔融が城から打って出れば彼らはひとたまりもなかっただろうが、幸いなことにそれはなかった。それが孔融軍の台所事情か、孔融の性向かは知らないが、これ以上の戦闘の継続は無意味だった。青州黄巾党の戦力は壊滅的な打撃を受けたが、劉備軍も疲弊の極みに達していた。干毒は青州侵略を諦め、?州に退くことを決断。それに反対する者は皆無だったが、やはり一人、戦をやめようとしない男がいた。無論、黒雷雲である。

「あと一歩というところまで孔融を追い込んで撤退だと? なにを血迷っておるのか。ここまで払った犠牲、黄巾の尊い命を毒師はなんとお心得か。これは聖戦である。敗北は自らの存在意義の喪失を意味する。たとえ最後の一兵となろうとも、敗北が目に見えていようとも、前進をやめることは許されぬのだ」

 黒雷雲は口角泡を飛ばし、机を叩いて怒鳴り散らした。反論する者は一人もいない。もう、そんな無駄なことをする気力もなかった。自分の不利と敗北を認めないのがこの男の長所であり、致命的な短所でもあった。干毒はこれ以上の損耗の無意味と、軍の戦意喪失を訥訥と説明したが、そんな正論が通じる男ではない。

「戦う者がいない? ここにおるではないか。みどもは一人でも戦うぞ。いや、一人で逃げ出す者こそ毒師であろう。逃げたくば逃げられよ。青州黄巾党はみどもが導く」

 黒雷雲がこんな言い回しをするのは、黒雷雲の軍もまた劉備と張飛によって甚大な被害を受けたからである。現実的に戦闘の継続は不可能だったし、それを望む者もいなかった。干毒の主張は青州黄巾党の総意でもあったが、ただ一人、トップがそれを頑なに拒んでいたのだ。

「そもそも北海を取ろうと言ったのは毒師ではないか。みどもは黄巾のためを思えばこそ、多大な犠牲を払いながらも毒師の口車に乗ったのだ。然るに毒師はそれを無益だとして退却とは何事だ。みどもは知っておるぞ。毒師はみどもの信者を自分の物にしようと画策しておったことを。戦でもみどもにばかり危ない橋を渡らせていた。それでもみどもは民のために、ぐっと堪えた。ひとえに黄巾の未来という大義があったればこそだ。その大義以上に大事な物が毒師にはおありか。そうか。今、分かったぞ。毒師は太平道を私するおつもりかっ」

 なにおっ。と、周平はいきり立ったが、それを干毒は制した。周りの者は長広舌に疲れ果て、しらけきっていたが黒雷雲は最高潮。独演会は延々と続いたが、干毒はじっとその時が来るのを待っていた。建前を並べ外堀を埋めると、さあ、これから干毒の人格攻撃を心おきなくしてやるぞと、黒雷雲が舌を湿したとき、不意に黒雷雲の頭部が地面に落ちた。背後から前へ出たのは黒雷雲の腹心であった。

「黒雷雲道士は死にました。青州黄巾党は毒師、貴方が導いて下され。殺したのは私です。いかような罰も受けましょう」

 男はそう言うと剣を捨て、その場に跪いたが、いや、それには及ばぬと、干毒は黒雷雲の首を掴み上げ、青州黄巾党の前で宣言した。

「道士、黒雷雲はこの干毒が殺した。今日からこの青州黄巾党は儂の物だ。皆、儂に従え。従いたくなくば去れ」

 かくして干毒は青州黄巾党を乗っ取り、北海国から脱出を始めた。追撃を行う余力は劉備にも孔融にもなかった。この後劉備はどうなったのであろうか。命懸けで孔融の窮地を救ったにもかかわららず、この戦が終わると何事もなかったように平原国に引き揚げ閑職に甘んじている。孔融は青州黄巾党の撃退を評価され青州刺史に推挙されたものの、八年後の建安元年、河北の雄、袁紹に青州を追われている。

 荒れ果てた北海国を後にする青州黄巾党の足取りは重かったが、その空はどこまでも青く澄み渡っていた。周平はその空を見上げた。この青い空の下のどこかに、干禁はいるだろうと。

 関羽に敗北した後、干禁は青州黄巾党から姿を消した。それをなじる者は多かったが、周平は勇敢だと思った。周平も同じ気持ちだったから。だが周平は干毒の元を離れて生きてゆく自信がなかった。戦などしたくもなかったが、一人逃げ出す勇気がなかった。干毒は片翼を失い、残った周平もまた、折れた翼だった。その干毒を残して去ることもできなかった。

 中平五年の、夏も終わりかけた、よく晴れた日だった。足掛け一年をかけた北海の乱は終結。青州黄巾党は?州に落ち延びるべく、列を成した。周平が陰化という娘と出会う、二年前のことだった。

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